白ノ宮
白ノ宮 1
沙耶が目を開けたとき、潤んだ夕陽が見えた。体の下に石畳を感じながら、しばらく横たわっていたのだが、ついに沙耶は正気づいて声を上げた。
「そうだ、ここは……」
頭が重く、体じゅうが引きつるように痛かった。それでもなんとか上体を起こし、周囲を見た。
そこには日暮ノ峡の情景が広がっていた。蓮二も狐焔もいない。夕陽に染まる一帯には、色濃い瘴気が漂っていた。
(夢……。だったのだろうか。なにが起きたのだろう。――いや、なにかが、変わったのだろうか?)
大崖の方を見ると、昼間は絶えず噴き上がっていた瘴気は消えていた。
(消えている……。あれほどの瘴気の奔流が……)
そのとき、小鳥の
顔を上げて森を見ると、白い影が舞い込んできた。その
「よォ、目醒めたか」
沙耶はその声に目を向けた。――蓮二が木の枝を両手に抱えて、木陰から出てきたところだ。
「蓮二さん……」
蓮二は大木の横に、腕に抱えた枝を落とすと、
「焚き火が要るなァ。くそッ。よりによって、日暮ノ峡で野営たァ、益体もねェ」
「あの、あれから、いったい……。それに、狐焔さんは?」
沙耶はよろめきながら、立ち上がる。転びそうになったとき、体を支えられた。沙耶の頭上に、忌々しそうな蓮二の顔が見えた。
「狐焔はとっくに消えたぜ。――さしづめ、ここであったことを、宮に報告しなきゃならねえんだろ。――それより、もう終わったんだ。おとなしくしてろ」
「は、はい」
沙耶は枯葉の上に敷いた麻布に横たわり、毛皮を体にかけていた。
蓮二は丸太に座って火の番をしていた。火の爆ぜる音の狭間に、遠い梟の声と、夜風の音がした。樹脂の焦げる匂いが鼻につくのだが、その匂いは旅の中ですでに慣れていた。
月明かりは瘴気に薄められ、木々の輪郭を幽暗と浮かび上がらせた。木立の間にひしめく闇は、そのうち溢れてきて、焚き火を消してしまいそうだ。
やはり世界には瘴気が溢れている。――いまはまだ。
「夢じゃねえぜ」
沙耶は驚いて蓮二を見た。
「夢じゃ、ない?」
「そうだ。あの、狭世であったことはよォ。俺は、消し飛びながら、おまえの歌を聴いた。そして、女神が蘇った」
蓮二は大崖――日暮ノ峡を見て、
「瘴気も止まってるぜ。蛞蝓のやつらも、出てきてねえ」
そこで蓮二はひとさしの枝を折って、火に放ると続けた。
「瘴気が消えちまうには、まだ時間がかかるんだろなァ。だけどよ、やるだけのことは、やったさ。そうだろ?」
「ええ、そうですね……」
*
沙耶が目覚めたとき、すでに朝日が東の空に昇り、冷たい光を大地に注いでいた。
蓮二は焚き火の前に座り、腕を組んで眠っていた。
焚き火は消えかけていた。沙耶は蓮二の足元の枝を幾らか取ると、焚き火にくべた。そこへ息を吹き込むとまた、火が立ち昇った。
ふいにあの埋み火の巫女――瑠璃女のことが頭に浮かぶ。生きていて欲しい、と沙耶は思う。
*
往路が日没を追う旅だとすると、帰りは朝日に向かう旅だった。
沙耶たちは野宿を避け、慌てることもなく、大地を覆う瘴気の中を歩んでいった。
誰も白花芽ノ神が蘇ったことを知らぬ。沙耶たちのことさえ、なにか変わった巫女と、柄の悪い浪人が現れた、としか思わなかっただろう。
人々はこれまでのように、瘴気病みや瘴魔の影を疎んでいた。――ただし目ざとい者は、西風が孕んだ瘴気が薄まっていることに気づいたかも知れぬ。
沙耶は西の果ての出来事を、誰に云うでもなくただ、白ノ宮を目指した。
世界の変化は、言葉で知るのではなく、おのおのが感じ取るべきだと思ったのだ。――いわんや、沙耶が声高に叫んだとて、誰が信じたことだろう。
ある日、人々は西風から瘴気が消えたことに気づくだろう。瘴魔が減り、よほど深い森や、山の奥にしか現れぬようになる。瘴気を見る力がない者も、数多き星座に、夜風の澄み渡ったことを知る。
――そんな未来を思いながら、沙耶は蓮二との帰途を踏みしめた。
「内祝いに、町ごとに一番うまいもんを、食ってこうぜ」
とは、楼迦国の都に着いたときの蓮二の提案だった。とはいえ、巫女がそんな贅沢をしていては風評に関わる。それに、だいいちそんなに食べる気になれなかった。
「よろしければ、蓮二さんお一人で、どうぞ」
と答えると、蓮二は興醒めした顔をしつつ、
「ああ、そうしてやるよ。けッ、一人の方が気楽だぜ」
と宿を抜けて街へ繰り出したものだ。
明葉ノ庄の宿に泊まると、夕餉前にどこから聞きつけたのか、長身の巫女――咤紀が尋ねてきた。
蓮二は咤紀がよほど苦手と見え、困惑した表情をしていた。
「なにか、成し遂げたのだな。鎮め巫女よ」
咤紀はそう云って、少し薮睨みの右目をぴくりと動かす。
「ええ……」と答える沙耶は、咤紀のぴんとした体と、きつ過ぎる眼差しを見ながら続ける。
「この庄の、洞穴にあった歌に救われました」
そう答えると、咤紀は意外そうに目を広げた。
「ほう。やはり……。なにか、あったのだな。隠されたものが」
「左様です、咤紀様」
沙耶がいくらか説明していると、いつの間にか蓮二の姿が消えていた。咤紀は身を乗り出していろいろと尋ねてきた。
そんな咤紀と会話しながら、沙耶は思った。――瘴気が晴れても、咤紀はきっと変わらず、庄の巫女であり続けるのだろう。
馬稚国の都を超えたあと、下杉村を抜けて、峠を登り切った。――そこでついに、森に囲まれた白ノ宮が見えた。
長大な白木の外塀が左右に伸び、その奥には白い建物の外壁、それから
とにかく、白ノ宮は沙耶が旅立ったときと変わらず、かように森の一隅に根を張っていた。
「まさか……」と沙耶が呟くと、蓮二が振り返ってきた。
「なんだ、どうしたァ?」
「いえ。まさか、生きてまた、白ノ宮に帰ってこられるとは、思いもしませんでした」
蓮二は面倒そうに顎を掻くと、
「思いもよらねえこと、ばかりだろうが。旅ってもんはよォ」
そう云って、「行くぜ」と歩き出した。
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