第2話 舌のない遺体
当たり前だけれど、僕には普通の日常があって、その日常には、刑事という仕事が組み込まれていて、僕には僕ですべき仕事があったので、気になりはしたが、山口を見掛けた事件については、自分には関係ないと遠ざけた。
山口から電話があったのは、一週間が過ぎた頃だった。
刑事はいつも、決まった休み、というわけにはいかない。だがその日は、ちょうど次の日がどちらも休みで、仕事帰りに待ち合わせ、久しぶりに飲みに行こうという話になった。
僕は、心がざわつくのを感じていた。ざわつきは、追ってはいけない物を追うとか、楽しみにしてはいけない物を楽しみにするとか、そういう背徳感だと思う。
自身の仕事には、まるで身が入らず、解放される時を今か今かと待ち望む。
ようやく一日を終え、待ち合わせた、新宿の居酒屋の暖簾を
「おいおい、谷口君。そんなに急いでどこへ行く? めちゃめちゃ早足で歩いてたねえ。そんなに俺に会いたかったの? もしかして、惚れてるの? 俺に」
「やめろよ。そう言う趣味はない。なあ、もしかして、ずっとすぐ後ろを歩いてた? おまえこそ、俺の影みたいにぴったりくっついて……」
「そりゃあ、俺と谷口君の関係ですから」
「なあ、だったら声を掛けろよ。人が悪い」
「声、掛けようと思ったよ。でも、なんて言うのか……そういうわけにはいかない絶妙な加減で前後だったんだよ。どうせじきに店だって思ったし」
話をしながら、僕たちは特に相談もせずに、一つのテーブル席を目指す。まるで鏡に映る一人の人間のように、まったく同じタイミングで同じように椅子を引き、腰掛ける。僕たちには、実に不思議なほど、こうした些細なことがよくある。でも、十年も経てば当たり前のようで、いちいち驚かない。
「生中!」
「生中!」
生中を二つに、枝豆、モツ煮込み、刺身の盛り合わせに天婦羅の盛り合わせを頼む。
山口は、ビールも待たずに切り出した。
「こないだは驚いたなあ。あんな所で……ああ、驚いたのはおまえか。仕事でもないのに、家の近くで、派手なサイレンにブルーシート」
「仕事でもないのに? ええ? 僕って、山口に……」
「同業者だろう? 聞いてないけど。一応確認はしておかないとね。思い込みで決め付けて、後で違った、はまずいからな。当たりだろ?」
「よく解ったな。この前言いそびれて、なんか永遠に告白できないかと思ったよ」
「永遠って……大袈裟な奴だな。気になってただろ? あの、ブルーシートの事件」
「気にはなった。いや、そうでもないよ。山口に会ったから、それが気になった?」
「隠すなよ。おまえ、あの事件に、嫌な匂いを感じたろ? だから、興味津々はまずいって顔してんだよ」
「いちいち嫌な奴だな。そこまでお見通しじゃあ正直に告白するけど、自分の仕事より、そっちに頭を持ってかれて、困ったもんよ。次の日の新聞、隈なく見たのよ。でも、なんも載っちゃいない。こりゃあ良くない事件だなって、そう思えば思うほどダメ。気になる。職業病だね」
「おまえのは、職業病じゃあないよ。おまえ自身が、やばそうなのが好きなんだよ」
「なにを言い出すんだよ?」
山口は、唇の左側だけを上げる。
「ふんっ! 安心しろ! 俺も同じ人種だよ。でも、そういうのって、認めちゃいけない気がするわな。嫌だ! 吐き気がする! なのに追う。追いたくなる。俺もおまえも、きっとそういう
「え? 人って……本人がじゃないのか?」
「なあ、死因がそれだぜ」
「自殺の線は? 自分で噛み切ったんだろ」
「違う。自殺じゃない」
「ってことは……舌を噛み千切られて殺されたのか?」
「まあ、そういうことになる」
「はあ? でも、なかなか舌を噛み切る距離には、近付けないだろうよ。薬を使ったのか」
「それが、その形跡もない」
「ないって……よほど近しい関係でなけりゃあできねえぞ。つまり男女か、恋人関係? 遺体は……女か?」
ビールをごくごくと喉に落とした山口は、僕の顔をまじまじと見つめる。
「推理はほとんど合ってる。でも、遺体は男よ」
「……今時は、相手も男とも考えられるが……女の線が濃いってわけか。女の犯行かよ!」
「たぶんな。まだ解らない。だけど俺は、そういう犯行は、女って気がする」
「なんだよ。犯人の目星は、まるで付かない?」
「つかないどころか……」
