第7話 コンプレックスと、呼び起こされる記憶
僕は基本、早目に職場に到着する。そう、心掛けているからだ。
大変な事件でも起きれば、昼も夜もない。疲れ果てて、ほんの少しでも休みたいと思う仲間がいれば、電話番でも引き受ければ、少しは眠る時間をあげられる。
僕は、大した人間ではないし、直感でヤバいと感じる事件からは、遠退いていたほうがいいと思っているので、(恐らく周囲も、僕を遠退かせているのがいいと、思っている)せめて少し早めに出勤し、電話番でもして、なんとか
休んだ次の日は特に、早目に職場に到着するのを、とにかく真面目はいいことと、実行している。
署に入ると、入り口には若い女性が座っていた。傍らには、女性警察官が屈み込み、そっと女性の顔を覘き込みながら、なにやら一生懸命に語るようだ。
女性警察官の名は、
しばらく歩みを止め、様子を窺う。若い女性はのろのろと立ち上がり、田嶋幸奈に軽く頭を下げると、項垂れたまま、とぼとぼと警察署から出て行った。
田嶋幸奈は、出口まで連れ添い、振り向きもしない若い女性に、思い切り手を伸ばして手を振る。女性の姿がようやく見えなくなって、田嶋幸奈が署内に戻って来た。
声を掛ける。
「おはよう。なにかあったの?」
田嶋幸奈は、唇の左側だけ少し上げて、笑うとも怒るとも言いようのない、微妙な顔を向ける。
「おはようございます。あったんです! 朝から」
「なに?」
ゆっくり歩きながら尋ねる。
「痴漢ですよ」
「あ? ああ。さっきの彼女、痴漢の被害者なの?」
「まったく、男ってのは……しょうもないのが絶えませんね! まあ、女でもXジェンダーでも、しょうもないのは常にいるんですけど! ねえ、聞いてくださいよ」
そう来なくっちゃ。どんな話か、興味があるから尋ねたのだから。ああ、僕も、しょうもない男の一人に違いない。
「満員電車の中で、男性が先ほどの女性に、痴漢行為を働いた。ま、一言で説明すれば、それだけです。でも、警察ってそうはいかないでしょう? 痴漢行為をしたとかしてないって、それ、やったとされる側にとっても、やられたと訴える側にとっても、簡単ではないでしょう? やってもいないのに、痴漢だなんて訴えられれば、檻にぶち込まれなくっても、その噂だけで人生終わってしまう男性も出て来ます!」
まったくだ。しかし、さっき彼女は、男ってのはしょうもないと怒っていた。被害者であろう、先ほどの女性への接し
「今回は! も? なのかしら。複雑なんです。さっきの女性が、被害を訴えて来たわけではないんです」
「なら、誰が?……まさか、君か?」
「そうです!」
なるほど。
「満員電車の中で、彼女の前側から、男が彼女に覆い被さっているように見えました。身体を密着させて。でも、彼女のボーイフレンドとか、知り合いとかかもしれない。そもそも、満員電車です。こちらだって慎重でした」
「彼女は、嫌がっているふうだったんだね?」
「身体を離したがっているみたいに見えました。でも、満員電車だからなかなかそうもいかない。『止めて!』とでも声を出せば、捕まようと思うけど、微妙で」
「しばらく放置して、見ていたってわけだ」
「警察官になった頃は、犯罪は、できれば未然に防ぐ。犯罪者は捕え、犯罪を減らす。日々それを念頭に、威勢のいい若者だったんです、私。でも、経験を積む内に、間違った見方で決め付ければ、加害者だろうと被害者だろうと、捻じ曲がった事実を作り上げ、取り返しがつかないって、思い切りが悪くなりました」
「もっともだと思うよ。いいんじゃない? 先走りは、良くない」
「今日も、男が痴漢行為を止めればいいのだからと、男を睨んでみた。男は目の前の女性に夢中で、私が睨んでいるのにも気付かない。そうしたら、とうとう男の手が彼女の胸を両手で掴んだんです」
「確信犯じゃん!」
「ええ! 彼女も悲痛な顔をした。だから私は、逃げられない満員電車の中で男に近付き、男の手を掴み、逮捕です。勤務前でしたけど」
