第14話 蘇る白夜との記憶

 住宅地を抜けた辺りに、あまり舗装されていない上り坂の細い小道が、神社へと続いている。

 昔のままには存在しないかと思えば、そこだけはまるで、時代に取り残されたように、剥き出しの土の小道のままであった。

 木も生い茂り、小道の先に神社が残っているのかさえ、怪しかった。

 アスファルトの舗装道路から、土の小道へと踏み出す。

 荒れ果てた感じはなく、今でも誰かが歩いているに違いないと思わせる。

 なだらかな小道は、気持ちいい程度に木々に覆われ、散歩にはもってこいだ。

なのにやっぱり、僕の頭痛は止まなかった。

 のんびりと、十分じっぷん程度、登っただろうか。大人の、それも若い男の足で十分じっぷん歩くのだから、子供の頃は結構な距離だっただろう。なのに、すぐ近くの遊び場としての記憶しかない。時間とか距離なんて、子供には、どうでもいいのかもしれない。

 小道は最後は石段となり、かなり急である。石段を昇ると、不思議なくらい広い境内が待っていて、お社がある。鐘も賽銭箱も、存在している。昔のままだ。

(賽銭は入れよう)

 僕の心が、僕に訴える。賽銭を入れて手を合わせる。

 あまりの頭痛に、木陰の石に腰掛ける。

 ザザ ザザザ ザザ

 突然だった。僕の脳裏に、まるでテレビ画面の、放送終了後の砂嵐のような景色が浮かぶ。

「止めてよ! 気持ち悪いなあ! きっしょ!」

 今の僕より甲高い、幼い僕の声。幼い僕が、誰かを突き飛ばす。

 ザザ ザザザ ザザ

 目を大きく見開いて僕を見ているのは……白夜だ。

「気持ち悪い~。ああ、気持ち悪い。げえ、げげえ」

 僕は吐く。上がる物を、吐く。

「きもーい。きっしょーい。白夜ってやっぱり、気味の悪い奴だったんだ! みーんなが言ってたもんねえ。みーんなが、気味悪がってたよ。遊ばなければ良かった!」

 ザザ ザザザ ザザ

「とーるー。とーるー」

 白夜は僕の名前を連呼する。

 神社のお社まで、二人で……二人だけで、登って来た。

「ち、きちぇ(来て)。こっち、きちぇ(来て)」

 僕を呼ぶ。手を繋ぐ。

 ザザ ザザザ ザザ

 僕と白夜は、何をしている?

 ザザ ザザザザザ ザザザザザザザザ

 ぬるりと何かを、胡蝶は僕の口の中に入れた。

「‼ げっ、げげ~」

        ドンッ!

「止めろ! きもちわりー。げげええ。化け物! 気味の悪い奴! もう二度と、近寄らないで。絶対僕に、触らないで‼ 二度とそばに来ないで! お前なんか大嫌い!」

 なぜ? なんだったのだろう?

 あれは、キスだ!

 白夜は、僕とキスがしたかったのだろうか。

 僕は幼過ぎて、白夜のおませに、気付かなかっただけなのだろうか。

 僕は、なにしろ気持ち悪くて、気味悪くて、白夜を突き飛ばして、悪態を吐いた。

 僕にしてみたら、当然の行為だった。

 今思い出しても、吐き気が蘇るし、わけが解らないまま〝舌〟なんか口に突っ込まれたら、子供だもの。気持ち悪くて当たり前ではないのか?

