第4話 三人目!
僕は、凛子と抱き合っている。
舌を絡ませるような激しいキスをしながら、僕は自分の
(なにをする! やめろ! もう凛子から、逃れられない)
妄想だ。
僕は、彼女の奥にしっかり嵌っているわけで、その瞬間に、口腔内にある舌を、しっかり噛まれたら……彼女から逃げられないのではないだろうか。
凛子はあまりにも僕に尽くしたから……だからこそ、とても僕を憎んでいて……愛と憎……これはなかなかにドラマティックじゃないか?
あろうことか、僕は凛子に、例の殺人犯を重ねていた。さらに、凛子にだったら、そんな殺され
(ただの猟奇的な変質者ってわけでもないかもな。でも、相当に深い関係の二人に限って起こり得る事件だとすると、連続殺人にはならないはずだ。ターゲットの一人を殺せば、終わりそうなものだ。なら……)
山口は、僕の目撃したブルーシートの中の遺体は、二人目の犠牲者だと言った。あの言い方だと、同じ手口で、つまり、舌を噛み切られて殺されたに違いない。同じ犯人であるのは、まず間違いないだろう。
殺された人間に意識があったと言うのなら、為すがまま、されるがまま、でいるのは……僕なら、凛子になら、そんな風に殺されてもいい。それが凛子に辛い思いをさせた報いであるなら、甘んじて受け容れよう。むしろ、喜んで受け容れよう。
いつしか、怖ろしい殺人は、甘美な夢となり、陶酔している己がいるのを否定できなかった。
「おまえ自身が、やばそうなのが好きなんだよ」
山口の言葉を思い出す。
(そうさ。認めるよ。見た目には、ただ、残酷で恐ろしく、目を背けたくなる光景でも、その中には案外、人間の深い哀しみや憎しみが隠されているからね。目を背けたら、真実は見えて来ない。それでもやっぱり、向き合うのはあまりに辛いから、たいていはそこまで踏み込まない。目を覆って、残酷って言葉一つで片付けるんだよ。真実まで辿り着いたら、残酷な光景が、人間の悲哀に満ちた、美しい絵画になる。それはそれで、問題なんだよ。〝美しい〟なんて感じてはいけないからさ)
気付けば、僕はまた泣いていて、そのまま眠りに落ちたらしい。
目が覚めた時、僕はあまりにも朦朧としていた。
自分の状況を把握するまでに、かなりの時間を要した。何処にいるのか、何時なのか……うっすらと開けた目に映る物が、自分の家の寝室の壁と、机と、小さな本棚であるのがようやく理解できた瞬間、飛び起きた。
「やば! すっかり寝ちまった!」
慌ててスマートフォンを探す。職業柄、いつ呼び出されるか解らないので、いつも自分の傍らに置くのに、なぜか寝室にない。
僕のマンションは、1LDKと呼ばれる間取りなのだろうが、寝室にしている、七畳より少し広い部屋と、キッチンを含む十六畳の生活スペース、それに、四畳半のウォークインクローゼット兼フリースペースなる空間がある。
僕の知る凛子の携帯電話の番号が、もはや、凛子と連絡をとる手段として、役に立たないことに気付かされた後、僕は、凛子と同棲していたアパートから引っ越した。
ぼろアパートだったが、彼女との幸せな思い出と、苦い時期の苦しみと、両方が染み込んだその場所から引っ越すことで、表面上だけでも、凛子を断ち切りたかった。
だから、少し高級な、一人暮らし向けの物件を探した。
広いリビングに置かれている、白木のダイニングテーブルの上に、スマートフォンはあった。呼び出されたのに気付かないで、
着信を見る。誰からの着信もない。
ほっとするが、スマートフォンに浮かぶ時間に、ぎょっとする。もう、夕刻の五時半だ。
凛子から電話があったのは、朝だ。話をして、泣きながら電話を切り、妄想に浸り、泣きながら寝た。いったい、何時間眠っていたのだろう。
「いやあ~、参ったねえ。せっかくの休みが……凛子ちゃんのせいだな。いや、山口のせいか?」
慌てると、つい、余裕を演じる。誰もいない家の中で。
「なにか食いたいが、買い置きはあったかな?」
冷蔵庫の中を覘く。卵が少しとキムチ。魚肉ソーセージ一本にプリン。なんとも侘しい。冷凍庫には、肉や冷凍食品が入ってはいるが、休みの日に、多少でも買い物をしないと、哀れな未来が待ち受けるのは、経験済みだ
