日暮ノ峡 7

 大巫女は胡乱うろんそうな目で、


「もうひとつ、とな? なんぞ、申してみよ」

「畏れいります。それは、花の芽のことです」

「花の芽? ほう、なんのことか」

「旅の先々に、花の芽が……。それに、聞いたことのない、浄歌もありました。明葉ノ庄の地下の社に、その浄歌が書かれておりました。――大巫女様。花の芽の紋様は。――それにあの、花の芽を歌う浄歌は、なんなのでしょうか?」

「儂は、知らぬなあ。されど、かように広い世の中。古い歌のひとつやふたつ、埋もれてもおろうよ」

「それだけでは……。それだけではないのです! わたしが、あの浄歌を口にすると。――そうです。見たこともない、感じたこともない力が溢れて……。庄を浄めたのです。――そのときに見た、あの神のような姿は。わたしはたしかにあのとき、狭世の中で、森のような領域に落ちていったのです。あの森の中で。森……」


 そこまで云って、沙耶は周囲を見渡す。腐れた森の木々が、にわかにざわめくような気がした。


戯言ざれごとを……。沙耶よ、それが白ノ宮で学び、霊受を果たした巫女のありようか?」

「わたしは……。やはり、確かめとうございます。どうにも、この地にも、あの紋様があるようなのです」


 すると、大巫女は目を怒りに広げて、


「ならぬ! 余計なことをするでない! 沙耶よッ!」


 その声は暗闇に轟き、沙耶の体をびりびりと震わせた。しかし、沙耶はその声によって、はじめて目醒めたかのように振り向いた。


 泥に埋もれた石壇に駆け寄ると、腰を屈めて手を差し伸べた。狂ったように肘をついて、腕を使って泥を掻き分けてゆく。


「すぐにやめい! ならぬぞ!」


 背後から大巫女の声がするが、それを無視して腕を動かす。次第に石壇の表面があらわになるとともに、泥の下から大きな花の芽が現れた。深々と刻まれた、横から描いた花の模様だった。


 周囲に大きな円が囲い、その中には横から見た白花の芽が描かれていた。穢れた森の中でひっそりと、花開く刻を待っているように。


 沙耶は吸い寄せられるように、その紋様に手を触れた。すると、紋様の溝のあらゆる箇所が、白く光り立ってきた。――同時に、不思議な声が聞こえてきた。


「巫女よ……」


 びくりとして、沙耶は顔を上げた。暗い森の中空に見えたのは、青白い衣を纏った女の姿だった。深緑色の髪はたわわに揺れ、裸体にかかる衣は、さながらそこが海中であるが如く、ゆるやかにたなびいていた。


 沙耶はその正体を直観し、すぐさまひれ伏した。そうして、石壇に額を当てて云った。


「もしや、水奈弥様……。我が、水奈弥ノ神……」


 すると深くも澄んだ、不思議な声が響いてきた。


「巫女よ……。これなるは、我が端緒たる分霊に過ぎぬが。――ようやく、この白花芽紋の力を介し、そなたと、語れるようになったようだ。けだし、人の者と語らうは、生半なまなかならぬ壁があるものよ」

「お、畏れ多きことでございます。水奈弥様、直々に、お声をかけてくださるとは」

「顔を上げよ……。巫女よ……」


 沙耶はその言葉を聞いたとき、喜びとともに恐怖した。分霊とはいえ、水奈弥ノ神の顔を正面に据えて語らうなどしては、目を潰してしまわないかと。あるいは気が触れるか、瞬時に霊体が霧散してしまうか。


「巫女よ……」


 再びその声を聞いたとき、沙耶はついに肘を伸ばし、震えながら上体を起こした。


 そこにはやはり、並の女人の大きさの女神が浮かんでいた。目はきらきらと、深い藍色になったり、白くなったりし、水面のように色彩を変えた。その表情は穏やかで、しかし冷厳としていた。常に全身から青白い光を放ち、その周囲にだけは、いかなる瘴気をも寄せ付けはしなかった。