「勤務前でも、痴漢の現行犯逮捕で、なんの問題もない。なにが複雑よ。男が、痴漢行為を認めないの? 田嶋さんは、見たのでしょう? 両手で胸を掴んだのでしょう?」
「認めました。触った、胸を揉んだ、と言ってます。でも、『本人は、嫌がっていたのか?』と言い出して……拒絶はしていなかったって。公共の乗り物内では、相応しい行為ではなかっただろう。でも、それ以上はしていない。女性が嫌がっているなんて、まるで思わなかったって、しらっと抜かすんです。頭に来る!」
「はあ。でも女性は、嫌がっていたのでしょう? 嫌がってました!って言えば済む」
「ここからですよ。複雑なんだなって思ったのは」
「そうか。ここからか」
「最初に断っていいですか? 谷口さんだから……谷口さんって、人の心の解る人って、そう信じているから、変だと思わないで聞いてくれますか?」
「う、うん。なんだか前置きがあると、緊張するね」
田嶋幸奈は、目にうっすらと涙を浮かべている。僕は、田嶋幸奈が心配になって来た。
「私、ぺちゃぱいなんです」
「へ? 今、なんて?」
突然の告白に驚く。
「それも、〝超〟の付く、どぺちゃぱいなんですよ」
「その告白、なに? よく理解できない」
「ものすごーいコンプレックスなんです! 些細なことよと、気にしないようにしたいのに、どうしても哀しくて。お風呂場とかで、鏡の前で裸になっても、自分の胸は見ません。見られないんです! 鏡に映る自分の胸を見ると、舌を噛んで死んじゃいたくなるんです! 真面目に! お願い。笑わないでくださいね」
僕は、呆気に取られ、笑うどころではない。彼女の話の先も、まるで見えない。
「だからね、胸の大きな女性が、羨ましくて羨ましくて……グラマーな人はみんな、わざと胸を突き出して、自慢しているんじゃないかって、僻むくらいだったんです。で、さっきの彼女は胸が大きいんですよ」
「? さっぱり意味が……僻んで、痴漢行為があったと、間違えたって意味?」
「ぜんぜん違いますよ! あの彼女は、胸が大きいのが、
ようやく話が見えて来た。
「だから、胸を触られた事実を、大袈裟にしたくないって、騒がれたくないって、そう言ったんだね?」
「まあ、だいたいはそんな感じです。胸について弄られるのが、彼女は堪らなく嫌なんだそうです。でも、たいていは私みたいに、胸が大きいのは、女性としていいことと解釈されるので、嫌がるのまで、わざとらしい、自慢してる、と受け取られたりするんですって」
「だけど……痴漢行為は嫌だった! と言えばいいんじゃない? 胸が大きいからって、痴漢に触られたいわけじゃないでしょう」
「そんな単純じゃない! 彼女は、過去に、胸を小さくする手術まで考えた。親友の女性に相談した。そしたら、『嘘ばっか! なんでコンプレックスの胸の話、わざわざ持ち出すの? 私のぺちゃぱいを、遠回しに馬鹿にして!』って激怒されたって」
「それは……その女性にも、親友にも、どこか性格的にいけないところが……
「そんなの、誰にでもあるでしょう! 私、別に彼女を好きでもなんでもない! でも、彼女はね。思い詰めて、自分で自分の胸を庖丁で切り取ろうとした傷が、胸に残っているんですって」
「ぎょえ! ねえ、やっぱり少し、行き過ぎたお嬢さんなんじゃない? なんか……怖い話になって来たけど」
「『痛くって、簡単には切り取れなかった。だけど、苦しんだ傷跡さえ、大きな胸がどれだけ酷いコンプレックスかを、全ての人に証明する証拠にはならないの』って、力なく笑ってました。行き過ぎた行為をもってしても、解ってもらいたかったんじゃないでしょうか」
さすがに、僕は黙った。確かに、誰かに、自分の苦しみをどうしても理解して欲しければ、行き過ぎた行為もするだろう。
「『手術して胸を切り取れば、ようやく苦しみの度合いが理解されるのかもしれないのだけど、お金、とっても掛かるの。とても、出せない』そう、淋しそうに呟いてました」
満員電車で、胸を触られたという、単純な痴漢行為。事実はそれだけ。でも、背景は、実に複雑だ。
