消えない花

@dakkiy

その手はなんのためにあるのだろうか?

「アレックス。そろそろご飯よ」

窓から差し込んできた朝の光とお母さんの声で目が覚めた。ちらちらとカーテンをすり抜けた光が顔をなでてくる。

…どうやらいつのまにか眠ってしまっていたらしい。

大きくノビをしてキッチンに下りていくとほのかなトーストの香りが漂ってくる。

「おはようアレックス」

そしてお母さんは、指でちょいちょいと何やら、来て、といったような合図を出してきたので僕は首をかしげた

どうしたの?

「…今日もこれをヘレンのところに届けてほしいのだけれどいいかしら?」

渡されたのはお母さんの手ほどの手紙だった。戦地にいるお父さんに宛てたものだろう。

…きっとこの手紙はお父さんとお母さんをつなげている架け橋になっている。

それを支えているのが自分だと思うと責任感が雨雲のように肩にのしかかってくる。

いや、僕だって家族の一員なんだ。僕が弱気になってどうする。

体は小さいが僕だって男の子だ。お父さんが戻って来るまでは僕がお母さんを支えてあげなければならない。

僕は足早に手紙を受け取り、むくむくと膨らむ雲を振り払うような風と共に外へ駆けた。


この街は僕にとっての思い出がぎゅっとつまっている。

そこの角の歴史が刻まれたレンガ造りのパン屋から五線譜のように流れてくる香ばしい匂いはよく散歩中の僕を絡め取ったし、町外れの野原ではよくお母さんと一緒に街を見下ろしたり、咲いている花を見た。

 このパンはね、結婚する前お父さんと一緒にロンドン橋の上で並んで食べたのよねぇ。

 この道もよく歩いたわ。あの人ったらデートだっていうのに緊張して靴を左右互い違いにしてたのよ。

 これは胡蝶蘭の花よ。花言葉は確か…

お母さんがお父さんの話をするときは目を細く、笑ってるのにどこかさみしそうで、どこかその先の遠くを見つめているようで。

そんなときは僕はお母さんの隣に寄り添ってあげることしかできなかった。

いつか大きくなったら両の手でお母さんをつつんであげることができるのかな。


「おまえ、こんなとこで一人でなにやってんだ?」

思い出の中にいきなり誰かが入り混んできたので、僕は現実に引き戻された。石造りの橋の真ん中に立って、眼下には視界いっぱいにクレヨンで塗られたようなテムズの川が広がっている。水平線からは入道雲が顔を出していて、両岸からは朝の街の声が聞こえてくる。声の主に顔を向けると、男の子がこちらを見下ろしている。工場の煙突から出てくる煙のような色のジャケットとズボンを履いていて、肩には枯れ葉のような茶色いバッグをさげている。

「そんなとこでボーっとしちゃってどうしたんだ。待ってても川からチキンは浮かんでこねぇぞ。名前は…アレックスってのか」

かがんで帽子が落ちないように抑えながら僕の顔をぐいと覗き込むようにして言った。その目にはナイフのような独特な威圧感がある。

「…手紙を持ってるじゃねぇか。おまえも親父さんに手紙を届けに行くところか?」

そうなんだよ。もしかして君も同じなのかい?

「それとも迷子になっちまったか?」

スルーしたよ。

「俺はルーク。俺は手紙屋の長男でいろんな家をまわって手紙を集めてんだよ。なんならそれも持っていってやろうか?」

と僕が持っている手紙をちょいちょいと指さした。

いやいや、僕はお母さんの想いを背負っているのだ。僕がしっかり届けなければ。

僕の意志が伝わったのか彼は表情を変えずに

「ん、じゃあ行くか」

早々に背を向けて彼は彼がやってきた方に戻っていき、ついてこい、と顎でしゃくった。


この道は僕のいつもの散歩道でもあるのだが、いかにもガラの悪そうな青年と歩いていると季節の移ろいとともに姿をかえる木々のように違って見えて、なんだかそわそわしてしまう。

なんだかいつもよりかなり時間がかかったように感じたが、ついに手紙屋さんに到着できた。この木目が現れている穏やかな外壁とほのかな木の香りはいつも僕を安心させてくれる。

「ママ、帰ったよ」

建付けが悪くなったドアを肩で強引に押し開け、その度に木がこすれてギイギイと音を立てる。

「あら、おかえりルーク。ってあらまあ、いつものお客さんと一緒だったのね」

と僕の方に視線を落とした。

「いつもお手紙ホントにご苦労さまねぇ。お母さんは元気かしら?」

しゃがんで僕の頭をなで始める。

「きっとお母さんも代わりにアレックスが手紙を届けてくれて嬉しいと思ってるわぁ。その手紙、きっとお父さんに届くからね」

ありがとうヘレンおばさん。ところでソフィアは今日はいないの?

