第3話 九年ぶりの、凛子からの電話

 久しぶりの深酒に、爆睡だったようだ。


 チリンチリン チリンチリン


 脳に、かすかに音が入り込んで来る。なんの音だろう。


 チリンチリン チリンチリン


 どこかで風鈴でも鳴っているのだろうか。懐かしい音に感じる。


 チリンチリン チリンチリン


(ああ、解ってる。キミだよね。僕はね、眠たいんだよ。もう少し寝かせてくれないか。デートの約束でもしていたっけ?)


 チリンチリン チリンチリン


(愛してるよ。だから……)

 ようやく気付いた。電話だ。電話が鳴っている。心地良いと感じていた音の正体が

実は一番鳴って欲しくない電話の音だと気付き、起き上がる。

 頭が割れそうに痛い。二日酔いだ。

「もしもし」

「……」

「もしもし?」

「もしもし、私。久しぶり」

 寝惚けたまま、電話番号も確認せず、てっきり仕事の呼び出しだと思い込んで出たので、びっくりして、今一つ状況が解らない。

「あの? もしもし?」

「もしもし。谷口君だよね? 徹だよね?」

 ようやく声の主が、僕の、忘れるはずもない相手であるのに気付く。

凛子りんこか?」

「うん。久しぶり。仕事じゃなかった? 寝ていたのだから、仕事じゃないよね」

(相変わらず、すぐに推理する)

 そうは思うが、久しぶりに彼女の声を聞けて、心が躍る。

「おお! 久しぶり! 今日は休み。昨日、友人と飲み過ぎ。二日酔い」

「二日酔い? 休みで? ってことは、仕事、できてるんだね。そりゃあそうか。あれから九年? ずっと仕事してないわけ、ないか」

 そうだった。僕は、もともと勘の良い彼女を、グレードアップさせて、すぐに色々推理するように変えた、張本人だ。

「えっと……うん。ちゃーんと刑事を続けてますよ! どうも、あの頃は、色々ご迷惑をお掛け致しました」

「アハハ、嫌だあ、畏まって! でも、元気そうで良かった。安心した」

(そうか。九年も経つのか)

 山口に、ゲームセンターで初めて会ったあの日、妙なアドレナリンが少し鎮まって、家に帰った僕を、迎えてくれたのは、凛子だった。

 僕たちは、とてもうまくいっていた。すぐに結婚するつもりで、同棲生活を始めていた。同棲生活に、凛子はふざけて笑った。

「お試し期間ね。でも、返品は困るわ!」

 とても幸せな時期だった。

 でもあの日、悲しく強烈な、血に塗られた現場の光景は、僕を壊し、僕等の幸せを壊した。

 むごい殺人現場のせいにしたところで、弱かったのは僕だ。多分、僕の傍で一生懸命に、僕を立ち直らせようと、限界まで耐えたのは凛子だろう。

 あの日、ゲームセンターから凛子の待つ家まで辿り着いて、なにかが切れた。絶えた。僕はその時から、家から一歩も出られなくなった。


「ねえ、凛子が出て行ってから、もう九年か?」

「あら。そんな言いいいかた、おかしいわ。私が出て行ったんじゃないわ。徹が出て行かせたんじゃない!」

「そうか……」

(そうか、凛子は、僕が出て行かせたと思っていたのか)

 僕にしてみたら、凛子は健康で、とてもいい奴で……結婚しようと思うほど、大好きだったわけで。でも、壊れた僕の傍に、大好きな凛子にいられるのが、いさせるのが、徐々に苦痛になったんだよ。

 凛子のために、元気になろうと頑張るのに、いつしか凛子がいるから頑張らなきゃいけないに変わる。凛子のためにも、一日も早く職場復帰。だから今日は、明るい気分で、凛子と共に買い物に出る、と決めるのに、凛子はとても仕事で疲れていて、やっとやる気になった僕に付き合うのが、とても辛そうな顔をする。ならば、やっぱり家にいると言えば、また、がっかりした顔をする。