以前、事件で、連日忙しかった。
疲れて帰ったある日、やっとの思いで浴室まで足を運び、勢い良くシャワーの栓を捻り、頭から熱い湯を浴びる。ようやく少し、生き返った心地で、シャンプーのボトルの頭をプッシュした。
パフ パフ
空振りの感触に、シャンプーが切れていたのを思い出す。その前に、ボディーソープがなくなり、シャンプーで身体まで洗っていたのに……だ。
あの日の侘しさは、もう経験したくない。
人は、同じ過ちを繰り返してはならない。自らが、嫌な思いをする。
スマートフォンと財布だけ持って、ぶらぶらと表に出た。なにが不足しているか、確認もせずに家を出た。こういう時は、買い物を終えて帰り着いた瞬間に、買い忘れに舌打ちする羽目になる。
同じ過ちは繰り返してはならないと思うのに、人生なかなかそうはいかない。所詮、人間なんて、愚かな生き物よ。
まあいいさ。意気揚々だ。
なぜだかとても気分がいい。凛子が結婚してしまうと、身体中の水分がなくなるほど泣いたのに。泣いたから、すっきりしたのかもしれない。それに、二日酔いとは言え、怖ろしいほど爆睡した。きっとそれも良かった。
どうせなら、なるべく買い忘れは減らしたい。僕の毎日に必要な買い物は、ドラッグストアとスーパーマーケットで十分だ。
まずは腹ごしらえだ。
ラーメンにするか牛丼にするか、迷いながら歩いていると、〝カルビ丼〟の文字が目に入る。どうやら、オープンしたばかりのようだ。
ちょうど夕飯の時間とあって、それなりに混雑している。でも、いい気分の僕は、少し並んででも食べると決めた。
五、六人が並んでいる。店の中は、カウンター席が幾つかと、四人なんとか座れるテーブルが三つ、かなり窮屈に配置されていて、全部埋まっている。列の最後に並ぶ。
僕の前に並ぶのは、十代にも見える、若いカップルだ。男のほうは金髪にピアス。派手なロゴ入りのTシャツに、ラフな短パンを履いている。女のほうは、ベリーショートの髪が、金と緑と赤の三色で、ぴったりとした真っ赤なノースリーブに、タイトなデニムのミニスカートを履いている。髪の色は派手だが、服装から見て、きっと
「お腹空いたねえ~。お昼、抜きだったもんね」
「朝が遅かったじゃん! もうすぐだろ」
「ねえ、ここで食べたら、買い物して行く?」
「なに買うんだよ?」
「飲み物。買っといたほうがいいでしょ?」
「ああ、いいよ。どこで?」
「酒屋? YAMAMARU《やままる》のほうがいいか。食べ物も見れるよ」
「そうだな。なんか、酒の摘みになる物も欲しいかも」
盗み聞きしているわけではないが、後ろに並んでいるから、二人の会話が勝手に耳に流れ込む。
会話を聞けば、熟年の夫婦のようだ。
(どうでもいいんだ! だけど、刑事の性かもしれないな)
言い訳しながら、女の子の手の薬指に、さりげなく視線を向ける。確認してから、男の左手に視線を移す。
(ほ~お)
心の中で、感嘆の声を上げる。
二人の左手の薬指には、同じプラチナのリングが嵌っていた。
(この二人は、ここで夕飯を済ませ、YAMAMARUで買い物をする。家に帰って、買った酒を飲んで、夜には……性行為をするだろうな)
別段僕は、性欲が溜まっているわけではない、と、思う。行為とは、しばらく御無沙汰ではある。でも、正直、性欲はあまりない。実は、相当にない。恐らく、病的に、ない。だから、嫌らしい想像に、一人盛り上がったわけではない。
だけどたぶん、僕の想像したことは、スケベ心より、もっと
頭の中で想像していた。
三色の髪色の彼女が、金髪の彼と身体を合わせながら、舌を絡めるキスをする。突然、彼の舌を噛み、呻く彼の舌を噛み千切る。動かなくなった彼から、ゆっくりと身体を離す。
身体を離した彼女の口には、彼の舌ベロが、血液を滴らせながら咥えられている。彼女の瞳は、
怒りとも哀しみとも受け取れる潤んだ瞳で、彼女は、心の中に思うのだ。これで、終われる。ようやく終わった。愛していた。だから、憎かった……
(やっば!)
