第8章 閃くは、本物探し

 僕には、女の子に誘われる、なんて感覚は、まだきっと芽生えていなかった。

 それでも、〝二人だけで〟って言葉に、何かしらの特別な空気は、感じていたのではないかと思う。

 自己の記憶でも、なかなかその当時の微妙な自分自身の気持ちは、大人になった僕にはうまく説明できない。同じ線上にあっても、違う自分である。

 嬉しい気持ちにならなかったのは確かだ。どちらかと言えば、気乗りしなかった。なんで、二人きりで会いたがるのだろうと思った。でも、「嫌だ!」とも言えなかった。断るより、僕を誘った要件を知りたい気持ちが、少しだけ勝ったのだろう。

 夕方、どのように待ち合わせたかは、覚えていない。

 二人だけだった。

 僕とその少女は、薄暗い公園か何処かに、屈んでいる。

「あの、トっちゃ、トオルちゃ、んも、あた、ち、ちゃ、ベロが変と、思っちぇ、ちょ、いる?」

 そんなふうに聞かれたように思う。

 僕は、黙っていたかな……首を振って、否定しただろうか。

「そんなふうに、思ってないよ!」

 定かでない。

「ベロ、長い、ちゃ、の、きゃ、きゃな? 短い、の、け、か? 変。変なのよ、みゃ。チタキリチュジュメ、てお話、チュジュメ、ちゃん、悪くにゃい。いい、子、ちぇ、よね。なのに、ち、意地悪な、ばあ、ちゃ、んに、舌を、き、切られ、る」

「そうだったっけね。○○ちゃんは、大丈夫だよ。みんなが色々言うの、気にしなくっていいよ」

「うん。でも、べ、べ、ベロが変っちぇ言われるの、悲しい。涙、出る。きも、き、気持ち悪い、って言われるの、のも、嫌」

 僕はたぶん、とても困った。

「ベロ、ちょん、ちょん切れば、みんな、にゃ、なと、同じに、なりゅ?」

「変な発想だよ! そんなのダメ! 痛いだけだよ。みんな、本気じゃあないよ!まともに、聞くなよ」

 僕は、言えただろうか。曖昧だ。解らない。

 でも、その子は、自分の舌を短くしたら、みんなと同じになれて、もう、ひどいことを言われないと、思っていた。

 実際、舌が短いのか長いのか、それすら解らない。だいたい、舌の長さが原因ではなかろう。なのに本気で、舌を切れば同じになれるかもと、考えていた。

 どれほど真剣に悩んでいたのかなど、今となっては、それすら、解りようがない。

 あの少女は今、どうしているのだろう。

 あの日のできごとは、これだけか? 僕にとって強烈だったのは、悪口が彼女を傷つけていたと、知ったことなのか? 

 違う。何かもっとあった。強烈な何か。

 ところが、その日のできごとを、より鮮明に詳細まで思い出そうとすると、頭の奥がズキズキと痛む。

 すっぽりと抜け落ちている気がする。

「舌を噛み千切る犯人と聞いた時に、思い出しても良かったのに……どうして田嶋幸奈の話に、あの日を思い出したのだろう……」

 抜け落ちていた、幼少期の経験。なんとなく嫌な感じが、僕に絡み付く。

 おまけに外は、ひどい湿気を帯び、だるような暑さである。

 マンションに帰った時には、絡み付く思い出せない記憶と、纏わる汗に、吐き気を催すほどだった。

 食欲がない。でも、ビールだけは、飲みたくなる。

 正確には、ビールではない。僕に、拘りはない。最近は、発泡酒にしろ、第三種なんちゃらにしろ、お酒売り場には、やたらカラフルで目を惹くネーミングのされた商品がたくさん並ぶ。ノンアル商品まで並ぶ。

 拘りがないから、迷う。どうしてこれほどにあるのかと思う。

 迷った挙句、端から一本ずつ、籠に入れて買ったのは、昨日だ。ポリ袋が手に食い込むのに耐え、買った数本のビールだかビールもどきだかが、冷蔵庫に冷やされている。実になんとも、嬉しい限りだ。