 そうだ! 僕は、突き飛ばした事実や、ひどい言葉を投げつけた悪事を、封印していたわけじゃない。だいたい、悪事だなんて思えない。

 気味が悪くて、気持ち悪くて、それまで仲良くしていた白夜が、一気に気味の悪い奴になった恐怖から、封印していたのだ。

 今ならそれは、キスのつもりだったのかもしれないと、理解できる。キスの仕方も解らない白夜が、話し方を揶揄わない僕に、好意を持っていたのかもしれない。好意からの行為だったかもしれない。

 だとしたら、きっと傷ついただろう。

 あの日から、僕たちはまるで遊ばなくなった気がする。

 あの時の僕は、白夜の気持ちなど、おもんばかれやしなかった。気味の悪いぬめりとした物を、いきなり口の中に突っ込まれた恐怖から、しばらく立ち直れやしなかった。

 いや、いまだに立ち直れていなかった。だから、ついさっきまで、封印していたに違いない。

 とても嫌な経験をしたのに、なんだか人には言ってはいけない気がして、親や友達にもいっさい言えなかった。そのため、僕はいっそう病んだ。

 白夜を自分の視界に入れないようにして、それからを過ごした。彼女の存在を、僕の中から抹消した。だから、他の友達が、白夜を苛め続けていたのかどうかも、それからはまるで覚えていない。白夜を、死んだも同然の、〝いない者〟と扱うしか、自分を保つ方法がなかったのだ。

 白夜を気遣う余裕なんて、あるはずもない。なんの穢れもない僕を穢した存在。そう思った。忘れたかった。あの日の事件を。

 不思議と、思い出した途端、頭痛はすうっと引いていった。

 大人になった僕は、あれを〝キス〟だと位置付ければ、たいしたことない気さえした。どうしてあれほど、不気味に思えたのか、それすら薄れて行く。

 今度は、白夜があの事件以来、どうしていたのかが、気になる。

 元々、僕には友達が大勢いた。

 しかし、胡蝶はずっと、苛められていたのだ。今なら、それが解る。

 悪意があったかないか。

 あった。

 皆に悪意はあった。あれはやはり、〝苛め〟だったと思う。子供でも。

 白夜は傷ついていなかったか。

 傷ついていた。

 だから、喋り方について触れない、僕とばかり遊んでいたのだ。唯一、一緒に遊べる僕に、好意を寄せた。子供なりに。

 でも、表現のしかたが解らなかった。

 変な表現に、僕に突き飛ばされ、酷く罵られた。

「もう二度と近付くな!」

 とまで、叫ばれた。

 他の子供の苛めより、よほど傷付いたかもしれない。

 今は、傷は癒えただろうか。

 僕は僕で、今の今まで、おそらく三十年近く、心から、記憶から、抹消していた。記憶に鍵を掛け。封印していた。

 僕と白夜と、どちらが辛かったのかなんて、比べたところで、同じ秤に載せることすらできない。

 僕は僕で、白夜は白夜なのだから。

 頭痛は治まっても、忌まわしい記憶は、僕の心に、新しい影を落とし、再びしっかり染みになった。

(白夜はどこに住んでいたっけな)

 僕は、ペットボトルに残る、温くなったお茶を飲む。

(あの日の事件を知らなくても、あれからの白夜を知る人は、たくさんいるだろうに。田舎だし……)

 そして僕ははっとした。

祖母ばあちゃんが涙を流したのは、僕を思ってのこととばかり……)

 違うと確信した。祖母は、白夜を思い、泣いたのだ。僕と白夜の間の事件をきっかけに、白夜は、祖母が涙するほど、苦しむような目に遭ったのでは?

「白夜はもう、ここにはいねえ」

 祖母は告げた。

(まさか……)

 嫌な予感に、真相を確かめるべく、急いで階段を下り、土の小道を下る。

(白夜は、この町を出て行ったの? それとも……もうこの世にはいない?)

 確かめたかった。

 誰かに尋ねると言っても、長い年月離れていた土地で、なかなか〝誰か〟が思い付かない。手っ取り早いのは、やはり、祖母だろう。

 詳しく話してくれるかはともかく、白夜が生きているのかどうかだけでも解れば、僕の不安は、ひとまず解消する。

 もしも……もしももう生きていなくて、それも僕との一件がきっかけであれば……僕は、これまでよりもっと、大きなものを背負わねばならない。

 希望か打撃か、焦燥に駆られながら、一目散に、祖母の家へと、走って帰る。

 祖母は、尋常でない様子の僕に、座卓を挟んで「まあ、座れ」と、知っている過去の事実を話してくれた。

 白夜は、生きて町を出た。

(生きていたんだ。良かった)

