#4

 次の日の朝、目覚まし時計よりも早く目が覚めた。まだ六時だった。

 とりあえずベッドから出て、歯を磨いて、コーヒーを入れた。僕は、出勤する前には必ずコーヒーを飲む。これから嫌というほどコーヒーの匂いをかがなくてはいけないのに、わざわざ自分でもコーヒーを入れる。別にコーヒーが好きというわけでもない。なんとなく、飲んでいるだけ。もしかしたらコーヒーに呪われているのかもしれない。

 僕は、そんなどうでもいいことを考えながら、コーヒーをすすった。

 二日酔いの体には、ありがたい味がした。

 テレビをつけるとニュース番組が流れていた。タレントが、高校生がいじめを理由に自殺した事件についてコメントしている。あれこれ言葉を使っていたが要約すると「いじめは良くない」ということを話していた。こんなことを言うだけで一体いくらもらっているのだろうか、と僕は思った。

 時計を見ると、まだ六時半にもなっていなかった。いつもは、七時半頃に家を出る。まだ、あと一時間はある。

 僕は、こういう時間が苦手だった。

 一日のなかで、突然できてしまう何もない時間。線路に敷かれたレールにできた隙間のように、脱線してしまうのではないかと思い、ヒヤッとするのだ。こういう時に、何をしていいのか分からない。とくにすることもなく、ただ時間が過ぎるのを待つのは苦手だった。

 僕は、テレビのチャンネルを回してみたが、どれもニュース番組で、変わり映えしなかった。テレビを消し、コーヒーカップをシンクに置いて、仕事へ行く格好に着替えた。黒いチノパンに白いワイシャツ。その上にコートを羽織った。いつも通りだ。いつも通り過ぎて、吐き気がする。

 まだ早かったが、僕は、家を出ることにした。

 車に乗り込むと、車内は冷蔵庫みたいに冷えていた。まだ十一月で冬と呼ぶには早かったが、すっかり冷え込んでいた。

 暖房を全開にして車を走らせた。

 職場までは、車で十分もかからない。このままだと、早く着き過ぎてしまう。途中コンビニに寄ることにした。鮭のおにぎり二つと卵のサンドイッチ、お茶、マンガ雑誌を買った。車の中で、おにぎりを一つ食べた。マンガ雑誌をめくってみたり、カーラジオをつけてみたりしたが、結局時間を潰すことができず、《サンズ・カフェ》に向かった。

