#10

 どんなにおかしなものを見たとしても、日が昇れば朝になった。

 僕は、いつものように起きて、歯を磨いてからコーヒーを入れた。昨日、ベッドに入った時には深夜の三時になろうとしていた。

 数えると三時間か四時間くらいしか寝ていない。そのせいか寝不足感があり体が重たかったが、憂鬱さはいつもより幾分マシだった。

 昨日の興奮がまだ体に残っているのかもしれない。

 僕は、コーヒーを飲み干して、着替えを済ますと、車に乗り込んだ。

 今になってみると、昨日の仮面の男たちについては、まるで面白い夢でも見ていたかのような感覚になっていた。危害を加えられたわけでもなく、法に触れる何かをしていたわけでもない。ただただ怪しい二人だった。このことを誰かに話したい気持ちもあったが、どうせ信じてもらえないだろうなとも思った。それに話したところで、それがどんな意味を持つのか。他人が見た夢の話を聞くようなもので、相手も反応に困ることだろう。

 結局僕は、昨晩のことは自分の中にしまっておこうと決めた。

 お店に着くと、いつも通り一番だった。黒いエプロンを着けて、開店の準備を始めた。

 すぐに店長が出社してきた。

「おはよう」

「おはようございます」

「……他の人は?」

「まだ、来ていませんよ」

「遅いな。まったく」

 店長は、ため息をついた。

 どうやら、機嫌がよろしくないみたいだ。瞬時に、店内の空気が固くなった。

「そう言えば、西田。この前入った高校生、全然仕事教えてもらってないみたいだったけど」

「……そうですか」

「いや、そうですか、じゃないだろ? バイトの教育は社員のお前の仕事だろ? 前に言ったよな?」

「一緒に入った時には、教えてますよ」

「そうじゃないんだよ」

 店長は、椅子に座わり、背もたれが折れてしまいそうなほど大きく仰け反った。そして、体制を戻すと、僕を睨みつけるようにこちらに視線を向けた。

「いいか。西田。教えるっているのはな。ただ、伝える、だけじゃダメなんだよ。そいつができるまで、付き合ってやるんだよ。分かるか?」

 僕は、返事をせずに黙った。

イライラして言葉が出なかったのだ。

「聞いてるのか?」

「はい」

「ただ、言いました、とか、教えました、ではダメなんだよ。相手がきちんと理解するまで指導してやるんだよ。分かったか?」

「……分かりました」

 僕は、これ以上店長の声を聞きたくなかったので、「掃除してきます」と言って、店の外に出た。

 まだ、仕事が始まってすらいないのに最悪の気分だった。どうせ、仕事とは関係のないところで上手くないことがあったのだろう。そのイライラを仕事で発散しようとしているのだ。店長とは、なんとお気楽な立場なのか。

 気分とは裏腹に、外の空気は冷たくて心地良かった。

 僕は、気持ちを落ち着かせるために何度か深呼吸をした。すると本当に少しイライラが収まったような気がした。

「おはよう! 早くから精が出るね」

 顔を上げると、飯田さんだった。

「おはようございます」

「いつも早いね」

「目が覚めちゃうんですよ」

「今日は、西田君が出勤だから、俺も早く来てみたんだけど。負けちゃったな」

 飯田さんは、そう言って笑った。

 それから、少しだけ立ち話しをした。

 他愛もない時間だったが、そのおかげで、僕は店長にごちゃごちゃ言われたことを忘れることができた。

 開店の時間が近づき、早番のシフトのスタッフが続々と出社してきた。

 僕も、店前の掃除を終えると、店内に戻った。

 時間になると朝礼が始まり、店長が、「最近、提供が遅い」とか「接客の態度が良くない」とか、いくつか嫌みを言い、みんなが生返事をした。

 今日の午前中のスタッフは、店長と僕と飯田さん、それと、主婦のパートが二人の五人体制だった。

 開店と同時に、十数人の客が流れ込んできた。

 手を動かしながら、飯田さんが小声で話しかけてきた。

「なんかさ。今日、店長機嫌悪いな」

「……そうですね。なんかあったんですかね?」

「まあ、店長と俺は同じ年くらいだから、良くわかるんだけど、この年になると、いろいろあるんだよな」

「でも、飯田さんは、あからさまに不機嫌にはならないじゃないですか」

「まあな。俺は、立場的にも気楽だからね。店長は、ほら、責任もあるだろ」

「そういうもんですかね」

「だけど、西田君にとっては、迷惑な話だよな。何かにつけて、君に言ってくるだろ?」

「そうですね」

 飯田さんは、話をしながらでもテキパキと手を動かして、次々オーダーを処理していった。

「でもさ。西田くんも、店長見習って、時々は、感情を表に出していいんだぞ」

「そこを見習ってもいいんですかね?」

 僕は、飯田さんが冗談を言っているかと思い笑った。

「冗談ではなく、ほんとうに」

 飯田さんの顔を見ると、いつも以上に真剣な表情をしていた。

「我慢のし過ぎだね」

「そうですかね」

 飯田さんは、少し考えてから「ごめん。余計なこと言ったね」と言った。

「いえ」

「まあ、とにかく、お互い無理しないってことで」

 そう言って、飯田さんは、僕の肩を軽く叩いた。

 そのあと、僕は、淡々と注文を受けては、コーヒーを入れたり、サンドイッチを作り、客が席を立てば、レジ打ちをした。相変わらず、客は多かった。

 僕は、作業をしながら、飯田さんの言っていたことについて考えていた。

 我慢のし過ぎ。

 僕は、我慢をしているのだろうか?

