日暮ノ峡 9
沙耶は忌神を見据えてから、目を閉じて息を吸った。瘴気と、それに紛れたわずかな霊気が深々と、体に入り込んでくる。沙耶の心の中には、あの明葉ノ庄で見た、白木の板に刻まれた歌があった。
洞穴や庄に浄化をもたらした、あの聞いたことも見たこともない、不思議な浄歌を。
――沙耶は直観する。果たして、瘴気などというものは、本当に存在するのだろうか、と。世界を埋めつくし、田畑を蝕み、人や生命を呪い、天を濁らせる瘴気は。状態であって存在ではない。
あの滅びた村の、瘴気の溜まりを流して浄めたが如く。――霊気の滞りが巡れば、それは瘴気ではなく流れとなる。
(そうか、巡ればよいのだ。空気や水や、生命のように……)
沙耶は再び息を吸って、また吐く。瘴気が流れ込み、体が冷たくなってゆく。息を吐けばまた、体は温もりを取り戻す。霊体であれど、呼吸というものの本質は変わらぬ。――それは、白ノ宮で何度も学び、実践してきたことだ。
(あれほど霊の道を究めながら、白ノ宮はなぜに、かようなことを……。大巫女様。――雪凪様。瑠璃女様。――なぜ?)
そう問うも答えはない。――沙耶はまた息を吸って、ついに口を開いた。心の内奥から自然と流れ出るように、その歌が溢れてきた。
白花の芽の 浄しなるかな
声は韻々と辺りに響いた。
ひととき、なにも変わらぬかに思われた。忌神の呻き声に、腐れた森のじくじくとした水音。寂しげな風音。
しかし、たしかにその歌――白花芽ノ浄歌は森に染み渡っていった。その証左に、まずはじめに足元の石壇が細かく震えた。
下を見ると、白花芽紋を描く溝が強く光り立っていた。
石壇を覆う泥は薄れていき、周囲の沼や泥にも変化があった。泥は赤茶けた土に変わり、水は澄んで流れを生んだ。
――いつしかあたりは、
木の幹は赤味を帯びて太く育ち、枝を伸ばして、たわわな青葉を広げた。
春風のような淡く暖かい風が吹いて、沙耶の頬を撫でた。土の匂いと湿った苔の匂いがした。
柔らかそうな土からは、幾本かの芽が現れた。
(これは、白花……)
沙耶は芽吹く刻を待つそれら白花へ歩んだ。生命の予感を漲らせて、瑞々しくも青く身悶えている。
忌神は――いまだ両腕を左右に投げてわななかせ、声を上げている。おのれの中の、芽吹かんとする生命に苛まれるが如く。
「ああ……あああアアァァ……」
沙耶は忌神へ――いや、その女神へ近づくに、目を閉じてさらに
白花の芽の 浄しなるかな
「ううう……」と女神の声が聞こえた。
ゆっくりと沙耶が目を開けると、女神を覆う無数の呪符が次々と、白く燃え上がってゆくところだった。呪符は灰と消え、その内側からは緑玉の輝きの、透明な裸身がつまびらかになっていった。
辺りに満ちていた光と霊気と瘴気が、女神へと集まってゆく。どこまでも収束してゆく。
最後に密度は極限を迎える。――力の収束が、長い呪いと穢れを飲み込み、ある姿を創り上げてゆく。
土からは次々と白花の芽が現れる。芽は生命の可能性であった。この白花芽の領域の、力の収束と発露に連動していまや、すべての生命が目覚めようとしていた。
――そしてついに芽は、雫に濡れた蕾を解き、白花を開きはじめる。
領域のあらゆる箇所で、白花は無限とも思われるほど花開く。――辺りに清冽な甘い香りが溢れ出してくる。
気がつくと沙耶は、緑色に光る渦の中を漂っていた。緩やかな螺旋を描きながら、上方へと向かっているようだった。周囲には土や草木や白い花びらが渦巻いている。
眼下には広大な森の緑。――その中央には、碧く透き通る肌の女神――白花芽ノ神がいた。乱れ咲く白花の中で、舞うが如く両腕を動かしていた。その腕の動きに従って霊気や瘴気が流れ、未知の秩序を持って重なり合い、渦を成して上昇していった。
沙耶はそれらの幻視の中で、流れが世界を包むのを見た。
瘴気は滞りを解かれて
悠久の円環の中で、霊気はまた
風は叫びであり歓喜であった。
腐敗は死であり完成であった。
すべてが滞らずに巡るからこそ、それらは円環をなしていた。
上昇の夢の中で、沙耶は声を聞いた。
「巫女よ……。我が妹たる、水奈弥の巫女よ。そなたは、ついぞこの
「そのお声は……。白花芽様……」
「我が巫女よ。いつなりとも、
日暮ノ峡 おわり
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