 凛子が笑った顔をとても見たいのに、僕のせいで、凛子は悲しい顔ばかりになった。

「もういいよ。僕から解放されればいい」

 真の心は伝わらなかっただろう。でも、幾度も口にした。幾度も、幾度も。僕は凛子に、悲しい顔ばかりになって欲しくなかったから。

 そのたびに、凛子はさすがに耐えられないといった表情になり、ちょっと出て来ると、後ろを向く時には、目に光る雫が、床に落ちた。

「あなたに追い出されてから、九年も過ぎちゃったわ!」

 凛子は、嫌味たっぷりに、それでも、九年の月日の流れを感じさせる、大人びた女性らしく、落ち着いた声を出した。

「じゃあ、僕の本当にひどい時期に、二年も三年も、側でこらえてくれてたんだ」

「ねえ、あなたって本当に言葉が下手ね。そうです。こらえていたんです。って……そんなんじゃ、そんな単純じゃあ、ないわよ!」

「ああ……ごめん」

 透き通る声は、容赦ない。

「あっ……うん。こっちも……久しぶりに電話したのよ。ドキドキしながら。喧嘩なんか、したくないのよ」

「うん」

「あっ、今、一人? 結婚してるとか、ない?」

「ないよ」

「はぁ~、良かった。あっ、そういうんじゃなくて! そういうんじゃないの! 電話して、側に彼女さんとか奥さんいたら、悪いかもとか……様子、解らないから、電話するのに、心臓が口から飛び出しそうだったのよ。最初に聞くの忘れて……だから」

(そういうんじゃって……僕に彼女や奥さんがいないのを、喜んだでしょうよ!)

 そこに喜ぶ自分がいる。

 九年ぶりでも、僕は凛子が好きだった。ずっと変わらず、大好きだ。

「今日はどうして? そんなにドキドキしながら久しぶりに電話くれたのは、なにか用事?」

「用事って言えば用事。私……ずっと、あなたを忘れるなんてできなかったわ。あなたが元気な状態で別れたわけじゃないから。私は、冷酷な、ひどい人間なんじゃないかって。傷ついた人を捨てたじゃないかって……私、いけなかったのじゃないかって……ずっと苦しくて」

「凛子は、よくやってくれたよ。なんかまた、言葉が下手って怒られそうだけど」

「……怒らないけど……」

「ずっと気にさせていたなら、悪かったね」

 ずっと気にしてくれていて、嬉しかった。

「嫌になって、出て行ったわけじゃない。でも、見捨てたみたいに思っているのじゃないかって、気になったわ」

「僕が、一緒にいられなくしたんだよ。側にいてくれるのが、かえって苦しくなっちゃって。もう、大丈夫だよ。で、用事ってなに? どうしてるの? そっちは、結婚とか、彼氏とか?」

「それが用事かな。彼氏、いるのよ。結婚したいと思ってる。でも、あなたとのことがずっと引っ掛かってて……きちんと別れていない気がした。だから電話したのよ。このままじゃ、今の彼氏と、前に進めない」

 僕は、脳天をハンマーでぶん殴られるような気分ってやつを、初めて味わった。

 凛子との会話の進み具合から、再び凛子と付き合えるんじゃないかと期待していた。「なら、今からデートしようよ」の台詞を、いつ口から出すか、今か今かと待ち構えていたのに、あっけなく打ち砕かれた。用意していた台詞を、やむなく変更する。

「そっかぁ! そりゃあ、そうだ! 凛子、いい女だもんね。いつまでも一人でいるはずないよな。いるんだ、彼氏。いるよ。だからそりゃあいる。いいよ、結婚! おめでとう! まだおめでとうは早いか。決めたらいいよ! 僕に断る必要なんかないよ。良かったなあ。良かった! 凛子が幸せになりゃあ、それが一番!」

 僕は、とても困った状態になっていた。

 九年ぶりの電話だというのに、凛子が他の男と結婚すると聞いた途端に、涙が溢れて来る。必死に堪えたらもう、滝のように目から流れ出し、どうしようもない。しゃくり上げている。ばれたくない。それでも絶対に、ばれている。

「……あの……」

「おめでとう……ヒック……幸せに……ヒック……電話、ありがとう……ヒック……僕、俺さ、忙しいんだ。忘れてた。今日、めっちゃ忙しい……ヒック……じゃ、また」

 噦り上げる音を挟みながら、ようやくそう告げ。僕は電話を切った。

「『じゃ、また』とか、言っちゃった」

 電話を切り、僕は思う存分泣いた。

 凛子を忘れてなんかいなかった。ずっと心の奥底にしまっていただけだ。なのに、自分からは連絡を取れずにいた。

 本当は、僕は二度、知っている凛子の携帯番号に発信した。

 一度目は、呼び出した。五回のコールを聞いた後、僕はなんだか怖くなって、切った。多分、凛子が出て行って間もなくの頃だ。まだまだ自分は、病んでいると思っていた。凛子に救いを求めていた。でも、電話にすぐに出ない凛子に、僕は苛立った。

(僕を見捨てたのか! こんなにも苦しんでいるのに。僕から解放されればいいなんて、そんなのポーズに決まってることくらい、彼女なんだから、気付けよ! 結婚するつもりだったんだぞ! なんにも解ってない!)

