第13話 故郷を歩く
(私の気持ちなんか、全然解っていなかったでしょう)
誰だろう。白夜だろうか。
でもそれは、痩せて小さな、幼い白夜ではない。
すらりと伸びた手足。丸味を持った胸と尻。長く艶やかな黒髪を
(それでも、大好きだった)
一色纏わぬ姿の彼女は、僕に背を向け、闇の中へ消えて行きそうだ。
(待って!)
僕は、呼び戻そうとするが、声が出ない。彼女は気付かない。必死に手を伸ばす。彼女に向けて。
でも、僕の手は届かない。まるで舞うように、彼女の後ろ姿は、段々小さくなる。
(私の気持ちなんか、全然解っていなかったでしょう)
またか。
今度は凛子だ。
どういう訳か、喪服を着て、顔は黒いヴェールで覆われている。
だから、顔なんか見えない。でも、解る。凛子だ。
(ごめん、だから……)
やり直してくれよ、と続けたいのに、遮られる。
(もう遅いわ。私、結婚するのよ。この格好を見て、解らない? 今から結婚式なのよ)
(ええ? だってそれ、喪服でしょう? 全身、
凛子は、黒いヴェールに覆われた向こうで笑っている。
(さよなら。さよなら。さよなら)
(待って! 行かないで)
…………
目が覚めた。
祖母が干してくれた布団が、温か過ぎたのだろうか。ぐっしょりと汗を掻いている。
不思議と、嫌な夢を見た感覚は残っていなかった。
時計を見ると、十時半だ。よく寝た。
僕に用意されていた部屋は二階である。一階へと階段を下るが、祖母の姿はない。
和室の真ん中に置かれた座卓は、古いどっしりとした木製で、もう塗りも、だいぶん剥げている。でも、使い込まれた自然の光沢を放ち、趣がある。
夕べのすき焼き鍋や、漬物の入った器、酒や空瓶やぐい飲みは、皆、きちんと綺麗に片付いている。
代わりに、座卓には、おにぎりと卵焼き、鮭の塩焼きとお浸し、漬物が皿に盛られ、今時、目にしない
(ああ、僕……片付けもしないで寝ちゃったよ)
年老いた祖母が、全て片付け、朝食を用意してからどこかに出掛けて行ったのかと思うと、いつまでも子供の自分に、嫌気が差す。
不甲斐ない。
でも、蠅帳の中の朝食に、同じ家に人の存在する幸福感に浸っていた。
「せっかくですから、ありがたく! 頂きます! 美味そー」
座卓の前に胡坐を掻き、蠅帳を外しておにぎりに手を伸ばす。
「
誰かのマッサージだろうか。買い物にでも出たのだろうか。
もうほとんど家にいるものと、勝手に思い込んでいた。
チリンチリン チリンチリン
スマートホンが鳴る。山口だ。
「もしもーし。ちょうど、喋りたかったところだよ。今、僕、幸福なのよ」
口の中のおにぎりを、ムシャムシャと胃に収めながら、電話に出る。
「なんだ? 今日はやけにハイテンションだな」
山口の声はかなり暗くて、僕は、故郷に帰る前の、事件の状況を思い出す。
帰郷は人を元気にするのか? そんなつもりで、帰って来たわけではない。
でも僕は、故郷で祖母に会い、自然の空気をたくさん吸い込んで、なんだかずいぶんと元気である。
自分が疲れているのにすら、気付いていなかった。今が普通だ。とりわけテンションが高いわけではない。
山口も、疲れているのに気付けなくなっている。僕の声が、やけに明るく山口の鼓膜を震わせたのは、そのせいだ。
「そっちは、疲れた声してるぞ。俺さ、連休取ったのよ。今、本州の北の端にいるのよ。
「はあ~? なにそれ? 俺に何も言わないで……つれないわあ」
「今日にでも知らせようと思っていたんだよ。ああ、お前も来る? 遊びに来ちゃえば? 彼女と一緒に! 祖母ちゃんとこ、いいぞ~。めっちゃ田舎。空気もいい。気晴らしになって、頭すっきり。案外、推理も働くかもよ。東京より、断然涼しいし」