 冷蔵庫を開ける。

 カラフルで楽し気な缶たちが並ぶ。

「さて、どれにしよっかなあ……」

 つまらない日常の、ほんのささやかな楽しみである。

 この時代、癖はあっても、どれも美味しくできている。酎ハイでもカクテルでも、僕はなんでもいける。面白いから色々買って、時に、ハズレでも、それはそれで楽しむと決めている。

 その日は、赤い缶に金の文字が入ったものにした。夏限定の缶らしく、花火に、南国を思わせる花と鳥が、カラフルにたくさん描かれる。

「洒落た柄だなあ……目まで、楽しめる。缶は綺麗でも、中身はハズレってことも、たまにはあるか? ロシアンルーレット、かあ……」

 そうだ。僕が色々な缶から、その日の一本を選ぶのは、少々、ロシアンルーレットに似た感覚だ。

 とは言え、僕の酒選びは、購入する時だって、冷蔵庫から取り出す時だって、選びたければ十分に選べる。中身を知るはある程度可能である。缶には原材料として、詳細が記されているのだから。売りの言葉だってヒントになる。すっきり爽やか、とかね。

「あの九頭龍伝説は……真髄の頭を残す。影を落とさずに……見た目はまったく同じ頭だぞ! 難しそうだわ」

 いったい、成功率は何パーセントだ。数学は得意としない。これは、肝っ玉を冷やすに違いない。

「結局、九頭龍はどうなったのだろう……」

 僕は、深夜番組を、最後まで見なかったことを、いまさらに悔いた。

「バカバカしい! 所詮、作り話じゃないか!」

 断ち切ろうと、首を振る。

 でも、断ち切れない。

 龍自身には、自分の頭は落とせないという話だった。

 それなら、誰が斬り落とすのだろう。

 斬り落とすわけだから、龍を殺したい奴なのだろうか。

 だとしたら、龍の幸せなど、望む必要はない。「真髄の頭を残さなければ」なんてことに、肝っ玉を冷やす想いなどしなくて良い。どれからでも片端からバッサバッサと斬り落とせばいい。美しい龍にする、意味などない。

 だとすれば、至難の業に挑戦するのは、龍を、美しい、真髄だけの頭の姿に戻したいという、熱い想いの者である。

「なんだよ。憎む者が片端から首を叩き切るだけなら、元々、真髄の頭だ、まやかしだ、影だ、厄介な事情は要らないじゃないか」

 愛する者が、愛する者のために、愛する者の首を斬る。斬り続ける。

 ロシアンルーレットに挑戦して、真髄の頭を残すに、賭ける。

「なかなか、ロマンチックだ。しかし……相当な勇気がいるぞ。すべて、己の責任だ。並の精神力では、持たなそうだ」

 勝手に、龍は男、斬るのは女と想像する。

 なかなか絵になる。

 今度は、龍は女、斬るのは男と想像する。

 これまた、いける。

 悲哀に満ちた伝説だ。だが、怖い。悲哀では済まない。要するに、首を斬り落とすのだから。

 山口の言う通りだ。

 九頭龍は伝説だからいいとして。僕は、背筋がぞくっとするような、怖ろしい話が好きなのだ。

 困ったことに、刀を持って、斬る女を想像した時、女は凛子になっていた。

 凛子は、勇ましい女を当て嵌めると、実に美しく嵌る。

「いやいや、よくない。凛子はもう、僕の彼女じゃない。忘れるべきだ」

 否定しようとした瞬間、なんてことだろう。その女性は、忘れていたはずのあの子になった。

 まだ、五、六歳の、幼いあの子だ。名も思い出せない、あの子だ。

 はっきりした顔は解らない。なのに、輪郭も、目や鼻などの、顔のパーツも朧気おぼろげなままに、あの子が刀を振る。不気味である。

 最後に、田嶋幸奈にしておいた。無難だ。別に、僕が龍だってわけじゃない。ただ、女の役が欲しかったんだ。

「龍の彼女は、真髄の頭を見付けたかったんだな」

 はっとする。

 今、僕は、何を思った? 

 龍の彼女は?

 真髄の頭を?

 見付けたかった!

