第12話 帰郷

 僕は、警察署に休暇届を提出した。

 ちょっと急に、故郷に帰る用事ができまして、という、誰もが疑う理由は、思いの外あっけなく認められた。

 心を長く患った過去を持つ者に、警察署も、ご多分に漏れず、優しいのやもしれない。

(僕は、警察署の中で、たいして役にたってないらしい)

 少し悲しくもあったが、事件解決には不可欠なんだよと自分に言い聞かせ、久しぶりに喧噪の東京を離れた。

 僕の故郷は、本州の北の端だ。青森の津軽地方である。

 何処いずこも、都市化は進む。

 青森駅は、なんとも都会的で美しい。僕の住む、東京の中野辺りより、むしろ、近未来的な感じもする。そこが、本州の北の端だなんて、忘れそうになる。

 自分の出身は、とても田舎だと思っていた感覚は、なかなか変えられるものではない。たまに帰郷する度に、その変貌ぶりに驚かされ、とても嫌だった辺鄙な光景が、今はとても懐かしい。

 僕の両親はもういない。

 特に変わった死だった訳ではない。

 父のほうは、四十代半ばに心臓を患った。それからたまに、心臓発作を起こしたようだが、ある日の発作で、あっけなく亡くなった。

 五十歳の誕生日を迎えたばかりだった。

 丈夫な人だと思っていた母は、風邪を拗らせ肺炎を起こしていたのに、ちょっと息苦しい、と笑いながらも、普通に働いていた。だがある日、

「こりゃあいげねわ」

 と寝込んで、そのまま死んだ。

 母の死もあっけなかった。五十八歳だった。

「父は五十歳で、母は五十八歳で亡くなりました」

 僕がそう語ると、人は皆、さも特別のことのように、顔を歪ませる。

「まあ……ご両親ともに、そんなにお若くして……」

 だが、僕にしてみたら、病気で亡くなったものを、なんだかとても不幸な経験のように扱われるのは、むしろ迷惑だ。

 二人とも、真面目な良い人たちだったのだから。

 二人の人生が、人と比べて、若干短いとしても、きちんと生き切ったことのほうを、当たり前でも、大変立派だと扱って欲しい。そうずっと感じている。

 勿論、まだ、生きていてくれたらと思う。亡くなった時には、亡くなったのがよく理解できなかった。親は、永遠に生きているくらいの感覚でいた自分に、親の死を経験して、ようやく気付いた。

(もう存在しないのか……そうか、もう会えないのか)