「うわあ、マジか! いいなあ~。腹が立つくらい、羨ましい。連休かあ……俺も取りてえなあ。でも……四人目が出たら、まずいしなあ。お前、やっぱり、憎らしいなあ。人が散々苦労してんのに、のうのうと。『山口のために、なんとか解決してやろう』とか、思えよ!」
「そう思ってるよ。だから故郷に戻って来たんだよ。なあ、お前も来いよ」
「はあ? 何? 犯人、そこにいるってか?」
「いや……犯人はいないけど……まあいいよ。なんでもない」
さすがに、〝舌〟に
僕は、大真面目だ。事件の解決に、全面協力したい。山口の役に立ちたかった。
どうしても、白夜を思い出す必要があると思えた。事件とは直接関係なくても、白夜と自分の昔には、事件解決のヒントがあると、確信していた。
しかし、現場で日々、事件に向き合っている山口からしたら、
「ふざけてんのか!」
てなものだろう。
「で、何? 電話をくれたのは、急用か?」
「いや、そうじゃない。明日、休みなのよ」
「へ?」
人の休暇を散々羨ましがり、憎らしいとまで罵ってから、こう来る。いかにも山口らしい。
「へえ。お前は事件でお忙しくて、お休みどころでは、ございませんでしょう? いいのかしら~」
こちらも、妙な意地の悪さを滲ませる。
「それどころではない。でも、緊張があまりに長丁場でさ。身体も脳味噌も、腐って働かない。目なんか、血走ったままよ。なのにちっとも進展なし。気持ちばっか焦る。体力ばかり消耗する。朦朧と仕事にへばりつく、ゾンビみたいな形相の面々に、上も、まずいと思ったみたいよ。交代で休みを取らせましょうよ、って。ようやく」
「へえ。働き方改革、そこにありき、じゃん」
「でさ、とりわけ頑張っていた、一番ゾンビみたいな形相の俺、実は明日、お休みなんです~。ぱちぱちぱち! で、今度こそ、俺の家に来いよ、ってお誘いしようかと思ったらさ。なんと……お前は今、青森だとさ」
これは、お導きだ!
僕の脳内を、何かが駆け巡った。見えないものに導かれる時は、流れに乗るがいい。僕の作った、僕の掟だ。〝嘘から出た誠〟みたいなのが、きっと生まれる。
自分でもよく解らないんだよ。根拠なんかないから。
まあ、要するに、勘だ。山口を、青森に呼ぶべきだ。
「やっぱり、こっちに来いよ。お前の家には、また行き
「うーん……青森かあ。それ、いいなあ。休暇って感じするなあ。でも……かなりの寝不足で、睡眠時間も欲しいのよ。体力には自信があったんだけど、さすがに眠いしなあ」
「寝不足は、こっちに来てから解消しろよ。騒音も少なくて、静かに眠れるぞ。お前の鼾がうるさいくらいよ」
「……うん、そうだな……うん、でもなあ……ああ、なんだか、決められねえなあ」
「おい、山口! お前、相当くたびれてる。本当に、頭腐ってるぞ。ぐじぐじ迷うなんて、いつものお前らしくない。いいから、来い! 夜中でもなんでもいいから来い。気分転換だよ。お前はな、もっと簡単に、『そうだな、そうしよう』って奴じゃなきゃあ、ダメ!」
「……ほう、なるほど」
「一番早くて安いのは、羽田から飛行機。時間にも因るけど。飛行機が怖いとか、ある? まだ仕事が忙しければ、ご希望に合わせて、こっちに来る手段は調べて置くけど?」
故郷は、僕に何か、不思議な力でも与えてくれるらしい。エネルギーが溢れて来る。
いつにない僕の強引な誘いが、山口は嬉しかったようだ。
場所さえ教えてくれたら、交通手段は自分で調べるから、と、楽しそうに電話を切った。
僕はメールで、住所を知らせる。
三十分くらい経つ頃か。再び電話が鳴る。