「私、間違ってました。私は、ぺちゃぱいが死にたくなるほど嫌! だけど、今時は下着で盛れますからね! 大きい胸は、
「ああ、そうね」
とても変なタイミングで、相槌を打った。僕は、ブラジャー事情など、まるで知らない。でも、彼女の話に、僕は今まで気付けなかった大事な点に気付かされて、驚いていた。
「私は下着で盛ってます。ぺちゃぱい、誤魔化して隠してます。隠すほどのコンプレックスなんです! でも、でもです。私は、豊胸手術までは考えたことがない。悩んで、苦しんで、豊胸手術をする人もいます。それはそれでいいと思います。だけど、私が豊胸手術を考えないから、たいしたコンプレックスではないって判断は、して欲しくない」
「それはそうだろうね。悩みの大きさを測るのは、そこではきっとない。だいたい、悩みの大きさ、傍目からは測れないよ」
「泣きたいほど、嫌なんです! ぺちゃぱいが嫌! でも、さっきの彼女の苦しみは……私の比ではない気がする。大きいのに! 大きいから? そこで悩む人はいないって、勝手に世間が判断するから? だって私も、最初は、胸が大きいからって、なんか嫌味な奴って、ちょっとそう思ったもの。私はぺちゃぱいなのにって!」
田嶋幸奈がぺちゃぱいだという事実は、僕にはどうでも良かったけれど、田嶋幸奈はとても正直だった。田嶋幸奈の興奮ぶりに、僕はとても心を動かされた。人は、周りには解らないところで、実に深刻に、悩んだり苦しんだりしているのだ。
それも、コンプレックスの話である。
皆が同調できるコンプレックスもあるが、こればかりは、本人にしか解らない、という場合も、確かにたくさんあるだろう。
「結局さっきの彼女は、解ってもらえないコンプレックスの苦しみから、痴漢については事件にしたくない。大騒ぎになるのは嫌だと? 訴えないと結論を出したのか。悲しく辛い思いをするのは、むしろ自分だろうから、とでも?」
「その通りです。私がなんとか訴えようと、躍起になるとします。今度は、『ぺちゃぱいは、触られる心配もないからな。実は、痴漢に遭ってみたいんじゃあない?』なんて抜かす奴が、この世には五万といるんです。起きる前から、嫌な先を予想して、躍起になれない自分でした」
「まあねえ……確かに。まるで関係ない人間が、口を出すからね、今は」
「今の時代、こういった発言は、セクハラ、パワハラ、モラハラ、
「まあ、そうなのだろうけど……その人その人の〝これだけ〟は、一般的には解らないから」
「そうですよね。他の人に、それを覚れってのも、無理難題には違いない。でも、それでも、本人にしてみたら、十分に苦しんで来たのだから、もう触れないでって思うでしょう? きっとそういうのに触れるのも……犯罪に繋がると思います」
「ああ、確かに。対人間の場合……お互いのずれが、犯罪を引き起こすよね」
「あの女性だって、これからも同じような嫌な目に遭うかもしれない。でも、きっと泣き寝入りする。痴漢事件は、被害者は確かに被害者で、実に被害者だったわけです。でも……どうしても辛くて嫌だから訴えないって仰るので、終わりました」
「なるほど……あのさ……君は、大丈夫? なんか月並みの台詞でごめんよ」
田嶋幸奈は、はっとした顔をして、少し笑って見せた。笑わなくってもいいのに。
「あっ、すみません。出勤されたばかりに長々と。嫌だ! あまりに色々な感情が湧いて、噴火寸前のところに、谷口さんが声を掛けてくださったから。なんだか私……アハハ。ちょっと私、興奮のあまり、なにを打ち明けちゃった? ある程度は、忘れてください。でも、話を聞いてくださって良かった。通常業務に戻れます!」
田嶋幸奈は、走って去った。
衝撃を受けていた。男目線では、けっして解らないところを伝えてくれた。
今時、男だから、とか、女だから、と口にするだけで、差別的発言だと捉えられる。僕は、差別なんかするつもりはないけれど、区別はあると思っている。だって、人は、雄と雌で、そもそも身体の造りが違うのだ。差はあって、当然だろう。