 そこに辿り着いてから、よく泣いた。実にたくさん泣いた。時に、小さな子供のように、大声で泣いた。

 つまり、故郷に帰っても、もう親はいない。

 親戚は、数人いるにはいる。

 だが疎遠となり、僕が泊まるのは、まだ生きている祖母の家だ。母の母である。

 祖母の住むのは、五所川原である。独りで一軒家に住み、たぶん、年金と、近所の人のマッサージで、生計を立てている。はずだ。

 元は鍼灸師で、鍼とマッサージをしていた。だが、歳を取り、何年か前に、

「目も見えなぐなっでぎたす~、手先も覚束ねはんで、患者さんに、なにがあるといげねがらねえ。もう、鍼は止めるべ」

 と零していたから。

 事前に連絡はした。

 着けば、五所川原の祖母の家は、いまなお自然に囲まれ、辺鄙で、ほっとする。

 久しぶりの僕の帰郷に、祖母はとても喜んだ。

「東京より涼すいがい?」

「そうね。過ごし易いかな。元気そうで何より」

「まあな。で、今度はゆっぐりでぎるのがい? 夜は、すぎ焼ぎな」

 祖母は、ご馳走と言えば、すき焼きだ。海の近くなのに。

 久しぶりに会った祖母は、当然だが、だいぶん年寄りになっていた。

 どんなに周囲が都会的になろうが、近未来的になろうが、祖母はただ歳を重ねただけの、懐かしい祖母であった。

 僕が、恐らく仕事を休んでまで帰郷した理由については、いっさいなにも聞かなかった。

 そういうところが、僕が実に祖母を尊敬している所以である。

 祖母のすき焼きは、かなり味が濃い。でも、生卵を三つ使って、たらふく食べた。

「ねえ、僕、ちょっと前に、急に昔のことを思い出してさ」

「ふん」

「五歳とか、六歳とか……そんなだったと思うけど、よく遊んでた仲間の中に、小さくて細くて、喋り方に癖のある女の子がいたのね。祖母ばあちゃん、その子、知ってる?」

 さりげなく話を持ち出す。祖母は、まったく知らないかもしれないと思ったから。

 しかし、祖母の顔色の変わりようは、僕が今迄、見た経験のない、怯えたような嫌な顔だった。

「徹、何を思いだすた?」

「何って……だから、そんな女の子がいたのを……」

「悪気はねがっただな? そんでもあの子は、ぎっとづらぐであったんだべさ」

 僕の身体が、動かなくなった。解らぬ恐怖に、金縛りに襲われたみたいである。

「いだごと思い出すただげなら、もうそれでい!」

 さっぱり理解できない。どういう意味だろう。

 祖母は、あまり飲まない酒を、いきなりごくごくと喉に流す。

 僕は、頭の奥がちくちくと痛むのを感じた。やはり僕は、何か忘れている。

 昔の経験だから、忘れたのではない。強引に、自分の記憶から排除したのだ。

 何があったんだ?

 祖母は、何も言わない。苦しそうに俯いている。

「大人にしてみだら、大したことでねえ。どぢらも……みんな、幼がったのよ。幼い子供の気持ちを、どうにも解ってけれねがった」

 ぽつりぽつりと、苦しそうに言葉を吐き出す。

 畳の上に水滴が落ちた。祖母の目から落ちる涙は、畳の上に、染みを作る。

「ちょっと祖母ばあちゃん、どうした? 何があったのさ。僕、忘れてるみたいで……大丈夫だよ。もう、大人よ。話してみてよ」

「もうい! もう思い出さんでい!」

 祖母の様子に、ますます、徒事ただごとではないと思う。思い出すべき事実、僕の知らない事実は、なんだ!

 自分の記憶を蘇らせようと試みる。

 だが、背中を丸め、ぽとぽと涙を落とす祖母の姿に、心が牛耳られる。抜け落ちた記憶は、向こうは向こうへと逃げる。

 思い出せそうなのに、手を伸ばすと、するりとかわす。

 祖母は、両の掌で自分の両目を不器用に拭う。

「あ~あ。歳を取るど、涙もろぐなっでいげね」

 顔をあげて、僕を見て歯を見せ、にっと笑った。それは、寂しく哀しい笑顔だった。

「ねえ、僕さ。あの子について、調べに戻ったんだよ。……仕事だよ」

 僕は、嘘をいた。

祖母ばあちゃんに最初からそう言うと、余計な詮索すると思ってさ。知ってること、教えてよ」

「いまさら、白夜びゃくやのなにを知りてえだ?」

のなにを調べるだ」

「祖母ちゃん、今なんて……ビャクヤ? そうだ……ツ…ツク……ツクナ? ツクシ?……」

九十九白夜つくもびゃくやだんべ? 徹~、名前も忘れでだのが?」

 そうだ。

 彼女の名前は、九十九白夜

 名前を聞いたら、僕の頭の中で、チカチカ火花が散った。

 眠っていた脳の回路を、瞬時に電気が駆け抜けた。こんがらがったまま凍てつかせた、まるで絡んだ黒い糸屑のような管の中を、光を放つ澄んだ水が、猛スピードで抜けたようだった。