「俺。あの……彼女が、一緒に行くって。俺もちょっと驚いてるんだけど……妙に乗り気でさあ。変なんだ。あの……本当にいいか?」
山口は、少し困った様子だ。
「へ? 彼女? 来るの?」
実は僕も、呆気に取られた。
別に構わない。山口の彼女にも、興味はある。
ただ、僕の想像する山口の彼女は、思慮深い人だった。山口の彼女は、自分の彼氏の友達の実家には、突然誘われてのこのこ付いて行くような人ではなかった。
さらには、山口も、そこは冗談と、さすがに彼女を誘ったりはしないと想像していた。
どこか、奇妙だ。
山口にも、僕の怪訝が伝わったらしい。
「まさか、『一緒に行く』とは言わないと……ただ、いろいろあったからさあ。一言、休暇が取れたから遠出する、くらいは、伝えて置こうと思ったのよ。『本当に、いつも貴方って、勝手よね』とか、叱られそうで」
ああ、山口はすでに、尻に敷かれている。
「休暇が取れたから、親友の故郷に行くって伝えたのよ。間髪入れずよ。『私も行くわ』なあ、『私も行くわ』って、断定だぞ! 俺だって、そこまで図々しくないよ。誘う気はなかった。でも、誘いもしないのに『私も行くわ』 俺、お前との電話、聞かれてるんじゃないかと、ビビったぞ。『谷口さんは、誘えって言ったわ!』とか」
私も行くわ、の部分は、山口が彼女を真似る。裏返った声の、不気味な物真似に、笑う。
「なっかなか面白い彼女だよな。いいよ、楽しそう。連れて来ればいいよ。ああ、『私も行くわ』すでに断定だった。僕の許可なんか、求められてない。アハハ。嫌だねえ、婚前旅行に親友の故郷を使うなんて」
「嫌な奴だねえ。最近、谷口君、俺にやけに意地悪よね~」
「はあ? 山口君の、百万分の一くらいよ。で、何で来る? 飛行機?」
「ああ、これからだけど、大丈夫。昼から半休取ったから。今から急いで向かう。一泊させてもらう」
「そりゃあいい。なんだか久しぶりに、ワクワクして来たぞ! 楽しみにしてるよ」
「ああ。久しぶりに俺も、この煩わしい東京を離れられる。嬉しいよ。じゃあ、また」
山口との電話を切る。
山口の彼女も来るとは、意外な展開だ。
だが、これもきっと、見えない流れが僕等を導くのだろう。
僕等は常に、自分たちで選択しているように見えて、大きな川のようなものの中に、身を委ねている。解らない時は、流れに身を任せるしかない。
「しかし、山口の彼女……興味深々だなあ。浅はかな女性を山口が選ぶとは思えないから……思慮深いはずなんだけど……無遠慮ってのも、しっくり来ない……」
どういう人だろう。もうじき会える。
想像ばかり膨らませても、時間の無駄だろう。
時間と言えば、飛行機を利用すれば、羽田から青森空港までは、たった一時間半である。新幹線なら、東京駅から青森駅まで、三時間程度である。
ただ、飛行場や駅から目的地までは、さらに移動に時間は掛かる。東京のどこからか、青森のどこまでか、これも大事な点である。
だが、時間はただ、短縮できればいいのだろうか。
凛子を思い出す。
「私、怖いものはないの。世の中を知らないだけかしら。最悪でも、殺されるだけって思うから。だからね、空を飛ぶのが怖いわけじゃあ、けっしてない。ただ、どこか遠くへ行くのに、ひとっ飛びで景色が見られないなんて勿体ない。だから基本は、地を行く旅が好き。見送りも、列車のホームは、情緒あるわ」
新婚旅行が頭にあった。
どんな旅が好きかと聞く僕に、凛子はそう答えた。
羽田から青森。確かに飛行機ならひとっ飛び。でも僕は今回、時間を掛けて列車で帰郷した。凛子の言葉が、今も心に残るからに違いない。列車の窓に流れる景色は、時に、はっとするほど美しい。わけもなく、涙が零れる。