「巫女よ。よくぞ、この白花芽の神域まで、まかり越した」

「な、なんと。白花芽の神域、とは……」


 思えず口にしてから、断りもなく神に物申したことに慌てた。


「も、申し訳もございませぬ。お許しもなく……」

「よい。それよりも、やはりなにも、知らぬようだのう」

「――はい。なにを知らぬのか、それ自体が分からぬのです」

「ふむ。よかろう」


 すると水奈弥ノ神は、その右手を横に薙いだ。手の先から青白い光の帯が流れてきて、沙耶の顔を包んだ。奇妙な耳鳴りが響いてくると、暗闇に包まれた。




  *



 そこは白ノ宮の最奥である、大巫女の謁見の間だった。


 すだれの奥に大巫女の影があり、簾の横には、何代も前の一位巫女が立っている。


 簾の前には、白髪に白髭の老いた使節が立っており、その脇には武装した側近たちが二名、跪いていた。使節は云った。


「大巫女殿。――先般より我々馬稚国は、白ノ宮への兵の配備に対し、年間で五億貝の代償を求める由を、お伝えいたして参った。今日こそ、そのご意向をば、伺いに参ったのでございます。――して、どのようにお考えか」


 すると横に控えていた一位巫女が、声を荒げた。


「大巫女様をお守りし、代弁する一位巫女である、このわたしの意見として申します。――無礼にもほどありましょう。瘴気の浄めや、瘴魔の退治。戦とあらば吉凶を占い、神の加護をお与えする。――これほどの貢献をしてますれば、なぜにかような、無体な要求をされるのでしょう」


 使節は白髭をつまんでから、


「これはしたり。瘴気や瘴魔など、よほどのものでなければ、白花芽様の浄歌で、浄めることができますな。むろん、白ノ宮に敬意をもって遇するは当然のことでございますが。――されど、しかと白ノ宮を護り、お支えするためにも、然るべき原資を用意せねば、守護の配備が追いつかぬと、そう申しておるのです。――戦の吉凶の占い? はて、その結果を確かめるために、烈賀王の下僕となり血を流すは、我らでございます」

「な、なにを申すのです。我らが目を光らせているからこそ、楼迦国は攻め手を控えておるのです。我らがおらねば、神の加護もなく、予知も占いもありませぬ。すれば馬稚国は、血に沈みますぞ」

「そうは申されるが、さて、それはいかがなものか……」



 ――場面は変わる。


 一位巫女は夜の謁見の間で、灯明皿のか細い灯りを手に、柱の影に立っていた。


 そこに、黒装束の者たちが幾人も、影が滑りくるように現れた。一位巫女は云った。


「裏庭に侍りし戸陰どもよ。今こそ、宮の威光を知らしめるときぞ。秘密裡に、大巫女様が下知された、あの命。耳にしておろうな」

「如何にも」と影の一人が云った。

「よし。それでははじめよ。今宵より、十日を待たず、白花芽ノ神は消えるだろう。替わりに忌神――冥摩ノ神が、世界を瘴気に包むようになる」



 ――そしてまた次の場面となる。


 夜の神繋かみつなぎノ宮で、大巫女をはじめ、五名の巫女たちが連座し、灯明皿の前に集まっている。大巫女は重々しい声で、


「戸陰たちはすでに、各地の、白花芽の神社を破壊したとのことだ」

「なんと、もうそこまで……」とは一位巫女だ。

「当然よ。――書などからもその名と白花芽ノ浄歌を消し、宮の巫女たちにも、各地にも触れを出し、その名を禁じた」

「し、しかし、馬稚国をはじめ、各国の中枢はどうされるのでしょうか。あの使節や、家老どもが従うとは思えませぬ」

「ふむ。安心するがいい。それらには、特別な呪いが施された。物忘れをするか、世におらぬことになったが。――あとは日暮ノ峡の、白花芽の神域においても、例の瘴魔を置いた。――地の瘴気を流す、巨大な霊路たるあの西の地を詰まらせ。滞った瘴気を再度噴出させる。――あの蛞蝓の如きな……。これで、世界は瘴気に包まれよう」

「大巫女様――。ほんとうに、これでよかったのでしょうか?」

「たわけ。我らが権威を示し、馬稚国をはじめ、楼迦国や、その他の周辺国にも力を示せばこそ、平和が成るものぞ。これは、必要な処置なのだ」

「さ、されど。瘴気が地に溢れてすぎては、浄める間もありませぬ……」

「ふむ。そこで、鎮め巫女というものを設けるのだ。鎮め巫女はひととき蛞蝓の贄となり、蛞蝓は活動を止める。その間にも浄めをある程度見せつければよい。すれば白ノ宮は、鎮め巫女を輩出する組織であり、強力な呪力を併せ持つ、なくてはならぬものと知れ渡ろう。これにより、畏怖と力をもって世界を鎮めることが、できようというもの」

「し、しかし……」


 そのとき、影がまた滑るようにやってきて、一位巫女の背後にぴたりとついた。一位巫女の首元に、輝く刃が添えられていた。それを見て、大巫女は云った。


「云うな。それ以上。――裏庭に葬らねばならぬぞ」

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