日暮ノ峡 3

 蓮二は崖へと向かう沙耶の、足元に目を向けていた。石壇には砂利や土などが薄く堆積していたのだが、蓮二から見て手前に紋様の断片が見えた。


 石壇を覆っていたであろう紋様の大部分が、まるで削られたように消され、手前の一部のみが残っている。 ――下辺の、円弧の部分のみが。へりに近いゆえ残ってしまったのか、他よりも深く彫られていたのか。それはわからない。


 なにかが、蓮二の中で結びつく感じがあった。壮大な日月ノ長神の神話の中に、人間の手が差し込まれていた。その手は白くかさついていた。


「待て! 沙耶、なにかおかしい。……おかしいんだッ!」


 とっさに蓮二はそう云って、石壇に近づいた。沙耶は足を止めて振り返ってきた。


「な、何事ですか……」

「いや、これを見ろ。この、紋様の跡を!」


 蓮二が下を指差すと、沙耶は訝しげに示す先を見た。また、その生贄の中断を厭うように、崖の下からは不気味な風音がこだましてきた。さながらに、獲物を待ち構える獣がお預けを喰らい、飢えて怒るように。


 沙耶はしばらく紋様の跡を見てから、


「なにかが、消されています……」

「ああ、そうだ。それに、この旅の中じゃ、こういったことが、幾度かあったな」

「ええ。そして、この紋様は。もしや……。あの、明葉ノ庄を憶えておいででしょうか?」

「ん? ああ。あの恐ろしい巫女の、咤紀のいた所だ。――おお! あの洞穴の底にも、訳のわからねえ、祭壇があったな」

「たしかに。――そうです。あのときの、花の芽のような紋様の下部と、似ているのです」

「ああ、そうだ、似ている。いや、俺には同じように思えるぜ」

「それにあの、紫燐蝶の村の、神社の礎石!」


 蓮二はその言葉に、遠く旅路を振り返る。杉下村を目指しているうちに迷い込んだ、あの滅びた村。最奥にあった礎石たち。背筋に冷たいものが伝う。


「同じだ……。あの礎石に、小さく刻まれてたなァ。白花紋と並んで。花の芽が」

「あの、咤紀様もおっしゃいました。白ノ宮の伝承には、空白があると。隠された、なにかが……」


 沙耶の目からは、諦観の闇に向かう静けさは消えていた。さながらにその瞳は、あの瑠璃女の眼差しの如き熱を帯びて、蓮二を見返してきた。


 沙耶は石壇を降り、周囲を見回しはじめた。石壇とその先の大崖を。右手にそびえる冥摩ノ神の石塔を。沙耶は吸い寄せられるように、社の中に納まった、大きな石塔へと歩んでいった。そして、石塔に書かれた文字を見て、


「ここには、およそ、白ノ宮で聞いたようなことが書かれております。この西の果てに冥摩ノ神がおわす、ということ。白ノ宮の呪と、権威の元にこれを納め奉る、ということ」

「うさん臭えなァ」


 沙耶は言葉にせぬまでも、こくりと頷いて、また石塔に向かう。


からも探ってみましょう……。花の芽とは。冥摩ノ神とは……」



 蓮二はそのとき、風が動く気配に目を向けた。ひとりの男が飛ぶような速さでやってきて、沙耶の背後へとぴたりとついた。


「おまえは……狐焔」


 その男――狐焔はやはり深編笠をかぶり、鼠色の着流し姿だった。狐焔は「鎮め巫女よ」と、低くも妙に響く声で続けた。


「役目を忘れたか。うぬの役目は、かようなものではないはずだ」


 沙耶はおそるおそる、といった様子で振り返る。


「分かっております。――けれど、調べなければならぬことが、あるのです」

「不要。ただちに、役目を果たされよ。これまでの鎮め巫女が、そうしてきたように」


 狐焔は沙耶の肩に手をかけると、ぐいと曳いた。沙耶は声を上げて、石畳に転げた。


 その頃には蓮二は、狐焔へ二歩の距離にいた。狐焔は身構え、右手を腰の刀に伸ばすと、刀を逆手に持って飛びかかってきた。蓮二は目を細め、眉間に力を込めた。


おん!」


 叩きつけるように声を発する。――狐焔が一瞬空中でぐらついた所へ、太刀を走らせる。刃は狐焔の胴へ吸い込まれる。


「蓮二さん!」と沙耶の叫び声がする。


 狐焔は音をたてて石畳の上に落ち、倒れ込んだ。蓮二は沙耶を見て、


「騒ぐな。皮しか斬ってねえ」


 狐焔は横腹を押さえながら、すかさず距離をとった。


「その技。――瘴魔どもを狩る、狼の手妻てづまのひとつか……」

「抜かせッ。おまえも、瘴魔どもと大差がねえぜ。らちもなく襲ってきやがって」


 蓮二は太刀を脇に構えると、左足を前に出した。


「なにぶん、人間相手は慣れてねえ。次の受け太刀は、加減なんて、できねえかもなァ」

「牙を白ノ宮に向けるならば、戸陰が、黙っておらぬぞ」

「馬鹿が。仕掛けてきたのは、おまえだろうがッ。とにかく、邪魔立てはさせんぞ。狐焔……で合ってたか?」


 すると沙耶が、そうです、と云った。


「おまえに聞いてねえよ」と返してから、また蓮二は狐焔を見て、声を荒げた。


「答えろ狐焔。花の芽の紋様は、なにを意味する」

「詮索は不要」

「そもそも、冥摩ノ神とはなんだ」

「愚問。この西の果てにおわす忌神なり」

「なぜ花の芽の紋様が消えてやがる。――いや、なぜ消した?」

「消しただと?」

「そうだ。おまえたちが消した……!」


 思いがけず弾みで云った言葉だった。しかし狐焔は首でも絞められたように、ぐっ、と妙な声を上げて、黙ってしまった。蓮二は呆れたように、


「おいおい。――待てよ。待ってくれ。どういうことだ? こいつは。――消した? 隠した? 花……。花とくれば、白花。白花の芽……」


 深編笠の底から、狐焔の鋭い眼差しが突き刺さってくるようだ。そこで沙耶の声がした。


「やはり、確かめてみましょう。狭世より」


 沙耶は石畳の上に腰を降ろした。手を合わせるに、すう、と大きく息を吸った。


「やめろ」と云う狐焔に蓮二は、

「おまえは黙れよ。いまさら、隠しおおせると思うんじゃねえ」

「違う。それだけではない。――危険なのだ」

「危険だと?」

「ああ。狭世の、忌神へ近づくなど……。只事ただごとでは済まぬぞ」

「そうかよ。あいにく、あいつの無謀さも、只事じゃねえなァ。に限って、首を突っ込むんだよなァ」


 ちらりと沙耶を見ると、すでに目を閉じて、深い瞑想の中にいるようだった。

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