記憶の感触
四十万胡蝶
第1話 休日のサイレンとブルーシート
小雨の降る日だった。
久しぶりの休日に、一人暮らしのマンションで、大きく窓を開ける。少しの雨は、降り込みはしない。初夏の、湿り気を帯びてはいるが、心地風を良い風を、部屋の中に取り入れ、コーヒーメーカーに粉をセットする。ごろりと横になれば、瞼が落ちて来る。
小雨のせいか、人の声もしない。どこか神経質な僕だが、今日は走る車の音も気にならない。静かだ。そう思った矢先だった。
キュイーン ピーポーピーポーピーポー
ウーーーー
パトカーと救急車のサイレンの音が、心地よく微睡みかけた耳の奥へと、徐々に染み入り、僕の静寂を犯し、憂鬱な苛立ちに変える。無視できない。
「あああー! なんだよ、まったく! のんびり過ごす休日には、聞きたくない音だな」
サイレンの音はしだいに大きくなり、どうやらとても近所で止まった。
(今日は休み。呼び出されたわけじゃない。家でのんびりするんだ!)
いつのまにやら、自らに必死に言い聞かせている。
だが、身体がムズムズして来て、気付けばサンダルを突っ掛け、外に飛び出していた。
僕は、刑事だ。だから、ただの野次馬ではないと自負している。でも、近くに止まったサイレンに、何事かと近所から飛び出して来た数人と、競うように赤いライトが回転している場所を目指す。
僕の傍らを、スマートホンを片手に、若い男が走る。
「
「さあ。なんにもないのに
男は、スマートホンをこちらに翳す。
(救急車にパトカーは面白いのかよ!)
心の中で毒吐くが、結局、自分のしていることも同じだと、なんだか顔が火照る。
赤いパトライトを光らせる車両は、僕の住むマンションの目と鼻の先にある雑居ビルと、それに隣接する小さな公園の辺りに、本来は駐車禁止の場所に、お構いなしに停められていた。数台は並ぶ。物々しい。
制服を着た連中と、目つきの鋭さから判断するに私服の刑事。通報者なのか、関係者らしき人々。そこに集まって来た無関係の野次馬。付近は、小雨の中、大勢の人間でごった返しつつある。
一緒に走っていた若者が、なるべく人目に付かないようにと、慌てて広げられたブルーシートを見付け、スマートホンを持つ腕を可能な限り突っ張らせている。
「ブルーシートが広げられています! 先程まで平穏だった、新宿区下落合は、俄かに騒がしくなりました。ブルーシートに覆われているモノがなにか、実に気になります。嫌な事件でないことを願いまーす」
興奮しながら叫ぶ姿は、どう見ても、非日常を喜んで、興奮しているようである。
「なにがあったんでしょうね?」
僕の横には、地域の清掃活動の途中だったらしき出で立ちのおばさんが、顔を曇らせ、佇む。口が窄まり、眼鏡の奥の目は、恐ろしい物でも見るようだ。
「人が死んでたらしいわよ。怖いわねえ」
「死んでいた? 変死体?」
「知らないわよ。でも普通、道端で人は死んでいないでしょう?」
「そりゃあ……まあ」
只事ではなさそうなサイレンの音に集まった群衆だ。詳しい事情など、正確に知るはずはない。
明日になれば、ニュースになるかもしれない。せっかくの休み、立ち入り禁止と書かれた黄色のテープに妨げられ、遠くに見えるブルーシートにもやもやしながら、小雨に濡れそぼつもつまらない。
帰ろうと、向きを変え掛けた時だった。
「あれ? 谷口か?」
耳に馴染んだ声で呼び掛けられる。声のするほうに姿を見付けた。
「へ? なんで? 」
間の抜けた声が飛び出す。
「お前こそ、なに?」
「僕の家、この近くだから。けたたましいサイレンが、あんまり近くで止まったからさ」
「……平日にお前……仕事してない奴だったのか?」
「たまの休みだよ! ってか、山口って、警察の人だったの? 全然知らなかった」
「男の友情に、なんの仕事かだなんて、関係ねえだろ。俺のポリシー」
「なーにがポリシーだよ」
山口は僕の親友だ。
しかし、実のところ、僕は山口について、多くは知らない。
だから今の今まで、自分と同じ職とは、思いもしなかった。
僕自身は、自分が警察官(刑事)であるのを、秘密にしたいとは、たぶん思っていなかった。
僕と山口との関係は、家族構成や住まい、仕事はなにか、というような、クレジットカードを作るのに必要そうな事項とはまるで関係なく成り立っていた。お互い、根掘り葉掘り聞きもしなかったので、互いの職を知らないままに付き合って来た。
山口がたぶん、刑事と呼ばれる職であるのを、偶然知った僕はここで、