 安堵に、肩の力が抜けた。

 だが、話はそれでは済まなかった。

 当時、僕と白夜の間に何があったのか、周囲は知りようがなかった。

 僕も白夜も、いっさいその日の出来事を口にしなかったから。

 そう、白夜も、僕と同じで、いっさい口にしなかったらしい。

 だが、おそらくその日から、白夜は言葉を発しなくなった。〝その日の出来事について〟ではない。口から音を、まるで出さなくなったのだそうだ。

 元々、喋り方が変だと、さんざん苛められていたのは、周囲も勘づいてはいたらしい。ただ、白夜があんがい平気の様子だったので、〝苛め〟の認識を、大人たちに与えなかった。

 だが、いっさい喋らなくなったため、白夜の親も騒ぎ始めた。

 白夜の親について、僕はあまり覚えていない。だが祖母は、「白夜の親御は、白夜はその辺で生きていればいいくらいの扱いだった」と説明する。

 それでも、白夜は親には話をし、親子関係は成り立っていたのに、ある日から、親に対しても口を噤んだ。完全に。

「うちの白夜に、何しただ!」

 白夜の親は、近所で会う人会う人に詰め寄り、白夜が言葉を発しなくなった事実は、しだいに近所中の知るところとなったらしい。

 一方で、ちょうどその頃から、白夜ほどではないにしても、僕にも変化が見られた。

「お父さんやお母さん、友達には、徹の様子も、なんだか変だと感じたみてえだ」

 ところが、当の二人は、何も言わない。まだ幼いのに、どうしても口を割らない。

それが却って、二人の間に何かあったに違いないという憶測を裏付けた。

「白夜が言葉を発しなくなったのは、どうやら谷口のところの徹が原因らしい」

 噂に、実際に白夜を苛めていた他の子供たちは、むしろ恐怖心を募らせた。いつか、「一番苛めていた奴はこいつ!」とでも、僕に指さされやしないかと、気を揉んだのではないかと、祖母は言う。

「徹は、本当は、一番ながよく(仲良く)遊んだあだろ? いずめて(苛めて)ねがったは、おめだな?」

 嫌な空気に、皆、恐怖を募らせ、白夜への苛めはなくなった。

 いまさら、犯人捜しをされても、皆、困る。

 僕も白夜も何も言わないのをいいことに、〝苛めていたのは、僕だ〟という事実が勝手に作られた。

 僕の苛めが、あまりにひどいから、白夜は言葉を発しなくなった。僕は、苛めにも飽きて、白夜を無視すると決めた。

 ことの次第は、そう締めくくられた。

 僕は、まるで知らなかったが、白夜の親は、僕の両親のところにも、何度もやって来て、有名な病院に連れて行くから、治療代を寄越せ、とまで喚いたのだそうだ。

 父も母も、真相は解らないし、最後まで、僕を信じていた、と、祖母はまた、涙した。

 白夜が再び言葉を発することはなく、少しずつ過ぎ行く時間だけが、真相など解らないまま、いつかきっと、静かな落ち着きを取り戻すと、祖母は思っていたそうだ。

 祖母に限らず、白夜や、その親。僕のせいにした子供たちや、その親。皆、そうだろうと、祖母はじっと堪えた。

 僕は、中学を卒業して、上京した。

 僕を心配していた人たちは、新しい環境に僕が巣立ち、心から安堵しただろう。

 僕自身、忘れていた。

 僕が、難しい東京の高校に、進学を希望したのは、そうだった。白夜との神社での一件と、周囲に苛めの張本人にされた屈辱が、大いに関係していた。僕は何より、故郷を捨てたかった。離れたかった。

 僕は、新しい生活に没頭し、過去を消し去るに成功した。白夜は、僕の中のどこかに、すっかり封印された。

 だが白夜には、さらなる不幸が、待ち構えていたのだ。

                              つづく

 

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