日暮ノ峡 8
「観たかえ? 我が巫女よ」
と声がした。沙耶が顔を上げると、水奈弥ノ神が眼前に浮かんでいた。――どうやら暗い森の領域に戻ってきたようだ。
「は、はい。白ノ宮が、瘴気をばらまく原因を作っていたと。遥か昔の大巫女様が、白ノ宮を護り、世界を支配するために、あれら蛞蝓を……」
「うむ、まこと、白鷺どもは因業なことを考えよる」
「わたしは、いったいどうすれば、よいのでしょう……」
水奈弥はじっと沙耶を見据えてから、
「ここなる、白花芽の神域を浄めよ。我が巫女よ」
沙耶は息を呑んで、周囲を見回した。
「こ、この地の瘴気をすべて吸って、浄化せよ、というのでしょうか?」
「いいや、そうではのうて。――我が姉さえ蘇れば、おのずと世界は浄むる」
「お姉様? 水奈弥様の……?」
「左様。――そうか、いまや巫女どもは、それすら忘れたのだな。我が姉こそが、白花芽。白花芽ノ神と、そなたらは崇めていたものよ。そなたらの、現世を
「呪い、隠す……。そんなことまで。――も、申し訳もございませぬ」
沙耶が平伏すると、
「よいわ。現世の穢れ、浄めなぞ、そなたらの問題よ。それに、我らにとってのまことの世――常世においては、さほどの影響もない。されど、我が姉のことよ。解決してやりとうてのう。すればおまけに、そなたらの現世も、住みようなる」
沙耶は再び、恐る恐る顔を上げた。
「して、如何に白花芽様を、蘇らせれば、よいのでしょうか……」
「人が縛りし我が姉なれば、それを解くのもまた、人の歌であるぞよ」
今度は背後から声がした。
「沙耶よ! な、ならぬ!」
振り返ると、大巫女の霊がまだおり、必死の形相をしていた。
「白花芽が蘇れば、白ノ宮の権威と、世の平和を、乱すことになろうぞ」
「し、しかし大巫女様。まことの、浄めの神がおわすのならば、それをお助けせねば……」
「左様か……。なれば、致し方ない」
すると、大巫女は目を閉じ、両手を胸の前で組んだ。そして眉をきつく寄せ、皺に埋もれた口を動かして、
西日落つ 地の底に這う腐れ根を
集め冥府ぞ いざすべからむ
周囲の森の木々が乾いた音をたてて、蠢きはじめた。泥水が泡を吐き、空気がいっそ重く澱む。大巫女はなお一心不乱といった様子で、肩や頭を揺らしながら再び口を動かす。
西日落つ 地の底に這う腐れ根を
集め冥府ぞ いざすべからむ
くっきりとした瘴気が大巫女を包み、暗い森に広がった。――そのとき、遠方で地鳴りがした。
沙耶は寒気を覚えて振り返り、冥摩ノ神の方を見た。森のずっと先の方から、刺すような視線を感じたのだ。
冥摩ノ神は黒い巨躯を動かし、地響きをたてながら歩みはじめた。大巫女の浄歌が――いや、呪歌が作用したのだろう。
忌神はみるみる速度を上げ、木々を押し倒して踏み潰し、沼に穴を開けながら突っ込んできた。
水奈弥ノ神はそこで大巫女を一瞥すると、「痴れ者が」と右手の指先を向けた。すると、青白い光が薄衣のように閃いて、大巫女の姿が捩れ歪んだ。
「おお……」
声にならぬ声を上げて大巫女の霊は消し飛んだ。しかし、忌神はなおも怒り狂い、黒い岩山となって迫ってくる。地響きだけで、沙耶の足元の石壇が割れそうだ。
沙耶は水奈弥ノ神を見上げた。
「いったい、どうしたらよいのでしょうか? 忌神様がもう、そこに……。それに、白花芽様は、いずこに? 蘇らせるにも……」
水奈弥は相変わらず、海中を舞うように体を揺らめかせると、
「我が姉がいずこか、と。これは異なことを申す。そこに、おるではないか」
一方で忌神は目前まで迫ってくると、