「いやあ、すっごい偶然! お前、刑事だったの?僕も、僕も! 刑事、刑事!」
とでも告白すべきだったろう。
でも、状況が状況なだけに、そんなノリも如何なものか躊躇う内に、絶好の告白の機会は、僕の元を旅立った。
「なにか、事件?」
しかたなく、
「まだなんとも……しっかし、猟奇……あっ、いけねえ。俺、どうもお前には、口が軽いよな。まあ、また連絡すっから」
「ああ」
山口は、ついうっかり出た一言をごまかすかのように、急に踵を返すと、奥へと走って行った。
だが、山口の零した〝猟奇〟という一言は、僕の耳の中で幾度も繰り返し、しばらくその場に立ち尽くした。
濡れてもさして苦にならなかった小雨は、しだいに強くなる。僕の耳まで届くはずもないのに、雨音は、やかましくブルーシートを叩きつけるかに、僕の心を打ち続けた。
山口との出会いは、十年以上前まで遡る。
その日は、最悪の気分だった。
テレビドラマや漫画なら、毎回毎回人が殺され、死体も見慣れる勢いだ。だが実際には、刑事だからって、毎日毎日殺された死体とご対面、なんて、メンタルが持たない。平和な(見えないところでは、平和でもないな)日本では、殺人事件の遺体は滅多に見なくて済む。
日本の日常は、実はちっとも平和ではない。悪事が潜む。
年寄りから金を騙し取ったり、幼い子供相手に、性的行為に及んだり、教師が生徒のスカートの中を盗撮したり……嘆かわしい。
あまりに低俗でうんざりするような事件ばかりで、低俗な事件の犯人を追う内に、自分までどんどん卑しく下品な人間になって行く気がしていた。だからって、殺人事件を担当したいとは思わなかった。
その時も、低俗な犯人に因る犯行なのだろうと思っていた。
ある女子高生が、どこかでスカートの中を盗撮されたのが始まりだった。
どこで盗撮されたのか解らない画像は、いつのまにやらネット上で拡散され、ストーカー被害を受けていると、本人が警察に訴えて来た。
その後、家のポストに、蛙や鼠の死骸を入れられたりと、変質味を増し、少女は怯えて家に籠るようになった。
それでも、嫌がらせの数々は止まらなかった。
ターゲットにされた少女は、どう見ても普通の女子高生で、そこまで悪質な嫌がらせを受ける悪女の姿は、どこにも見い出せなかった。だからこそ犯人にも、なかなか行き着かなかった。
捜査が暗礁に乗り上げたのも、無理はない。
犯人は、彼女の母親の再婚相手、つまりは義理とは言え、彼女の父親と、さらに、自分の再婚相手が、娘に異常な興味と好意と性欲を持ったのに嫉妬心を抱いた、実の母親だった。
二人が、別々の形で、まだ十六歳の純粋な少女を、いたぶり弄んだ。
義理の父親も母親も、警察署を訪れる際には、家から出られなくなった少女を、両側から心配そうに包み込み、捜査員の質問に、娘が可哀相と、涙を流しながら答えた。
ここまでで、十分、吐き気がする程度に最悪だった。
だが、事件の最悪の結末は、そこではない。
実の母親と義理の父親の犯行だという真実に、我々より先に気付いた純粋な少女の絶望が招いた終焉は、あまりにも想像を絶する代物だった。
現場を見た僕は、それから自宅を、一歩も出られなくなった。
少女は両親を、包丁でめった刺しにして殺害した。二人を殺してから、自分自身をも、包丁であちらこちら切り刻んだ。どういうわけか顔だけは、カッターナイフでたくさんの傷を付けた。
幸い全ての傷が浅かったため、僕たち警察官が駆け付けた時、少女は放心の様子で座り込んでいた。血塗れで死んでいた父親と母親の近くで、カッターナイフと包丁を握り締めたまま、血溜まりの中にペタリと尻を着いて、両足を力なく投げ出した状態で。
そんな光景は、
ショックだった。
だが、
その情景を見た日、僕は物凄い興奮状態にあった。
仕事から解放された後、ほっとはしたのだが、妙にギラギラして、まっすぐに家に帰る気にはどうしてもなれなかった。
家に帰れば、悪夢のような情景を、強烈に何度も思い出しそうで怖かった。
だからと言って、飲みに行く気分になどなれない。カラオケってのもダメそうだ。バッティングセンターでバットを振り回すも違う。
とにかく、一人静かにはなりたくなくて、うろうろし、見付けたゲームセンターにふらりと入った。
午後九時を回っていたと思う。平日だったと思う。店の中はまあまあ人がいて、色々なゲーム機の音が賑やかだった。
ワニを叩き、太鼓を叩き、戦闘ゲームでもするかと腰を下ろした。