「おーいソフィア!お客さんよ」

ヘレンさんが言い切らないうちに二階で音感ゼロの太鼓のような音が移動していく。

その音を天井ごしに目で追って、階段まで視線を移動させたところでようやく音の主が現れた。

「わあ!アレックスじゃない!」

階段を一段飛ばしで駆け下りて、その勢いのまま僕に抱きついてくる。

ちょっ…痛いっ。苦しいってば。

「今日も来てくれたのねっ」

と…とりあえず一旦離れてくれないかな?

「今日は何して遊ぶ?おままごと?おいかけっこ?それともクローバー探しっ?」

なぜ揃いも揃ってこの兄妹はスルー癖があるのだろう?僕はため息をついた。

「あははっ、うれしがってる」

違います、嫌がってるんです。

「…おい、馴れ合いはもう済んだかよ」

会話が一段落ついたところで重たいドアに肩を押し当てたままのルークが口を挟んだ。

あぁ、ゴメンゴメン。

僕らが家の中と外の境界で話してたので彼がドアを開け続けてくれたようだ。しかも僕らが話し終えるのをずっと待ってくれていたらしい。

人の話はスルーするし、言葉も仕草もぶっきらぼうだが悪い人ではないのかもしれない。…むしろちょっといい人なのかもしれない。そうして手紙を預けてそのまま手紙屋をあとにしようとした。


凄まじい轟音と熱風とともに空が墜ちた。突然で何が起きたかわからない。ただレンガや石が燃える音と人々の叫びが聞こえてくる。

「空襲だぁっ!」

「逃げろっ、逃げろぉっ」

「ソフィア!ママ!こっちだ!物陰に隠れろ!」

「お兄ちゃぁん!」

そんな悲鳴が頭に響いて体が動かなくなってしまったがすぐに我に返った。

お母さん!

すぐに体は動いた。全速力で家へと走る。ルークが僕を呼ぶ声が聞こえたような気がしたが辺りは爆風による粉塵が舞っていてもう見えなかった。崩れた建物が道を塞いでいるようだが小さい体をよじって瓦礫を突き抜ける。崩れた小さなかけらは割れたガラスのように散らばって僕の肉球を切り裂いたし、吹き荒れる砂混じりの熱風は僕の名前が書かれた首輪を吹き飛ばした。僕は腕を振って駆ける。駆ける駆ける駆ける駆ける駆ける。

「お母さん!」


粉塵を通り抜けて視界がひらけると既に通りのパン屋や家はもう原型をとどめていない。

そこでようやく違和感に気付いた。目線の位置が高い。二本の足で立っている。それには指がくっついており、いつの間にか服というものを身につけている。

僕はまた走りだした。すぐそこに家がある。お母さんがいる。

「おかあ…さん?」

…手遅れだった。奥からはお母さんの匂いがするがその匂いは血にまみれているし、どんなに耳をすませても声も息遣いも心臓の鼓動も聞こえない。必死になって両手を使って瓦礫をどける。

「あ゙あぁ…」

既に目から光を失っており、指一本も動かない。

待っていればまた何事もなかったかのように目を覚ますんじゃないか?また笑って名前を呼んでくれるんしゃないか?

僕は壁にもたれて焼けた地面にへたりこんだ。自然と頬に涙がつたう。

街をこんなにも壊したのは誰だ。みんなをこんなに傷つけたのは誰だ。そして

お母さんをこんな風にしたのは誰なんだ。

「…この両の手は何のためにあるんだよ」

力なく両手を下ろしたとき、手に何かが触れた。

「?」

みればお母さんが朝渡した戦地のお父さんへの手紙だった。お母さんが最後になんと綴っていたか知りたくて、ズボンのポケットの中で黒ずんだ手紙を固まりきった指で開けてみた。

『サイラス・ジョン・エヴァンス 様

お元気にしているでしょうか。こちらでは私もアレックスも元気にしております。国や人々を守るために戦っているあなたを誇りに思っています。私はこの頃、人という言葉に疑問を持っています。人は協力し合い、互いを理解できるからこそ人という生き物なんだと思っていました。しかし今では人は人同士で奪い合い、殺し合いをします。それではサバンナに住む自らが生きるために他を奪う猛獣と何も変わりはありません。サイラス。あなたは今まさに人という生き物の本質に直面しているでしょう。しかし、きっと人というものは他者を思いやる心があってこそ、人というものです。他のために自ら行動し、与え、愛しむ。これは私ではなく、犬であるアレックスから学んだことです。その気持ちはどんな武器でも壊せない、褪せないものになるはずです。長くなってしまいそうのでこのあたりで締めくくりたいと思います。胡蝶蘭の花言葉は…

「愛情」  

アイリス・メイ・エヴァンス より』

封筒の中には鮮やかなピンクの胡蝶蘭の花が入っていた。手紙の方は黒ずんでしまったが花だけはきれいに彩られていた。

手紙と動く心臓に手をあてて、それからお母さんから教わったことと一緒に手紙と花をポケットにしまう。

行こう。あの町外れの野原に。そしてお父さんとお母さんが好きだったあの花を見よう。

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