差別を失くすのは、違う部分は違うと弁えた上でのことと思う。女性同士なら、解ることもあれば、女性同士だからこそ、反発を覚えることもあるだろう。男だって同じだ。
でも、田嶋幸奈の話は、そういう話でもない。
要するに人は、実にそれぞれなのだ。ぺちゃぱいとグラマー、どっちだって、死にたいほどのコンプレックスになりうる。他人の思い込みや、心ない一言に、どっちの場合でも、更に死にたくなっちゃう! ものなのだ。
コンプレックスは、犯罪に繋がる。なんだか脳裏に焼き付いた。
休み明けの一日は、パソコン相手に、瞬く間に時が流れた。
僕は別に、いつも机に座っているわけではない。でも、データの打ち込みなどは、案外手間が掛かる。刑事には、やたらと表に出たがるのも多いので(思い込みだったらすみません、と謝って置こう)パソコンでの書類作成、計算関係、訂正、など、雑用と見做されるが、すべき細やかな仕事を、案外僕は好きだ。だから、外には出ずに「やっといて!」と積まれた仕事を、片端から片付けるのが、最近の僕の仕事の在り方となっている。
確かに現場は大変で、なのに、机の前に座るばかりで、俺はいいのか? と、己を責めたこともある。
でもある時、なんどもなんども現場を見た人から嘆かれた。
「もう、新しい目では見れない。なにも発見できない」
だから、ずっと話だけを聞いて来た、僕の妄想話を、彼に聞かせてみた。これが大いにヒントになり、一気に事件は解決した。
以来、デスクに座ってばかりなのも、あながち悪くはないのだよ、と自負している。
そうよ、人はそれぞれ。仕事なら、なんでもせねば。だけど、向き不向きくらいあるさ。
すべき仕事は済ませた。一日、じゅうぶんに働いた。
僕は、夕方六時半に、署を
家に帰る道すがら、古い記憶を辿っていた。朝の、田嶋幸奈の話に、ずっと忘れていて、まるで思い出すことのなかった記憶が、呼び起こされた。
「あの子、なんて名前だったっけな……」
恐らく、幼稚園か、せいぜい小学校に上がったばかりの頃だろう。そこがはっきりしないほど、褪せた記憶である。
近所に住んでいたのか、幼稚園か小学校が一緒だったのか。その辺りの記憶も曖昧だ。多分、同じくらいの年頃だった。
背が小さくて、痩せた女の子だった。名前は、まるで思い出せない。
舌足らずの喋り方をする子だった。実際には、舌が長いのか短いのか、知らない。ぺちゃぺちゃした音の混じる、強い癖のある喋りの女の子だった。
幼い僕たちにはそれが、「ベロがおかしい!」ように感じた。
幼い子供は、案外、残酷である。まだ、どんなことを、どんな
まあ、歳を重ねたところで、さらに、それが
当時の僕たちは、実に幼くて、
その子が喋ると、
「変なの~。なんか、変」
「ベロがおかしいの?」
と素直に口にし、
「ベロが短いんだよ!」
「長いんじゃない?」
と、思い付いた適当な理由を口にし、
「舌きりスズメのお話、知ってる~? 切られちゃうんだよ、舌を!」
「切られちゃったんじゃないの? ○○ちゃんも」
「違うよ! 切れば、きっと上手に話せるよ」
と、思い付いた適当過ぎる解決案を、好き勝手に主張した。
やはり、今思い出してみれば、
とは言え、彼女を弄った側にいただろう僕は、けっこう、その子とお喋りをし、一緒に遊んだように思い出す。
僕は実は、彼女の話し
仲間の一人として、居ても嫌ではないし、居ないと気にになる、というほどでもなかった。要するに、僕にとっては薄い存在だった。
しかし、ある出来事が、僕がその女の子を、その時期を過ごした他の誰よりずっと強烈に記憶に留まらせた。
なのに今日の日まで、どういう訳だか、すっかり記憶から排除されていた。
「二人だけで、今日の夕方会いたいの」
彼女が僕に告げたのは、遠い夏の日のことだったろう。
つづく
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