向かいの同じゲームに、ちょうど同じタイミングで、同じ年頃に見える男性が腰を下ろした。腰の下ろし
「こうなるとどうしたらいいのでしょう」
彼が口を開く。
「良かった。口を開くのまで、同じにならなくて」
「まったく」
「ここ、よく来るのですか?」
「いや、初めて」
「ハハハッ、そう来ましたか。お察しでしょう? 僕も初めてです」
「もしかして、貴方は僕ですか? ハハハッ、『そうです』と言われたら、怖いな」
「いやあ、今日、強烈に嫌な経験して。家に帰れなくって」
「多分そんな感じだと思いましたよ。だいたい僕もそんな感じです」
それが、山口との出会いだ。そして、素性など詮索しないまま、彼は僕の親友となった。
僕の名前は、
山口の吐いた、〝猟奇〟という言葉と、遠くに見えたブルーシート。そこに打ち付ける雨音。それは、詳細も解らぬまま、僕にまた、新たな染みを作った。
強烈なものではない。でも、染みは、限りなく広がる気配を見せる。
きっと嫌な事件の気がするのに、どうしようもなく振り払えない。
職業柄なのか、僕の心の中に、恐ろしい物に惹かれる己が潜んでいるのか……
次の日僕は、普段は爆睡している時間の、新聞配達のバイクの音に目覚める。
きっと、一階の集合ポストに配達されたであろう頃を見計らい、Tシャツに短パンのままサンダルを引っ掛け、一階まで下りた。冬ならまだ真っ暗だろうが、夏の朝五時はすでに明るい。
部屋番号の刻まれた、並んだ銀の集合ポストの、407号のダイヤルロックを
直ぐに開いて昨日の事件を探したい。マンションのエントランス、辺りには誰もいない。なのに、妙に勿体ぶる自分がいる。
(僕はいったい、なにを意識して、誰に、何処に、格好つけてるんだろう)
周囲に人はいない。何も警戒する必要もない。そんなシチュエーションでも、僕には、あたふたしている己を隠し、余裕があるかに見せる節がある。かえって変なのは自分が一番よく理解している。慌てればいい。でも、自分を変えられない。余裕綽々という
ガチャ バタン
鍵を開け、家に入る。コーヒーメーカーに粉をセットする。水を入れ、電源を入れる。
「さあてと、新聞でも読むか。今日は、早起きしたな」
繰り返しになるが、僕は一人暮らしだ。このわざとらしさは、なんなのだろうと自分に呆れる。
ダイニングテーブルとセットで買った、白木の椅子に腰を下ろす。
ゆっくりと新聞に目を通して行く。見出しだけに目を走らせる。
グググッ ゴゴッ ゴゴゴゴッ コー
コーヒーが入ったと、コーヒーメーカーが僕に告げる。
少し焦りを感じながら立ち上がり、緑色の無地の大きなマグカップに、コーヒーを並々と注ぐ。慌てて椅子に戻ろうとして、注ぎ過ぎたコーヒーが少し零れ手に飛ぶ。
「あちっ! あっちーな、おい!」
徐々に、余裕綽々の自作自演が壊れてゆく。
コーヒーをテーブルに置き、雑にお尻を椅子に乗せようとして、白木のテーブルの脚に自分の足を
「いってーな! 座り
再び、新聞の見出しに目を走らせる。捲り続けた新聞に、後がない。
「ふー」
今度は、ラテ欄(テレビ欄)から、逆に捲る。
「ない?」
更に、そういう事件の載りそうな面を、隅から隅まで念入りに見る。やはり、それらしき事件の記事はない。
「小さな事件なのか?」
だが、所謂、刑事の勘なのかもしれないが、(もはや、勘違いの域かもしれない)あの物々しい感じが、小さな事件だったために新聞に載らないとは、とても思えない。
確かに、僕の勘違いかもしれない。でも、この時点で僕が感じたのは、恐らく厄介な事件だという感覚だった。厄介な事件ってのは、新聞の記事になる頃には、様々な大衆週刊誌の表紙にも、大衆に目を惹く見出しが、派手な文字で印刷される。興味深い記事を期待した人々の、購買意欲を駆り立てる。次々に週刊誌は、面白おかしく事件についての記事をまとめあげ、発売し、大衆の興味が失すまでしばらくは、止まらない。
ブルーシートは、あの物々しさは、そういう事件だと、僕は踏んでいた。
だが、新聞に載っていない以上、考えたところで、なにか知り得る手段はない。僕は、スマートホンでは検索しない。新聞にも載らない場合、軽薄な連中の想像の域を出ない話ばかりである。振り回されるのはごめんだ。
濃いコーヒーを啜り、誰にでもなく呟く。
「そっかあ。今日は仕事でしたわ。忘れるところだったわあ。僕は、刑事だったよ」
つづく
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