夜行バスで、帰郷したこともある。お金がなくて、時間だけあった。たぶん、学生の頃だ。
山口たちが如何なる手段でこちらへ来るにしても、まだずいぶん時間が掛かる。
「山口が来るなら、酒が必要だ。彼女もきっと……酒は飲む」
僕は酒屋に行きがてら、散歩に出た。
白夜について、調べるために帰郷した。思い出すために、帰郷した。
祖母と話して思い出したのは、ほんの一部だし、僕の知らないその後の白夜についても、どうしても気になる。祖母の反応から、あまりいい予感はしない。だからと言って、このまま終わらせるわけにはいかない。
景色は、長い年月に、ずいぶんと様子を変えていた。
僕が暮らしていた時には、どんな家屋があったのか、農地だったのか更地だったのか……それすら思い出せない場所も多い。
ゆっくり付近を散策する。
どうしてだか、時折、頭の中の一部分が痛み、気分が悪くなった。
体調が悪いとか暑いとか、そういう理由ではない証拠に、ジーンと痛くなるが、少しすると嘘のように治まる、を繰り返した。
僕は、気付いた。僕はまだ、嫌な記憶を封印している。
封印した過去を思い出しそうな、きっと関りのある場所に差し掛かると、どうやら頭が痛くなる。思い出せないのだから、はっきりとしないが。
僕が暮らしていたのは、祖母の家から歩いて十分、一キロメートル程度の場所にあった。小さな戸建てだ。
両親が亡くなり処分した。手元に残った幾らかは、祖母が残りの人生を一人で暮らすのに使ったらいいと、手配した。
僕の住んでいた戸建ては、古びてなどいなかった。
でももう、跡形もなく、新しい家が建っていた。
過疎化は進んでも、その辺りは住宅地である。ただ、見覚えのある家と、更地にされたのだろうと思える土地、新築の家屋が混在し、僕の心に残る景色とは、まるで重ならない。
住宅地から緩やかな坂を五分ほど上ると、墓地がある。
「そうだった……墓参りくらい、しよう」
まるでその気のなかった僕は、急に後ろめたさを感じ、墓を参ると決めた。
花も線香もなかったが、坂道を登り始める。
墓地には、僕の両親が眠る。
祖母が、綺麗を保つのだろうか。両親の墓には、花が供えられていた。雑草もない。
「どうも、どうも。久しぶりに帰って来たよ。祖母ちゃんは元気なもんよ。僕は相変わらず。まあ……ちゃんと仕事してるよ。今はもう」
墓の前に屈み、手を合わせる。
そう言えば……
近くに神社があったはずだ。
子供の頃は、神社はいい遊び場だった。懐かしい場所のはずだ。
しかし、近付くほどに強烈に頭が痛くなって来る。
両親の墓を振り返る。
「なに? 行くなって意味?」
墓に向かって尋ねるが、両親の眠る墓は、しんと静まったままだ。
「喋るわけないよね。むしろ、墓石でも揺れて喋り始めても、こえーよ」
一人、ぺちゃくちゃ口を動かしながらも、迷う。
僕が、己を守るために、記憶から何かの事実を消しているなら、無理矢理思い出す必要など、きっとない
もちろん、今となっては大した事実でない可能性はある。でも、祖母が泣くほどだ。
当時、僕は子供だった。幼かった。祖母の感情と僕の捕らえ方は、またずいぶんと違うだろう。
「やっぱり、行ってみよう。僕自身の問題だ」
頭は、嫌な感じに痛んだ。
上がって来た坂道を下り、自動販売機で冷たいお茶を買う。ごくごくと半分ほど飲むと、少し気分が楽になった。
住宅地を抜け、神社へと向かう。
つづく
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