 本物を見付けたかった。本物を探す。

 自分の愛する本物。何を頼りに? 〝舌〟か……

 かなりぶっとんでいるようにも思える。でも、僕が、きちんとした根拠もなしに、何かと何かが結びつき閃く時は、驚くほどきちんと、閃いている。当たる。

 ぶっ飛んでいると否定されそうだから、すぐには誰にも言えないのが常だ。でも、すぐに言えなかったのを、たいていは後悔する羽目になる。

 そこまで解っていても、さすがに山口に電話して、

「きっと本物を探しているんだよ。九頭龍伝説の、真髄の頭みたいにさ。〝舌〟が頼りなのよ」

 とは、言えない。

「お前……とうとう狂ったか? それとも、おちょくってんのか? 冗談が通じる状態にいないぞ、こっちは! 切る!」

 山口に怒られるに違いない。

 でも、それでも……伝えるべきなのに。

 まさかと思うのに、望んでいないのに、またもう一人、犠牲者が増える予感がする。何故なぜなら、真髄は、五番目だからだ。

 事件と九頭龍伝説が関係あるなんて、誰も言ってない。なんの根拠もない。

 つまりは、僕の閃き。こじつけ。妄想だ。

 かなり強引だ。

 でも、当たっている気が、どうしてもする。

 山口が追っているのは、現実に起きている殺人事件である。伝説なんかじゃない。犠牲者は、もう出してはいけない。僕の考えが、妄想だろうとなんだろうと、もしそれで犯人に行き着くなら、山口に話すべきであろう。

 そう、きっと犯人は、自分の本物を探している。だから、身体を重ね、合わせ、舌を絡ませ、噛み千切る。

 誰を探しているのだろう。

 殺害された三人には、やはりきっと、共通点がある。

 僕は、後悔しないために、山口に電話する。

「もしもし」

 仕事中かと思えば、山口はすぐに電話に出た。

「もしもし、俺。谷口の透」

 どうしてだか、いつも僕を使うのに、俺になる。

「おお、なにか思い付いたのか?」

「うーん、微妙なんだけど……今日はもう、上がりか?」

「ああ……うーん、あのだな、上りは上がりなんだが……」

 いつになく歯切れが悪い。

「まだ外?」

「ああ、外だ。でも、仕事は上がった。今日は野暮用で」

「野暮用?」

 聞き直してから、理解する。

「ええ? ええええ? お前、彼女、いたのか?」

 僕たちは、お互いを詮索しないで付き合って来た。しかし、こうまで何も知らないと、長い付き合いの親友と言えるのか、不安になる。

「別に、隠していたわけじゃない。話すきっかけがなくって」

「まあ、そうだよね。しかし……いたんだ。ちょっとショックを受けたよ。付き合って長いの? それとも、今日限りかもって、そういう相手?」

「あのなあ……今、一緒にいるんだよ。そういうこと、聞く?」

 興味は大いに持ったが、忙しい最中さなか、束の間の密の味なのだろう。邪魔してはいけない。

「そりゃ、そうだ。ハハハッ。わりいわりい。それなら……今宵は遅くまで僕とはお話できないわね。解った。お前が、デートできるくらい余裕なら、またにするよ」

「余裕なんてない。なくなり過ぎた。頭も少し休ませたかったんだよ。嫌な言いかた、するなよ!」

 山口が、不機嫌を隠さない。僕も、ムッとする。

(僕だって、彼女がいたのも知らなかったのかって、かなり衝撃受けてんだよ。でも、笑って、余裕ある振りをしてんだよ。事件の一刻も早い解決のために、きっと当たりだって、妙な勘を話してやるかと電話したのにさ。お前に呆れられても、すぐにきっと、お前なら役に立てる。そこまで信用してるのに。彼女と一緒だあ? ふざけんなよ!)

 心の中は、大人気ない。

「デート、楽しめ! 邪魔したな」

 苛立ちが相手に感じ取られるのも、癪だ。短い言葉で、電話を切る。

 思い切って電話した威勢は、あっけなく挫かれた。僕は、キッチンに向かうと、冷蔵庫から、もう一本ビールもどきを取り出す。

 豚小間肉ともやしをフライパンで炒めながら、二本目の缶を開けた。今度は、青い缶だった。

 人の心は、案外とその時選ぶ色に反映されるものらしい。

 気分は、とてもブルーだった。

                               

                               つづく

 

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