僕は、カルビ丼の店の前に並ぶ多くの人の中で、己の世界だけにどっぷり浸り、恐ろしい殺人事件を頭の中に美しく妄想する己が、怖ろしくなる。
激しく首を振る。一度ぎゅっと力を入れて目を閉じる。目を開けて、前に並ぶ夫婦の姿を見る。
(良かった。生きてる)
二人は笑顔で、仲良く喋りながら、空いた席へと案内され、店内に吸い込まれた。
「お一人様ですか? カウンター席、空きました。どうぞ」
続けて僕も店内に案内される。
「カルビ丼定食!」
もう、余計なことは考えまいと、騒々しい店内に響き渡る大声で注文したつもりだったが、声は周囲の騒音に掻き消された。
「すみません。御注文、もう一度お願いします」
店員に、聞き返される始末だ。
カルビ丼とみそ汁とミニサラダを、なにも考えずに貪り食う。
ドラッグストアで、トイレットペーパーやティッシュ、シャンプーにボディーソープ、洗濯洗剤に柔軟剤、安いからと、缶ビールに缶酎ハイ、炭酸水を買った。
それからYAMAMARUに寄る。(これは、近所のスーパーマーケットだ。品数も多く、なかなか安いので、人気店である)冷凍ピザに冷凍グラタン、インスタントラーメン、冷凍できそうな肉、卵、冷蔵で日持ちしそうな総菜、サラミにソーセージ、牛乳、を、カートに乗せた籠に次々に入れる。最後に、時々無性に食べたくなるからと、アイスクリームを幾つか、籠に入れた。
いざ、カートを店の外に返すと、なんて考えなしだったのかと気付くに十分なほど、山の荷物になった。
エコバッグなんて携えて行かない僕は、ポリ袋を購入して、商品を詰めた。だが、ポリ袋に重たい物品を詰め込むと、ビニールの紐は指に食い込み、なかなかに痛い。
荷物の重さもさることながら、指に食い込むビニールに、指が千切れそうで、ときどき地面に荷物を置いては手を休め、大変な時間を掛け、汗だくになって、ようやくマンションに辿り着いた。
時刻は、八時を回っていた。
大量の買い物を片付け、すぐにビールを飲みたいところを、まずは、汗だくの身体をさっぱりさせるかと、バスルームに向かう。
汗を流し、バスタオルを巻き付けたまま、冷蔵庫から缶ビールを取り出した。
プシュッ!
開けた瞬間である。
チリンチリン チリンチリン チリンチリン チリンチリン
スマートフォンが鳴る。
(まさか、この時間からの呼び出しじゃあないだろうな)
スマートフォンを見れば、山口からの着信だ。
慌てて出る。
「もしもし」
「おお、俺だ」
山口だったので、開けたビールを喉に流し込む。
「なんだ? 事件の捜査は、進展があったかよ」
山口は無言だ。
「どうした? 事件の話じゃないのか? なんだよ」
山口が言い淀むのは、珍しい。背筋がすっと凍て付く。
ようやく、山口の、押し殺したような声を聞く。
「三人目が、出ちまったのよ」
つづく
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