日暮ノ峡
日暮ノ峡 1
白ノ宮の最奥には、代々の大巫女が使う執務室があった。その窓から差し込む西日が、室内をほの紅く染めていた。
窓辺には爽やかに薫る白花が二輪、濃紺の細い花瓶に活けられている。窓からは見習い巫女が暮らす
どこかからか、焚き火の匂いが風に乗って舞い込んできた。森の木々には色づきはじめた紅葉も混じり、風が吹いてはぎしぎしと枝葉を揺すった。
宮内の道には、高杯に白花を載せた巫女たちが歩いている。守護の兵たちが銅の鎧を黄金色に光らせ、年配の巫女が巻物を両手に抱えて
――今日も白ノ宮は守護結界の中で瘴気から護られ、安穏とした日を送っている。世界は瘴気禍に苛まれているというのに。
大巫女は仄かな後ろめたさを感じながら、眼下の机に置かれた
大巫女は自分に言い聞かせながら、左手を持ち上げるに小指をぴんと立て、先を水面に差し入れる。波が幾重にも走ると、水の底からある情景が視えてきた。
そこには荒地をゆく若い巫女の姿があった。
「すまぬが、しかとやり抜けよ。決して無為な役目ではないのだ。この世のために……。世界のために……」
*
蓮二は沙耶と共に灰色の砂岩質の荒野を、はるばる歩いてきた。絶えず吹きつける西風は、細かな砂と埃と瘴気を帯びていた。
あたりには黒っぽい痩せぎすな樹木がまばらに立っており、道の先には陰気な森が見える。
伝聞によればその先に、地の底へ続くと噂される深い峡谷があり、そここそが
そう、西の果ての
「いよいよだなァ」と蓮二は目を細めて云う。風音に紛れ、背後から沙耶の声がする。
「はい。ついに、日暮ノ峡に……」
蓮二が振り返ると、沙耶は考え込むように、周囲に目を向けていた。
「どうした。怖いのか? 無理もねえ」
「いえ。少し、思いだして……」
「思い出す?」
すると沙耶は幾度か瞬きをして、遠くを見るような目をした。
「わたしの、故郷の村の裏山を登ると、似たような荒れた光景が、ずっと広がっていたのです」
「ほう」
「童にとっては未知なる場所で……。事実、村の子供たちは、大人の目を盗んでは、そこへやってきました。珍しい石や、虫や鳥がいて」
「ガキなんざ、そんなもんだ」
「いちど、きつく父に叱られたものです。――兄にせがんで、わたしは、どうしても裏山の先を見に行きたいと……。まるで、戦と旅の王――かの烈賀王に、取り憑かれでもしたように」
「おまえがなァ。想像もつかねえな」
すると沙耶は口を閉じた。蓮二は、「こんな所にきて、親父にまた叱られちまうな」と云いかけた。しかし、その言葉があまりに鋭く響く気がして、飲み込んだ。
代わりに蓮二は故郷の蛇川村の光景を胸に描いた。山気は浄めの力を蓄えていたのか、人里が瘴気に飲まれようとも、深い山陵は清涼さを保っていた。山の緑はどこまでも深く、小川のほとりには白石が光る河原が伸び、源流へと続いている。そんな河原には妹の須未が、いつまでも白い石を探している。
――蓮二は幻想を払うように頭を振って、
「なかなか、忘れられるもんじゃねえな。そういうことは」
「ええ……。けれど。捉われぬようには、しております」
「なんだと?」
沙耶は小さく頷くと、
「白ノ宮で学んだのです……。故人は亡くなったのち、現世と狭世の間を惑うのだと。そして、残されたものが哀切に捉われることで、いっそ、惑ってしまうのだと……」
蓮二はなぜか追い詰められ、胸が脈動する感じを覚えた。
「そうかよ。けッ。聞いたこともねえな」そうしてまた、暗い森への道行きを見る。「進もうぜ」
*