 お店に着くと、もちろん誰もまだ出勤しておらず、一人で開店の準備を始めた。

 数十分すると、店長が出勤してきた。

「早いな。西田」

 店長は言った。

「目が覚めてしまいまして」

「そうか。でも、こんなに早くに出勤してくれるなんて、お前はスタッフの鏡だよ。開店の準備もほとんど終わっているし、助かるよ」

 店長はそう言って、僕の肩に手を置いた。

「ただ、店前の掃除が少し甘いな」

「すみません。あとでやっておきます」

「あ、いいよ。いいよ。俺やっとくから。西田にほとんどやってもらっちゃったからな。それくらいは俺がやるよ」

 だったら、黙ってやってくれればいいのに、と僕は思った。出勤早々に嫌な気分になった。

 ほうきと塵取りを準備しながら、店長が言った。

「西田。なんか今日、顔色悪いけど、大丈夫か?」

「そうですか?」

 スタッフルームの壁にかかっている鏡を見た。鏡の横には〈笑顔のチェック! 最低一日三回〉と張り紙があった。

「なんか、粘土みたいな色してるぞ」

「まあ、大丈夫だと思います」

 店長は、「そしたら、いいものやるよ」と言って、冷蔵庫を開けると小さな茶色いビンに入った栄養ドリンクを二つ取り出した。

「これ、飲んどけ」

 そう言って、僕に一本よこした。

「ありがとうございます」

 店長は、栄養ドリンクをグイッと飲み干すと、「かあ! これが効くんだよ」と言った。

 僕も、一口で飲み干した。苦いような甘いような味がした。

「これで、頑張れるな」

 店長は言った。

「はい。ありがとうございます」

 店長の言葉には、不思議と有無を言わせない響きがあった。なんとなく、同意以外の言葉を言えないような感じがした。

「あ、そうだ。悪いんだけど。俺さ、午後、取引先のとこ行かなくちゃいけないから、外出するわ。たぶんそのまま直帰かな」

「え。午後、大丈夫ですか? スタッフ足ります?」

「まあ、一応三人はいるけど……。きついかもしれないけど、頼むよ」

 店長は、笑顔でそういうと、ほうきとちりとりを持ってスタッフルームを出て行った。

 僕は、すぐに勤務表を確認した。

 午後のスタッフは、僕と、この前お客に怒鳴られていた北村さんと、ベテランパートの橋本さんだった。橋本さんはとても手際の良い人だけど、三人では、客対応以外の事務作業をする時間はなさそうだ。今日も残業することになるだろう。

 思わずため息が出た。

 店長に対してイライラする感情が湧きあがってきたが、僕は即座に、考えることを止めるように努めた。

 これは、僕がここで働いていく中で身に付けたことだった。何かあるたびに気にしていたら、脳がストレス製造工場になってしまう。気にしない。考えない。目の前の作業に集中して、一つ一つこなしていく。それが何よりなのだ。

 開店の準備が終わった頃、早番シフトの職員が出勤してきた。

 今日の早番の人数は、店長と僕を含めて五人だった。人数の配分がおかしいだろ、と心の中で店長に悪態をついた。

 それでも、開店してみると、忙しかった。常にバタバタとしていて、水を飲む暇さえなかった。

 客数が多かったのもあるかもしれないが、忙しい原因はそれだけではなさそうだった。まず、一つは早番のアルバイト三人の内、二人が入職一か月未満の新人だったこと。もう一つは、店長がしょっちゅう電話やら、事務作業やらで、スタッフルームに籠っていたことだ。

 新人アルバイトは分からないことは全て僕に聞いてきた。僕がお客対応している時にも、終わるのを待って、わざわざ僕に質問をしてきた。

 もう一人の早川さんという女性のパートスタッフはベテランでほとんどの作業をこなすことができる。なのになぜか、新人二人は、早川さんには、質問をしようとしなかった。

「あのさ、僕に全然聞いてくれていいんだけどさ。接客中とかはさ、他のスタッフに聞いた方が早いと思うんだけど」

 僕は言った。

「いや、なんか、早川さんに、西田さんに聞けって言われたんです」

 忙しさと苛立ちで沸騰しそうな頭をなんとか、落ち着かせてから、接客から戻ってきた早川さんに声をかけた。

「早川さん。まだ、二人は分からないことも多いと思うので、いろいろ教えてあげてくれませんか?」

「だって、私、全部ちゃんと覚えてるわけじゃないし、間違ったこと教えても良くないかな、と思って。西田君なら間違いないでしょ?」

「早川さんだって、全部できてるじゃないですか?」

「私は無理よ。人に教えるの苦手だし……。パートだしさ」

 僕は、またか、と思った。「パートだし」。仕事を避けるための常套句だ。

「……そうですか。分かりました」

「そんな。怒らないでよ」

「いや、怒ってませんよ。まあ、でも、もし二人に何か聞かれたら、教えてあげてくださいね」

「まあ、聞かれたらね」

 僕は、あきらめて仕事に戻った。

 時計を見ると、まだ十時。客脚は減らない。相変わらず忙しかった。

 ふと、スタッフルームの扉についている覗き窓が視界に入ってきた。

 店長が、椅子に座り背もたれが折れそうなくらい反り返りながら、電話をしていた。しかも、誰と話しているか知らないが、楽しそうに笑っていた。

 僕は、数秒目をつむって、顎に力を入れた。頭がストレスでパンクしそうだった。これ以上、イライラしてしまうとどうにかなってしまいそうだ。

 とにかく、作業に集中。自分に言い聞かせながら、溜まっていた食器の洗浄を始めた。

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