#5
なんとか、ピーク時間を過ぎて、午後の一時になると、遅番のシフトのスタッフが出勤してきて、入れ替わりに早番のスタッフと店長が帰って行った。
「なんか、疲れた顔してるよ」
ベテランパートの橋本さんが、出勤するなり、僕に言ってきた。
橋本さんは、お店の中で一番くらいに仕事ができる人で、手際が良く気も使える人だったので、みんなから好かれていた。年齢は三十代後半だったが、見た目は若々しく、整った顔立ちをしていた。男性客から声をかけられているところを何度も見たことがある。
「もう、限界ですよ」
「たいへんだったね」
橋本さんは、大げさに心配そうな顔を作った。
「いや、冗談じゃなく、ほんとに大変だったんですよ」
「分かってるって、西田君ががんばってるのは、よく知ってるよ」
橋本さんは、僕にとって唯一、愚痴っぽいことを言える存在だった。
「じゃあ、これあげるよ」
橋本さんは、そう言って、そっと僕の手にチョコレートを握らせた。橋本さんの手は、細くて冷たかった。
「ありがとうございます」
チョコレートの包みを取って、口に放り込んだ。
「ちょっと休憩したら」
「でも、三人しかいませんから」
「大丈夫よ。この時間はお客さん少ないから」
客席を見ると、さっきまでの混雑が嘘みたいに、お客は少なく、空席が目立った。
「そうですか……。それじゃあ、お言葉に甘えて」
僕は、休憩をもらうことにして、スタッフルームに向かった。
冷蔵庫からお茶を取り出して、椅子に座った。
お茶を一口飲むと、ようやく息を付けたような心地になった。午後は人数が少なくて大変そうではあるが、店長がいないだけで、居心地がずいぶんと違った。
僕は、鞄から手帳を取り出した。
今日は十一月八日。数えてみると、次の休みは、十日後だった。シフトがうまく組めないと、こういうことも多々ある。
憂鬱な気分になりながら、何気なく手帳をパラパラめくっていると、最後のページに目が留まった。
そこには見覚えのないメモがあった。
思わず全身に力が入る。
なぜだか、背筋が寒くなった。まるでナメクジが背中を這っているかのように、ゾッとした。
走り書きをしたみたいに、ぐちゃぐちゃの文字で、ページが破れるのではないかというくらいに濃い筆圧だった。その文字には、まるでこの世のものではない何かを見た時のような、不気味さがあった。まるで定規で書いたみたいに、カクカクしていて、独特な筆跡だった。どう見ても、自分の字ではない。誰かが書いた文字。しかも知らない誰かが。こんな気味の悪い文字を見たことがない。そして何より、その文字の不気味さ以上に、書かれていた内容が不可解だった。
――仮面をつけたら外せない。朝日ビル地下二階で、
一瞬、思考が停止した。
なんだ、これは?
まったく身に覚えがない。
誰かのイタズラか?
それとも、酔っぱらった時にでも書いたか?
何とも言えない不気味さが全身に浸透していった。
「西田さん」
突然、声をかけられて、体がビクついた。
北村さんだった。
「ご、ごめんなさい」
「あ、い、いや、大丈夫」
北村さんは、うつむいてドアの前に立っていた。
「どうしたの? 何かあった?」
僕は言った。
「あの、これいりますか?」
北村さんが突き出した両手にはプリンがあった。
「プリン?」
「プリン。好きですか?」
「まあ、好きだけど」
「これ、あげます」
「え?」
「あげます!」
北村さんは、無理矢理、僕にプリンを渡してきた。
「あ、ありがとう」
「西田さん。この前はすみませんでした!」
僕が、プリンを渡されて困惑していると、北村さんが僕に向かって深々と頭を下げて、余計に困惑した。
「どうしたの?」
「あの、西田さん。この前はすみませんでした! お客さんに怒鳴られた時、西田さん、慰めてくれたのに、ひどい態度をとってしまいました」
僕は、ようやく状況を把握した。
「ああ、そのことね。別にいいよ。気にしないで」
「怒ってないんですか?」
「怒ってないどころか、忘れてたよ」
北村さんは、安心したようで、笑顔になった。
「良かった。西田さんに嫌われたら、このお店で働けないから、ほんと、びくびくしてたんですよ!」
「なにそれ?」
僕は笑った。
「そんなことないよ。別に僕に嫌われようが好かれようが、関係ないでしょ」
「いやいや、みんな言ってますよ。西田さんに嫌われたら終わりだって」
「変な噂しないでよ」
僕は、もらったプリンを冷蔵庫にしまうと、仕事に戻った。
橋本さんが、僕の顔を見るなり、ニヤニヤしながら「若い子に謝罪させた気持ちはどう? 楽しい?」と言ってきた。
どうやら、橋本さんが差し金だったようだ。
「若い子に変なことさせないでくださいよ」
橋本さんは、笑ってごまかしていた。
「いいじゃない。私の趣味なの」
「イタズラはやめてください」
僕は、言った。
「はいはい。ごめんなさい」
「それから、他のスタッフに変なこと吹き込まないでくださいよ」
「変なこと? 何の話?」
橋本さんは、楽しそうにニコニコ笑っていた。
イタズラされた側の僕も不思議と午前中よりも、幾分元気になっているのを感じた。午後もきちんと仕事をこなそう。そう思えた。
この時には、手帳に書かれていたことについては、すっかり忘れていた。
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