「九十九白夜……そうね……滅多にない名前だった……」

 当時、(今もだけど)友達の中に、これほど洒落た名前の女の子はいなかった。

 幼い僕たちでも、意味なんか解らなくても、九十九白夜は、特別な感じのする名前だった。だいたい、苗字が九十九である。どんな漢字を書くかも知らなかった。

 だけど僕は、白夜から聞いた。どんな漢字を書くのか。

 僕はその頃、もうすでに、自分の名前を漢字で書けた。誰から教わったのだろう。書けるようになったばかりだった気がする。

 僕は、白夜とよく遊んだ。

 皆でも遊んだけれど、僕は、しょっちゅう白夜と二人で遊んだ。

 それすら、忘れていた。

 白夜は皆に、散々喋り方を揶揄からかわれていた。僕は喋り方なんか気にならなかった。だから白夜は、僕には気を許していたのだろうか。

「トオル君。トオル君」

 よく名を呼ばれた。

 彼女にとって、〝トオル〟という名前は、つかえずにすらりと、呼び易い名前だったのかもしれない。

 僕はある日、白夜に自慢気に話す。

「ビャクヤって、どんな漢字? ツクモビャクヤって、漢字で書ける? 僕はねえ、もう自分の名前、漢字で書けるんだから」

 白夜は目を丸くした。

「へえ、トオル君、ちゅ、ちゅ、ちゅごい。か、書いてみちぇ!」

 僕は、木の枝を拾い、地面に文字を書く。

「山と谷の谷。顔にある口。徹は……トオル! よく……とおるー!」

 徹という文字を、巧みに説明できずに、よくとおるー、と適当にごまかした。 

 白夜は、異常なまでに目を輝かせた。

「お口がとーるー。ちゅっごい。す、ってき。谷の、口、は、とーるー」

 僕にはさっぱり意味不明を口にし、白夜は嬉しそうだった。

 僕は、漢字の書ける僕に感心したのだと、いい気になった。

「ねえ、ビャクヤはどんな漢字? ねえ、ツクモビャクヤって、漢字で書いてみなよ!」

 僕は、嫌な奴だった。白夜には書けやしないと高を括っていた。

 白夜が、僕のほうに手を差し出す。木の枝を渡してというふうに。僕は、小さな白夜の手に、木の棒を渡す。


 九十九 白夜


 美しい文字だった。

「じゅっと、日がく、く、暮れない夜」

 僕は呆気に取られ、馬鹿にしていた自分が、強烈に恥ずかしくなった。

 美しい名を、白夜は巧みに僕に説いた。

       ……

「なあ、徹。なすて東京にいるおめえが、白夜ば調べねばならんのがね? 事件か?」

 一点を見詰めたまま、動かない僕の顔を、祖母が心配そうに見詰めている。

「いや、いいんだ。全然関係ないと思う。ただ、妙に気になってさ。気になり出したら、居ても立ってもいられなくなって、帰って来ちゃった。ばあちゃんにも、会いたかったんだ」

「白夜はもう、こごさはいね。元々、流れ着いただけだ」

 祖母は、再びぐいっと、酒を呷る。

「ああ、かっらー!」

 小さな皺の顔を、さらにくしゃくしゃにして、必死に笑いを拵える。

 僕と祖母は、あとは口数が減った。

 それでも、久しぶりの再会に、もう寝るかねとも、互いになかなか言い出さない。

 時々、漬物を齧ったり、足の爪を眺めたりしながら、長い時間、二人で、同じ空間にいた。

 祖母のいる場所は、そこだけが周りよりゆっくり時が流れているようである。何もせずとも、ただそこにいたいと思わせる、居心地の良い場所だった。

 日付も変わった頃、ようやく祖母が寝た。

 僕も、祖母が昼間に干してくれたのであろう、太陽の香りのする布団に横たわり、また、白夜について考えた。

(僕は白夜と、かなり仲良くしていたんだな)

