日暮ノ峡 2
沙耶は思いがけず、穏やかな表情をしていた。
「ついに、たどり着きました」
蓮二は黙ったまま、沙耶の瞳を見つめた。
「ここなのです。――この石壇で瞑想することで、やがて神の手で日暮ノ峡に引き込まれてゆく、と学んできました」
「そうかよ。何から何まで、巫女の考えることは、奇妙なもんだ」
「いえ、巫女が考えたことではなく、神々が定めたこと――らしいのですが」
「いずれにせよ、茶番だな。ひとときの浄化のために、ひとりの巫女が犠牲になるなんざァ。そんな世界を作った長神も、忌神も……。いずれも愚鈍だぜ」
「ここで、左様なことを云うのは、お控えください。――あたら神々の不興を買えば、無事にお帰りになれるか、それすら危うくなりましょう」
「知るかよ」
沙耶は困ったような顔をしてから、「そう云えば……」と呟いて中腰になった。続けて行李を下ろして横に置くと、その中から書状を二巻、真新しい手拭い、焦茶色の小さな薬籠を取り出した。それらを石畳に並べながら、
「このあたりなら、蓮二さんのお役に立つと思います。あ、お薬については、腹下しに効く丸薬もありますので」
「そうか……」
蓮二は荷物を受け取ると、手を止めた。
「蓮二さん……。どうされました?」
「なんでもねえ」
そう答えてあらためて、蓮二は受け取った荷物を自身の行李に入れていった。
沙耶は行李を担ぎ直すと立ち上がり、尋ねてきた。
「あの……」
「なんだ?」
「まだ、巫女のことは、お嫌いですか?」
「嫌いだな。どいつもこいつも、いなくなっちまう」
沙耶は少し悲しげな目をした。それでも口を引き締めて、
「これまで守護の任、誠にありがとうございました。大変なお勤めでしたが、のちに白ノ宮で支払われる褒賞が、お慰みとなりましょう。それに、蓮二さんのこれからの旅路に、どうか白花の浄めと、恵みのありますよう……」
沙耶は深く頭を下げた。背中にかけた笠が揺れ、行李の蓋が見えた。
「……それでいいのか?」
蓮二がそう云うと、沙耶は頭を下げたまま、固まってしまった。
「おい、沙耶ァ。答えろ! ――お前は、それでいいのか、って俺は聞いてんだ。
白ノ宮の、婆ァどもの云いなりで。人柱だと? 笑わせるぜ!
誰だって、自分のことばっかりだろうがよォ。なんだっておまえは、真面目に、犠牲になります、なんてツラしてんだよ。――お前の親父だってなァ。そんなことのために、宮に預けたんじゃねえだろう。
――おい、人間てのは、もっと自分のために得を考えてよォ。楽しいことをするもんだろうが。
逃げちまったっていいわけだろう? なあ、沙耶!」
すると、沙耶の肩が細かく震えはじめた。ついで苦しそうな吐息が聞こえてきた。――沙耶が顔を上げると、頬が涙に濡れていた。小袖の裾で拭うに、
「楽しいこと……。ええ、もう、一生分の楽しい想いを、いただきました。蓮二さん……」
沙耶は振り返ると、石段に足をかけた。蓮二は沙耶の肩に手を伸ばした。
「わたしは……」と沙耶は背中を向けたままで続けた。
「水奈弥ノ神と出会うまで。――あのときまで、ずっと不安だったのです。
父の言葉通りに白ノ宮に入り。そこで修行を続けて。しかし、あのとき霊受を成し遂げられねば、いったいわたしの人生とは、なんでありましたでしょうか?
幸運にもわたしは、水奈弥ノ神に選ばれました。あの、神々の中でもことに浄めを司る女神に。
ゆえにわたしは、この鎮め巫女のお役目を賜ることになりました。わたしはその運命を、皮肉なこととは思いたくはありません。
――だからこそこれは。この道は、わたしが、わたしであるがための、望むべき道なのです……」
そこで振り向いた沙耶は、真っ直ぐな目をしていた。
「それに、このお役目を逃れても、どこへゆくと云うのでしょう……。戸陰をはじめ、さまざまな者に狙われることになりましょう」
蓮二は左手で太刀の柄を叩いた。
「片っ端から斬ってやろう」
すると、沙耶は小さく笑った。目を細めてゆっくりと首を振って、
「でも蓮二さんは、左様な方ではありませぬ――本当は」
沙耶また向き直り、石壇へと歩いていった。
*
瘴気が
深呼吸をして、手を合わせて目を閉じると、もうおそらく最後になるだろうと思いながら、これまで幾度となく口にしてきた、白花ノ浄歌を
白花は 穢れし土へ根をはらむ
花開きては 浄しなるかな
閉じた瞼の裏で吹き荒れる瘴気は、治まるどころかますます猛り狂うようだ。
(無理もない。ここはまさに、浄めとは対極にある場所なのだから……)
沙耶はそう思いながらも、意識を狭世に近づける。――狭世の側も変わらず、目の前には瘴気が立ち昇り、崖の底にはさらに、瘴気の溜まりが広がっていた。さらに底の方に――何者かが潜んでいるようだった。
「
それは、囁くような声だった。瘴気を呑んだ夜風が甲高く哭くような、怪しくも禍々しい響きだ。
「待っておった」「参れ、近う」
「早う」「贄よ……」
声は重なり合って、幾つも聞こえてきた。沙耶は寒気を覚えたが、もとより
「
沙耶はその声に導かれるように、足を踏み出した。
「沙耶、待てよ。待てって!」
呼びかけてくるその声は、肉声なのか心の声なのかもわからない。
沙耶は密かに、ある侍と見知らぬ地へと旅に出る想像をする。旅の果てに行き着いたその国には瘴気はなく、白花もない。四季折々の自然と触れ合いながら、太陽と風の中で日々の営みを重ねてゆく。ゆっくりと年老いて死んでゆく。――そのときも近くに、あの侍がいるかもしれない。
無愛想で文句ばかりで図々しい。荒っぽくてわがままだ。そして――沙耶は右手を胸に当て、手の中の温もりを感じる。
「
「ええ、ただいま……」
沙耶は呟くと、幾千のおのれの未来を手放すように右手を広げ、目を瞑ったまま歩き出した。
――そのときのことだ。蓮二の声が聞こえたのは。
「待て! 沙耶、なにかおかしい。……おかしいんだッ!」
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