山口の顔が歪む。
「なんだよ」
「すでに二人死んでんだ」
「え?」
「犠牲者はすでに二人。おまえに会ったあの日のあれは、二人目の犠牲者なんだよ」
「同一犯なのか?」
「舌を噛み千切って殺す犯人は、できれば一人であって欲しいわな」
「まさか!」
「白々しい〝まさか〟だなあ。その、〝まさか〟ですわ。どちらも舌ベロをさあ、奥のほうからがっつり噛み千切られて、殺されてる」
ちょうど店員が、美味しそうに湯気の上がったモツ煮込みを運んで来た。
「舌をちょん切られた話をしながらも、俺たちはビールを飲み、モツ煮込むが食えるんだよ。牛タンとか、もっと、グッドチョイスだったなあ」
山口の下劣さが、僕はたぶん、あんがい好きだ。
「なあ、舌を噛み切ったって解ってるんだよね? なら、犯人の唾液や指紋や……犯人を特定するのに十分な証拠、残っているだろうに」
「あのなあ、おまえも同業者なら解るだろう? 前科がありゃあ、ヒットするだろうよ。もしくは、怪しいのが浮上すれば、唾液でも調べれば一発だわな。ぴったり一致するだろう」
「つまりまだ、誰も浮上しない? すげえな、犯人」
「犯人を褒めるな! 警察だって馬鹿じゃない。必死なんだけどねえ。嫌疑が掛かったのは何人かいるよ。まだ、完全に白ってわけじゃない。でも、一番ぴったり合ってくれなければいけない物が……」
「一致しないってわけだ」
「そっ! 死因ははっきりしちゃってんだよ。奇怪だ。どうやったら、睡眠薬やアルコールを過剰摂取してない男を、舌を噛み切って殺せる? 思うだろ? 千切られる前に、なんとかできなかったのかって。遺体は、特別屈強な肉体の持ち主でもないが、だからって、じっと舌を噛み切られるのを待つような、そんな感じでもない。普通の男だ。疑うだろ? なんか違う殺し
話に夢中になった。
捜査に加わっているわけではない。だから、調べが不十分なのではないか、思い込みなのではないか、そう、粗を探すが、相手は山口である。彼をよく知っているなんて、決して断言できないのに、
「複数犯の可能性は、まだ残ってる?」
僕は、
「一応な。だけどさ……最終的に誰かが舌を噛み切っているのは、間違いないんだよ。一番そこ、間違いであって欲しいのにな」
「なるほど」
だいたいの事件の概要は解った。
素朴な質問をぶつける。
「なあ、舌って、簡単に噛み千切れるのか?」
山口は海老天を見詰めている。
「海老天、食べていいよ」
「どうも」
山口は、海老天をつゆに浸すと、豪快に頬張る。
質問の答えを待つ。
シャリ シャリ シャリ
上手にカラっと揚げられた天婦羅は、噛めば良い音がする。
「簡単なわけがない。科学的にも物理的にも。出血量だって、半端ないはずなんだ。犯人が、まるで血に汚れないなんて、考えられない。だが、目撃情報もない。心情的ななにかが、舌を噛み千切らせたんだろうけど、どうしたらそうなる? ただ、一度しっかり噛まれたら、相手が動けないのは確かだな」
返す言葉がなかった。きっと、その通りだ。
僕は、天婦羅盛り合わせの皿の上に残る、
「烏賊天、食べていいぞ」
「うん。どうも」
僕は、烏賊天に塩を掛けて頬張る。烏賊は思ったより柔らかいが、それでも弾力があり、噛み切るには一苦労だ。
「舌は、烏賊天より、噛み切れないと思う」
絶妙なタイミングで、山口の台詞だ。
「よせよ!」
僕は、制しながらも笑う。
生中を三杯ずつ空け、焼酎のボトルを頼む。
店を出たのは、なんとか終電に間に合う時間だった。
「明日は~、休みだ~! まあ、僕は、けっこういつも、きちんと休んでるんだけど」
「俺だって、休みよ。でも、謎だらけの事件の担当じゃあ、休みったって……だわよね~。それに、
「大変そうだわねえ。役に立てそうな時には、どうぞ、ご遠慮なく! まあ、役にたつかは、はなはだ疑問だけれど……喋るだけでもいいだろ?」
「あいよ」
僕たちは新宿駅まで歩き、違うホームへと別れた。
山口の家が何処なのか、聞こうと思ったが、十年以上付き合っていて、今か? と妙に考え込み、聞けないままだった。
僕はけっこう酔っていて、ぐるぐる山口の話を頭の中でリピートしながら、どうやら家に辿り着いたようだ。
つづく
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