 意外だった。

 皆で揶揄やゆした場面は覚えている。なのに、仲良く遊んだ昔が、抜け落ちていた。

(仲良くしていたのが、記憶を封印するほどの事実? おかしいなあ……)

 しっくりしない。

 祖母は泣いていた。「白夜は辛かっただろう」と、涙を零した。

(まだ、全て思い出してない……)

 僕はきっと、まだ、核心の事実を忘れている。

(明日は、その辺をぶらっとするか。祖母ちゃんは、白夜はもう、この土地にはいないと……真実だろう。だったら、いなくなった日を、知っているのだろう。いついなくなったのだろう。僕が忘れているだけなのだろうか……)

 白夜と仲良く遊んだ小さい頃を思い出しても、その先がない。

 僕は、高校から上京した。

 まだ健在だった両親は、僕が東京の高校を受験したいと告白したら、お前がしたい道へ進めばいいと、背中を押してくれた。

 必死に勉強して、関東の優秀な高校に合格した。

 東京の高校を目指したのだけれど、実際には、少しばかり偏差値が足りなくて、埼玉県浦和市の高校に変更した。

 優秀な高校には違いない。

「谷口家の誇りだべ。地元の誇りだんべえ。まあ……埼玉県だからって、ここらの高校より、ずっと優秀な学校なんだべ? 父ちゃんには、よぐ解らねえけんど。細けえことは、ええ。金は心配すんな」

 父はそう、送り出してくれた。

 上京し、実に運よく安い学生寮に入って、そこから僕の東京暮らし(実際には埼玉暮らし)が始まる。

 父は、地元のお巡りさんだった。

 なんというのか……巡査とかではなくて、お巡りさんだった。

 亡くなるまでお巡りさんだった。

 出世とは無縁で、頭も良くないが、子供と年寄にはこよなく愛される、ふうな、お巡りさんだった。

 実際にこよなく愛されていたかなど、僕は知らない。

 でも、僕にも優しい父だった。 穏やかで、声を荒げるのを、聞いた経験は皆無だ。

 母は、市場で働いていた。朝早くから勇ましい出で立ちで、軽トラを運転して市場に出掛けて行った。なかなかの強者(つわもの)だ。荒々しい男たちに混じって、引けを取らない。

 たまに用事で市場の母に会いに行くと、一際ひときわ大きな、甲高い母の声が響き渡っていた。

 思春期にはそれが恥ずかしくて、しばらく、いいようのない腹立ちを母に打つけた過去もある。

 そんな時でも、母は怯まない。

「大声のなんにが恥ずかすいの! 声は腹の底がら出すもんだべ。なに喋っちゅうがわがんねえような話すかたばするもんでね! 訛りがいげねのが? くぐもったよなぼっそぼそより、よっぽどい!」

 ガハガハと笑い、その内、僕の反抗期も、母の笑いに払拭され、終わった。

 身体は大きくなかったが、いかにも健康的な、圧倒的な明るさを持つ人だった。

 父と母は、仲の良い夫婦だったと思う。

 夫婦の在りかたについて、僕が考えるような歳になる前に亡くなったけれど、だからこそ、僕にとっての理想の夫婦は、生前の両親を指す。

 時間は、そこで止まったままである。

 高校に入って、地元を離れる頃の白夜についての記憶が、まるでない。

 中学の途中から、それはもう、反吐へどが出るほど、猛烈に勉強した。

 学校の行事もクラブ活動も、友人についても、ある程度は勿論覚えている。それでも、ひたすら勉学に打ち込んだ記憶が、圧倒的に勝る。

 白夜は、いつまで僕の近くにいたのだろう。記憶は、ぷっつり途切れている。

 太陽の熱の残る、ふかふかの布団の上で、しばらくあれやこれや思い出していたが、その内、太陽の陽の残り香に包まれ、眠りに落ちたようだった。


                                つづく

 

 


 

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記憶の感触 四十万胡蝶 @40kochou

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