日暮ノ峡 6
蓮二は沙耶の肩に手を置くと、呼吸を整えて目を細めた。
(狭世に落ちた、沙耶の霊を追うだと? そんなこと、できるのかよ……)
心の中でぼやきながら、蓮二は視界に映る瘴気の流れを見る。この西の果てにおいて、すべてが濃い瘴気に覆われるものの、わずかに沙耶の体を取り巻く、薄明の如き霊気の流れも見える。
(くそッ。元より観気は、瘴気を見るためのもんだ……。難儀するぜ、こいつはよォ)
蓮二は目を閉じた。すると、瞼の裏に瘴気と霊気が混じり、それらが別種の樹木の根のように絡まるのが見えた。
(まるで巫女どもの仕事だなァ。巫女じゃねえぜ、俺は……)
そんなとき、狐焔の声が思い返された。
『ああ……。うぬら狼は、瘴魔との戦いやその修練の中で、狭世や瘴気に深く関わるようになると聞く。なれば、試してみる価値は、あろうというもの』
(勝手なことを云いやがって)
蓮二は瞳を閉じて、絡まり合う霊気と瘴気の織りなす生地の中へ入り込んでいった。
(あるいは、日月ノ長神が紡ぐ、人々の運命ってもんは、こんなもんかも知れねえな)
そんなことを思いながら、半ば夢見心地に暗闇へ没入していった。
――そこでふいに、女の声を聞いた。
『侍よ……。守護なる侍よ……』
暗闇の遥か底に、露草色に透き通った、細い布地のようなものが見えた。海に浮かぶ海藻か、生物……。いや、それは青白く光立つ衣を纏った、女のようだった。
『侍よ……。さあ……』
蓮二は声に吸い寄せられるように降りていった。激しい耳鳴りがして、頭が捩れそうになる。
やがて陰気な、腐臭と瘴気に塗れた森に、ひとりの巫女がいた。巫女は泥に手を張って、体をなんとか起こして、背後にいる老巫女を見つめていた。
『なにを見ておるのだ。早うせぬか。しかと、西の果ての崖へその身を捧げて、役目を果たすのだよ。そう何度も聞いておろうに。沙耶よ……』
老巫女はそう云って、横にたなびく、白い幕を指差している。――その幕の向こうには現世の、日暮ノ峡の情景が見える。
蓮二がその光景を見ていると、沙耶は小さく頷いて、呻き声を上げながらも立ち上がった。
そんな沙耶の背後には、泥に埋もれた石壇が見えた。上から見ると、現世の崖の前にあった石壇と、近いものらしかった。それに、石壇には紋様が刻まれていた。泥に埋もれ隠れているのだが、その端々の曲線が見てとれた。
蓮二の心の中にまた、花の芽の紋様がまざまざと描かれた。
明葉ノ庄の洞穴で見たもの。
滅びた村の奥地で見たもの。
それらの紋様が重なり合って、なにかを訴えているようだった。
沙耶はふらつきながら、紋様と腐れた森に背を向け、白く輝く幕へと歩き出した。目つきは朦朧とし、眼前の救済の光に、ただただ引き寄せられているかのようだった。
「沙耶、見ろォ!」
蓮二はらちもなく大声を上げた。霊体たる姿で、しかもこんな異界の果てで、他者に声をかけることなど、できるのかは知れなかった。それでも、手を曳かれ売られゆく幼児のような、暗い表情の沙耶を見て、黙ってはいられなかった。
「沙耶、振り返れ。――後ろにあの、紋様があるぜ。ここには、まだ、なにかがあるんだ、きっと。――馬鹿みてえに、何事にも顔を突っ込むのが、おまえってもんだろうが」
すると、沙耶はふと足を止めた。真っ暗な瞳に一筋の光が宿った。
「れ、蓮二、さん……?」
そこへ老巫女が割って入るように、
「邪なる霊の妄言よ! 耳を貸すでない! 狭世ともなれば、かようなこともある。さあ、沙耶よ。早う立ち去るがよい。身に毒であるばかりだ」
沙耶はまた、目の前に優しく揺らめく、明るい光の幕を見つめた。
「はい、大巫女様……」
蓮二は再び声を絞り出した。
「光じゃねえッ……。振り返って、暗闇を見るんだよォ!」
*
「どうした?」と大巫女は苛立たしげな声で尋ねてきた。
沙耶は白い幕の目前で立ち止まったところだった。
「申し訳もありませぬ……。やはり、確かめたいことが……」
「なにを申す。かような忌神様の地など、すぐに出なければならぬよ。沙耶、これは、おまえのために云っておるのだ。訳もわからぬ亡霊の声などに、惑わされてはならぬ。道を過っては……」
――道を過る。
沙耶はその言葉を想い、ふと自身の左手を見つめた。瑠璃女のことが頭をよぎったのだ。瑠璃女と出会い、宿の部屋にかくまったあの夜。
『そうだ。どんな道も、自分で選び、自分で歩まねばならぬよ。なあ、沙耶よ』
(わたしの、道……。瑠璃女様、わたしの道とは……)
遥か昔に沙耶は、半ば人買いのような商人に連れられて、白ノ宮の門をたたいた。それから長い修練の日々において、神との縁と、白ノ宮の権威を学んでいった。浄化の神聖さ。忌神の恐ろしさ。そして、鎮め巫女の役目について。
沙耶は大巫女を見て、
「畏れながら……。わたしが鎮め巫女のお役目に選ばれてから……。旅の果てについぞ、この西の果てにたどり着きました。それなのに、なにかが、おかしいのです」
「おかしい、だと?」
沙耶は頷いてから、潜めた声で云った。
「左様でございます。日暮ノ峡の谷底には、忌神様がいらっしゃるとばかり、考えておりました。そう、教わってきたのです。――それなのに、おお……。言葉にするのも恐ろしいのですが。蛞蝓が。多くの蛞蝓が襲いかかってきたのです。あれは、なんなのでしょうか……」
沙耶は自身の両肘を抱いて、身震いした。いまでも首筋や顔に、粘質な蛞蝓の体が絡みついてくるようだった。大巫女はしばし沈黙してから、再び乾いて皺だらけの唇を開いた。
「見たのだな。――まさしく、蛞蝓なのだ。ああ。沙耶よ……。忌神様は、その眷属の蛞蝓を崖に住まわせ、瘴気を現世に送り出しておる。――して、鎮め巫女はその蛞蝓の贄となることで、蛞蝓を釘付とするのだ……」
「や、やはり……。谷底には、蛞蝓が……」
「左様。神聖なる鎮め巫女よ。蛞蝓は浄き巫女の体を、長い時間をかけて味わうのだ。――その年月において……それがおよそ一年とはされておるが。その期間において、白ノ宮は各地の、瘴気の浄めを行うのだ。――その時間を稼ぐことが、三年毎に遣わされる、鎮め巫女の役目に他ならぬ」
沙耶は黙って聞き続けた。
「恐ろしいか? 沙耶よ……。されど、巫女がその役目を果たすからこそ、世の均衡を保つことができるのだよ。――おお、沙耶よ。すべては、そなたの真心にかかっておるのだ。巫女の働きの中で、これほど崇高で、浄き役目があろうか……」
「まさか、お役目に、そのような秘密があったとは……」
「うむ。かようなことは、あたら、つまびらかにできぬのだ。されど忘れるな……。これは真実、世のため、神々のための、神聖なる役目なのだ。そして沙耶、そなたがその、誉れある役目に選ばれたのだと……」
「それは、わかっております。――されど、もうひとつだけ、お尋ねしても、よろしいでしょうか?」
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