森の痩せて黒ずんだ木々には、葉の乏しい枝が張っている。ギャァと耳慣れぬ鳥の声が遠くに響くほか、生き物の気配はない。
木々の間を瘴気を孕んだ風が絶えず流れ、木々や地面は瘴気に浸り切っている。森のすべてが瘴気に順応した進化を遂げたか、あるいは瘴魔と化したか……。そんなことを考えながら、蓮二は歩いて行った。
「忌神の庭だけあって、こいつは、気味が悪いぜ」
背後にそう云うと、沙耶の声が返ってきた。
「ええ……。左様ですね」
森の奥にゆくと地面は消炭色となり、木々はいっそ細くなってゆく。木々の間から苔色の沼が見え、腐臭を放っていた。木陰には見たこともない捻れた山菜や木の子がまばらに生えていた。
やがて低い風音が前方から聞こえてくるようになった。蓮二は目を細めて観気ノ術で眺めた。――すると先の方で、瘴気が天へ噴き上がっているのを見つけた。
「ついに……」と沙耶の声がした。
「ああ。瘴気の根元……。日暮ノ峡の深奥か。あの瘴気が、風に乗って世界を、染めてやがる」
思えず瘴気の流れに目を奪われてながらも歩いてゆくと、木々の先に大きな鳥居が見えた。
「おい、見ろよ」
蓮二はそう云って指を差して、進んでいった。木材に塗られた朱はほとんど落ち、繊維がささくれだっていた。鳥居の中央には、八つの花弁の紋様――白花紋が彫られていた。
鳥居の下からは、石畳が奥へと続いている。黒ずんで綻びた石畳の先に、石壇が見えた。
蓮二は一度振り返ると、沙耶は口をきつく結び、眉を寄せていた。握った右手を胸元に寄せて、じっと道の先を見つめていた。
「ついちまったなァ」と蓮二が云うと、ふと沙耶は恐れを払うように頭を振った。
「はい。ついに……」
再び沙耶は歩き出すと、蓮二を通り過ぎて石畳へと足を載せた。
「おい、待って……。くそッ」
沙耶の背中を追うかっこうで、蓮二はついに最奥へとやってきた。巨大な黒い木々は葉をつけず、焼けた槍の如く天を突いていた。右手に社。そして正面の石壇の向こうには、左右にかけて途方もない断崖が広がっており、そこから瘴気が立ち昇ってきていた。
断崖の向こう側は
右手には小屋ほどの大きさの社があり、その中にはそれこそ、沙耶の背丈ほどもある謎めいた石塔が置かれていた。石塔の上部には白花紋が描かれ、中央には『冥摩ノ神 鎮魂碑』と彫られていた。その他にも小さな字が刻まれていたが、蓮二には読めなかった。
あらためて蓮二は、沙耶の背中越しに正面の石壇へと目を向けた。背後から続く石畳から段差になっており、なんらかの舞台ともいえる、平らな壇が広がっており、その先にぽっかりと、崖が口を開けていたのだ。
伝承では『太陽が落ちる峡谷』と云われているにも関わらず、太陽はいまだ暗雲の向こうに潜んでいた。こんな呪われた、わけのわからぬ地の底に潜ることなど、かの火津真ノ神ですら厭うことは明白だろう。――そんなこと思いながら、蓮二は視線を下げて、沙耶の背中を見る。背中には長旅を共にしてきた行李――それに、笠がかけられている。
仔細はわからぬものの、とにかく沙耶はこの崖に身を投げて、人柱となる。それが蓮二の聞いてきたことだった。長い旅の中において、その瞬間はずっと遠い未来のできごとだった。
(その瞬間が、いまってことなのかよ。そうなんだな、沙耶……)
沙耶はずっと足を止めてその大崖――まさしく日暮ノ峡を見つめていた。それでもやがて、ゆっくりと振り返ってきたのだ。
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