 己の内から湧き出る声の醜さに、嫌気が差した。ただただ、凛子に縋り付いていた自分がようやく見えた。呼び戻せば、きっと凛子を、自分の闇に引き摺り込むだけになると思った。

 綺麗で、元気で、快活で、明るくて。光の中できちんと頑張っている凛子の力を、僕はどんどん吸い取っていた。なのにちっとも、闇から明るいほうへと這い出せない。もう、僅かな元気しか残っていない凛子から、まだその光を吸い取ろうとする、寄生虫のような奴だった。

 立ち直るべきは、紛れもなく自分だ。自分の力だ。 

 誰かに支えてもらうことと、誰かのエネルギーを吸い取ることを、履き違えてはいけない。

 僕が凛子にしていることは、凛子の、明るく元気な、そう、健全なエネルギーを吸い取るだけだった。

 病んでいる時、誰だって、支えてくれる人に、大事な人に、側にいて欲しい。

 でも結局、大事な人と向き合える自分になるには、己の内にあるパワーを復活させるか、呼び起こすか、もしくは、新しく生成するしかない。

 心病んだ人にとっては、かなりハードな話だ。力のない自分の内に、新たなパワーを作り出すのだから。普通に元気な精神の人より、よほど大変だ。

 だからって、健全なエネルギーは、元気な人から吸い取る物でもない。

 凛子だって普通に、自分自身の悩みや苦しみ、悲しみを抱えながら生きていたわけだ。自分の力で、それらをなんとか消化していただけだろう。更に、酷く病んだ人間に、惜しみなく分け与えられるほどのパワーを、持ち合わせていたはずも7ない。

 凛子に縋るのは止めようと思った。やめなければいけないと気付いた。自身の中に力が漲って来たら、漲って来たという自信が持てた時、再び連絡するのだと、覚悟を決めた。

 そこからの回復は、早かったように思う。どれだけの時間を要したか、正直あまり覚えていない。でも、いつかまた凛子と、という想いは、不思議と、凛子が側にいなくても大丈夫になることだった。

 段々、彼女のいない生活の中で、安定した日々を送れるようになった。

 仕事にも復帰した。あまりに僕を腫れ物扱いする周囲に、僕は、気を遣ったつもりで、笑って告げた。

「もう大丈夫ですから。普通に接してくださいよ!」

 ところが上司に、叱責された。

「谷口は、自分のことだから、『大丈夫』と言えるのだろう。けれど、周りはな、それぞれが各々の目で、谷口を大丈夫か判断するんだよ。谷口が判断するんじゃない! 誰も、谷口が大丈夫だと笑った、なんて事実では、判断しないんだよ。時間を掛けて、谷口の毎日が、みんなの目に大丈夫と映るまで、谷口のそんな言葉は、糞の役にも立たん!」

 再び僕は、己の間違いに気付かされた。

 周りが僕を、大丈夫だと見てくれるようになったかなんて、解りはしなかった。でも、周囲になんとなく、大丈夫なんだって思ってもらうには、とてつもない時間が掛かるって気付いた時、そろそろ、凛子に電話してもいいのじゃないかと判断した。

 僕は、もし、会えるのなら、もう一度会いたいと伝えたかった。まずは、一度、会ってくれないかと、告げたかった。恐らく、五、六年前だろう。


 オカケニナッタデンワバンゴウハ ゲンザイ ツカワレテオリマセン

 バンゴウヲ オタシカメノウエ オカケナオシクダサイ


 無機質な音が耳を刺す。何の感情も持ち合わせていない音は、感情もないくせに、僕の感情を搔き乱した。

(これを聞かされる人って、みんな案外、感情を搔き乱されそうだ)

 僕はどこか、時間が掛かり過ぎたことに、諦めていた。だから、淋しくて笑える自分を、かっこいいと浸った。

 以後、彼女を追うのは止めた。

 心の奥に仕舞って、鍵を掛けた。

 凛子から電話をもらう日が来るとは、思ってもみなかった。いや、どこかでずっと、待っていただろうか。

 昔をあれこれ思い出し、センチメンタルな気分にどっぷり浸り、ひとしきり泣くと、ずいぶんとすっきりした。

 すっきりした僕は、なにか妙な感覚に襲われていた。うまく説明できない。でも、ここ数日、非日常の事柄が続く。

(偶然ではなく、必然なのではないだろうか)

 不思議な感覚が、どうにも拭えない。僕は、妄想を繰り広げた。

                             

                                つづく


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