 確かに、嫌な事があったり、イライラしたりしても何かにあたったり、感情を吐き出したりすることはない。かといって、我慢をしているようにも思えなかった。ただただ時間が流れているのを眺めているだけ。そんな感覚だった。

 今日も、いつもと同じように、作業を繰り返していくことで、刻々と時間は過ぎていった。

 時計が十一時を回った頃、ようやく休憩に入れた。

 お茶を一口飲むと、まるで乾いたティッシュが水を吸い上げるみたいに、体にすんなりと吸収されていった。

「今日もお客さん多いね」

 飯田さんも同時に休憩に入った。

「ほんとですね」

「繁盛するのはいいことだね」

 飯田さんは、冷蔵庫からコーラを取り出すと、グイグイ飲んだ。大きく息をついて「たまらなく上手いね」と言った。

 僕は、何気なしに、手帳を開いて、予定を確認しながら――次の休みまでは後四日もあった――カバンからスマートフォンを取り出した。

 知らない番号から二件着信が入っている。電話番号を、グーグルで検索してみると、市立病院からだった。

「なになに? なんかあったの?」

 飯田さんが言った。

「なんか、病院から電話来てます」

「なに? 病院通っているの?」

「いえ、久しく病院なんて言ってないですけど」

 僕は、病院から電話が来た理由を考えてみたが、思い当たることもなく、とにかく掛けなおしてみようと思った。ボタンを押して、スマートフォンを耳に当てた時、コール音を聞きながら、手がかすかに震えているのを感じた。そこで初めて自分が、多少は動揺していることに気がついた。

「はい。市立病院です」

 女性の声だった。

「あの……。先ほどお電話いただいたみたいなんですが」

「すみませんが、お名前お聞きできますか?」

「西田恭平です」

「ありがとうございます。それでは、確認致しますので、少々お待ちください」

 保留音が鳴る。オリビア・ニュートンジョンの《そよ風の誘惑》だった。

 一分程待って、今度は違う女性の声が電話に出た。先ほどよりも幾分ハキハキした声だった。

「すみません。折り返しありがとうございます。看護師の沢村です。西田さん、お忙しとは思うのですが、今から、こちらにお越しいただく事はできませんか?」

「はあ。今仕事中なんですが」

「西田智恵子様が、先ほど当院に救急搬送されまして」

「母がですか? どうしたんですか?」

「道路で倒れている所を発見されて、現在は当院におられるのですが、脚の骨が折れてしまっている状態でして、このまま数日間ご入院になるかと思います」

「そうですか……」

 僕は、一瞬持ち上がった心臓が落ち着くのを感じた。

「手続きなどのために、お越しいただけませんでしょうか?」

「えっと……」

 僕の頭によぎったのは、午後のシフトだった。

 今日は店長が一日いる日だから、なんとかなりそうではあったが、午後は今より人が少なくなる。そのうえ、僕まで抜けてしまうとなると、かなりきついような気がした

「西田君、電話中ごめんね。一回保留にしてくれる?」

 ずっと、僕の電話心配そうに見ていた飯田さんが声をかけてきた。

 僕は、断ってから保留ボタンを押した。

「ごめんね。聞こえちゃったんだけどさ。お母さん、今、病院なの?」

「なんか、骨折したみたいです」

「店長には、僕から言っておくからさ。今すぐ行きなよ」

「……でも、大丈夫ですかね?」

「大丈夫に決まっているじゃん。何が心配なの?」

「いや……午後は、人が少ないから」

 飯田さんは、ふいに猫騙しをくらったみたいに、一瞬動きが止まった。

「そんなこと気にしてたの?」

「え?」

「西田君は、ほんとなんというか、まじめというか……なんというか、まじめだね」

「はあ」

「とにかく、いいからさ、あとは僕たちに任せて。午後に人手が足りないなら、僕が午後も出るからさ。大丈夫だから、とにかく、行きなって」

 飯田さんは、僕の両肩をつかんで、揺らした。

 飯田さんには、助けられてばかりだなと思った。

「すみません。そしたら、お願いします」

「いいの、いいの。気を付けて行くんだよ」

 僕は、保留を解除して、病院に今から行くことを伝えた。エプロンを取ってカバンに詰めた。

「飯田さん。ほんとにありがとうございます!」

 僕は、深くお辞儀をして、店を出た。

 車に乗り込んでエンジンをかける。こんな昼間に仕事を終えていることに、ひどく違和感があった。

 病院に向かって車を走らせている時に、本当に早退して良かったのだろうか、という思いが、頭の中を漂っていた。冷静になって考えれば、自分の母親が救急搬送されたと聞いて、仕事を中抜けしたことを誰も咎めないだろうと思う。例えば、他の誰かが自分と同じ状況になった時、きっと僕も飯田さんと同じ対応することだろう。しかし、どこかでは仕事を早退したことへの申し訳なさや、不安感があった。「気にしなくて良い」と自分に言い聞かせてみても、なかなか消えてはくれない。それは、コーヒーカップの底にこべりついたシミように、爪でひっかいても取れそうになかった。

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