「ああああアアァァ……!」
と長く悲痛な声で哭いた。奇しくもそれは、女のように高くも澄んだ声だった。
忌神の体には、無数の呪符が張り巡らされていた。体を埋めつくす黒い呪符には、赤い文字で、古い呪詛の言葉がびっしりと刻み込まれていた。呪符の隙間からは膿のようなどろりとした瘴気が、絶えず溢れて出してくる。山の頂点たる頭部にも呪符が囲い、真紅の目だけが炯々と、光を放っている。
「うあああァァァァーー!」
忌神は腕を伸ばしてくる。沙耶はへたり込んだまま、転げるように逃げた。
耳をつんざく甲高い叫び声を上げ、忌神は両腕を持ち上げ、宙を掻き、頭に指を立てた。ついで、また赤い目が沙耶を捉える。
沙耶は足さえ震えて動かすこともできず、その禍々しい声と巨躯に圧倒されていた。
乾き切って死にかけた蝿が、なすすべもなく人間に潰されるようなものだろう。――なんとなく沙耶はそんなことを考える。忌神の右手ががばりと開き、膿と瘴気がしたたり落ちる。右手は天高く持ち上がり、枝々をへし折った。巨大な右手は今にも振り下ろされそうだ。
沙耶は横たわったまま手を組んで、目を瞑った。
そのときのことだ。忌神の奇妙な呻き声が聞こえたのは。
ふと見上げると、忌神の眼前に赤黒い瘴気が集まっていた。――それはさながら、赤い雷を呑んだ黒雲のように見える。うなる雷鳴に似た重い音を響かせ、雲がさらに集まり、形をなしてゆく。
一歩、忌神が後ろに退がったとき、黒雲は突如として巨大な太刀の如き縦長の形をとった。大太刀は縦に回転し、ぐるりと大きな弧を描いて忌神に襲いかかった。
黒い大太刀は雷鳴とともに、忌神の頭から顔を、胸と腰を正面に斬ると、大きな水音を立てて沼地に着地した。忌神の体からは呪符と膿が舞い散った。
沙耶は上体を起こして、訳の分からぬまま、その黒雲を見た。
(もしや、新たな忌神……?)
そんな驚異を持って黒雲を見ると、いつしか黒雲は人間めいた形を取り始めていた。そして、その横顔が見える。
蓬髪に
黒雲の男は大口を開けて、犬歯を剥いて忌神へと駆け出した。
「うおおおオオオォォ……!」
それは怒りとも嘆きともつかぬ、魂を削って燃やすような雄叫びだった。真っ黒な太刀を引き摺るように提げて、黒雲は雷鳴を吐き出しながら、石壇と泥を蹴って突き進む。
黒雲は全身をまた大太刀へと変化させ、弧を描いて前転するように、忌神へ斬り込んだ。
「ひいああアアァァー!」
忌神は逃げるように後ろに倒れ込んだ。太刀は忌神の左足を斬ると、そこからまた呪符がばらりと舞った。
黒雲は男の姿に戻って振り返ってくると、こう云った。
「沙耶、俺はよォ。はじめて云うぜ」
男は左手を掲げて、空中に舞う呪符を一枚掴んだ。それを握り潰すようにして、
「――沙耶ァ、浄めろォ! この地を。神を。人を。この世を……。
その男――蓮二はもはや、その身を霧散させようとしていた。霊体を酷使して、瘴気に塗れながら、この領域に顕現して落ちてきたのだろう。
沙耶は熱に当てられた心地で、膝を立て、腰に力を入れて立ち上がった。
「れ、蓮二さん……」
蓮二は沙耶に視線を向けながら、黒い蒸気のようになって消えていった。相変わらず不敵な笑顔を浮かべながら……。
その後ろには忌神がおり、まさに腕を泥に張って、立ち上がろうとしていた。ついで沙耶は、水奈弥ノ神を見上げる。
水奈弥は宙で揺らめきながら、沙耶を見つめていた。
「我が巫女よ。今ぞ!」
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