日暮ノ峡 5

 沙耶は石畳の上に力なく横たわっている。蓮二はその横に屈み込んだ。


 右手を伸ばして、手の甲で沙耶の頬に触れると、驚くほど冷たかった。けれど奥底にはまだ、温もりがある気がした。


「沙耶……。くそッ、沙耶! 目を醒ませよ……」そう呼びかけると、沙耶の瞼がわずかに動いたのだが、目醒めはしなかった。


 狐焔も近くにやってくると、膝を突いて沙耶を覗き込んだ。深編笠の奥から、「これは……」と苦々しげな声がした。蓮二はそんな狐焔へ、


「どうなってんだ」

「どう、とは如何に」

「うるせえ!」と蓮二は狐焔の袖を掴み上げて続ける。「あの、蛞蝓の巣に、沙耶を飛び込ませるつもりだったのかよ? なんだあの、蛞蝓どもは!」

「……」

「なんとか云えよ! 殺すぞ、この乱波者らっぱもんが!」


 蓮二は袖を引き千切らんばかりに曳いて、怒鳴りつけた。狐焔はそれに歯向かいもせず、相変わらずの落ち着いた声で云った。


「変えることはできぬのだ。一連の、筋書きを」

「てめえ……」

「それより、沙耶殿を引き戻さねば、すべてが無為に終わるぞ。見よ、体が黒ずみ、みるみる弱っておる」

「見りゃあわかるぜ」

「早う魂を呼び戻さねば。――このままでは、なんにもならぬ。生贄にすら……。それに、蛞蝓がまた、登ってくるやも知れぬ」

「くそッ。どうすりゃいい!」


 蓮二は突き飛ばすように狐焔の袖を離し、こぶしで石畳を殴った。それから、体を起こして沙耶の肩を揺する。


「起きろって! おい!」


 しかし沙耶は目覚めない。「待て、狼よ」と狐焔は続ける。


「この様子を見るに、おそらく狭世に引き込まれたのだろう。巫女が瘴気に冒され気を失うとき、大抵は狭世に落ちると聞く」

「なるほどな。だからなんだ」

「狭世を覗くことができれば、呼び戻せるやも知れぬ」

「狭世を覗く……だと」


 蓮二は沙耶の青褪めた顔を見ながら考え込んだ。


(狭世だと……。いったいどうすりゃいい……)


 そこでまた、狐焔が云った。


「狼には、瘴気を見る術があったな」

「ああ? ――そうだな、観気ノ術か。それがなんだ?」

「昔、ある銀狼衆の者と行動を共にしたことがあったのだが。――そのとき、おそらく観気ノ術を用いて、狭世の巫女を覗いていたのだ」

「なんだと? そんなことができるのか?」

「確かにそんなことを云っていた」

「無理だな。観気ノ術なんてのは、瘴気や霊気を見るためのもんだ。狭世を覗くだと?」

「ああ……。うぬら狼は、瘴魔との戦いやその修練の中で、狭世や瘴気に深く関わるようになると聞く。なれば、試してみる価値は、あろうというもの」

「知るかよ」


 そう云いながらも、蓮二は沙耶を見て、頷いた。


「くそッ。やってみるか。いいだろう……」



  *



 いまだに沙耶の霊体には瘴気が染みつき、痛みに包まれていた。


 底なし沼のような暗闇を、沙耶は延々と落ちていった。闇は重たく体にまつわった。一部の虫が捕獲対象に毒を注入するが如く、あの蛞蝓たちは瘴気を注入してきたのかもしれない。


 けれど、幸いにして沙耶にとっては慣れた感覚だった。――瘴気に浸されて、狭世に落ちてゆくなどということは。


 やがて体は、どこかに着地した。



 顔を上げると仄赤い薄闇と、腐れた森の情景が続いていた。周囲は泥と腐臭が漂っている。


 沙耶は沼地に両手をついて、ぬめる泥を押して体を起こした。――泥の下には石の感触があった。なにか石壇のようなものがあるようだったが、やはり泥に覆われていて、よくわからない。


 火の消えた灯篭のようなものが幾本か並び、奥へと続いていた。やはり先ほど訪れた所と似た、冥摩ノ神の領域のようだった。


 遠くに動くものが見えた。――大きな影はやはり、冥摩ノ神のようだ。


(やはり……。忌神か……。忌神がいる……)


 沙耶は霞かかった意識の中、怖気とともに、遠くに蠢く影を目で追った。


(忌神……。いや、このような場所にいても、仕方がない。――人柱のお役目のためにも、まずは現世へ戻らなければ)


 沙耶は意識を現世に向ける。狭世から離れ、元の世界の光や風や土を思い浮かべる。


 ――しかし、両足は泥に根を張り、全身も重く鈍い。瘴気があまりに魂を深く蝕み、集中できない。


(戻れない……。その霊力すら、もう……)


 沙耶は崩れ落ちるように再び、泥の上に座り込んだ。瘴気に包まれた体がまた震え出し、心の中に声が聞こえてきた。


「許して」「やめろー!」「助けて。命ばかりは……」「赤ん坊に食べ物を……」


 それらはおそらく瘴気を織りなす、世に生きる生命たちの呻吟しんぎんの声、怨嗟の声か。


「巫女よ……」


 最後にそんな声が聞こえた。――妙に澄んだ声。女の、呼びかけてくるような声だった。だからといって、その声になんの意味があるのかもわからない。



 沙耶は遠くに忌神の影を眺めながら、どうしたらよいかも分からず、呆然としていた。


 そんなとき、背後から声がした。


「沙耶よ。そこにいるのだな」


 幻聴の類かと思いながらも振り返ると、そこには、白光する女の輪郭があった。白い小袖に薄紫色の袴。胸には銀の長神の首飾り。銀色の細い頭冠からは白髪が溢れている。深い皺に覆われた顔に、深い輝きを帯びた瞳が際立っていた。


「大巫女様……?」と沙耶が呟くと、白い影は頷いた。

「左様。鎮め巫女の、沙耶よ。――ひどく、困っておるようだな」


(ああ、これは、狭世にありがちな、脈絡のない幻影か、幻視か……。それにしても、はっきりとしている……)


 沙耶は白い影の顔や、巫女装束の生々しい質感を見た。


「沙耶よ」と白い影は続けた。

「胸騒ぎがあってな。狭世に潜り、おまえの気配をたどったのだ」

「なんと……。あ、あまりに危険では? かような、忌神の地に魂を飛ばすなど……」

「うむ。されど、異変を感じてな……。して来てみれば、案の定、かような状況だ」

「面目もございませぬ。人柱のお役目も果たせずに……」


 大巫女は首を振って、


「よい。それより、早う現世に戻り、役目をまっとうするがよい。なあ、沙耶」

「し、しかしわたしはもう……」


 すると大巫女は両手を額の前にかざし、目を閉じると、ついでその手を前方に掲げた。やがて空気が振動し、白く光る幕のようなものが現れた。幕の向こうには、現世の石畳の情景が薄っすらと見えた。


「儂が門を開いた。さあ、ここより、戻るがよい。――そして、然るべき役目を果たすのだ。沙耶よ……。大崖の中に……」

「門……。この向こうに」

「左様。さあ、早うゆくがよい」

「はい……」


 沙耶は最後に振り返って、忌神の姿を遠くに見た。忌神は惑うように、薄赤い闇に佇んでいるようだった。


(いったい、忌神――冥摩ノ神とは、なんだったのだろう。崖の下にいたのは、蛞蝓たち……。なにが、どうなっているのか……)



 ついで足元の石壇へと視線を向けると、泥の底の石壇の面に、線が彫られているのを見つけた。大きな紋様の一部のような。


「なにを見ておるのだ。早うせぬか。しかと、日暮ノ峡へその身を捧げて、役目を果たすのだよ。そう何度も聞いておろうに。沙耶よ……」

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