帝都騒乱 8
貯水池は斜面の下に広がっていた。沙耶は水辺に立ち、水面下に黒く薄っすらと見える、巨人の残骸を見ていた。
蓮二は水面を泳いでくると、やがて地上に上がった。頭を振って水を飛ばし、顔を手で拭うと、
「さて、こっちの火事は仕舞いだ」
そう云って、水浸しの体を見下ろした。
「先に行ってろよ。俺はせいぜい、このボロを、絞っていくとしよう。――くそッ。益体もねェ」
蓮二はべったりと体に張り付いた黒衣を、引き剥がしはじめた。沙耶は顔を背けて、
「わ、わかりました。それでは……」
*
火消し組や町人たちが走り廻る中、沙耶は瑠璃女の許へと戻ってきた。
周囲には武士や町人が、恐ろしいものでも見るように遠巻きにしている。瑠璃女は燃え崩れた茶店の前に横たわっていた。薄暗い瘴気に染まった全身は煤に塗れ、左腕は黒焦げだ。
木材の焦げた臭いに紛れ、髪や肉の焼けた臭いがする。沙耶は瑠璃女に近づくと腰を落とした。
「瑠璃女様……」
返事はないが、ふと瑠璃女の乾いた唇が震えた。
(まだ、生きている……。せめて、瘴気をとり除ければ……)
沙耶は瑠璃女に覆い被さると、両手を差し伸べて目を閉じた。息を吸って瘴気の澱みに意識を向けて、奏いはじめる。
白花は 穢れし土へ根をはらむ
花開きては 浄しなるかな
瑠璃女の体から、熱く重たい泥のようなものが流れ込み、手から腕へ、肩に伝わってくる。怒りや嘆きの声が聞こえる。頭が痛くなり、吐き気がする。気がつくと、あたりは真っ暗になった。
*
しばらくの間、体が落ちてゆく感覚に襲われた。しまいに、地面にぶつかったような衝撃を受ける。
沙耶は呻きながら体を起こすと、周囲を見渡した。どこまでも黒ずんだ地面が広がり、空は仄赤く澱んでいた。黒い木や瓦礫の山が散乱し、いずれも火の煙を放っていた。
絶えず焦げ臭い熱風が吹いており、風音に紛れてパチパチと木が焼ける音がする。
沙耶はしばらく先に見える、一際高い瓦礫の山へと、吸い寄せられるように歩いていった。
燃え続ける瓦礫の山には、瑠璃女が仰向けに倒れていた。左手は瓦礫に埋もれ、右手は力なく広げられている。白い小袖と緋袴は焼け焦げ、目はうつろだった。
「瑠璃女様……」
沙耶は駆け寄って、燃える瓦礫の山に手を近づける。肌を刺す熱気に耐えて、瑠璃女の右手を持ち上げた。そうして引き下ろそうとしたのだが、瑠璃女の体はあまりに重く、動きはしなかった。
「瑠璃女様! そこから、降りてください!」
瑠璃女は焦点の定まらぬ表情のまま、瓦礫の山から動こうとしなかった。――いや、みずからの心の重さによって、縛りつけられているようだ。
沙耶の背後に気配がした。振り向くと、烏帽子に黄緑の衣を着た、壮年の男がいた。
「瑠璃女……。なぜ、かような場所に……」
男はそう云うと沙耶の横を通りすぎ、腰を落として瑠璃女の顔に手を伸ばす。
「瑠璃女や……。儂にとって、おまえがなによりの、誇りだったのだ。おまえが授かった、火津真様の
瑠璃女はその声に、顔をぴくりと動かした。茫とした眼差しの中に、にわかに小さな灯りがともった。
「儂は、欲得に塗れた世界で、くだらぬ運命に振り回されたが。――しかし、おまえは、そんな世界とはかけ離れた、かの白ノ宮の巫女だ。瑠璃女……。おまえは元の世界に戻って、これからも学ばねばならぬよ」
瑠璃女はかさついた唇を動かすと、「父上」と呟いた。男は厳しい眼差しで云った。
「さあ、まだ眠るべきときではないぞ。起きるがよい、瑠璃女」
「父上!」
瑠璃女は右手を男に伸ばす。しかし男の体は白い光を放つと、陽炎のように消えてしまった。沙耶は瑠璃女の右手を力いっぱいに曳いて、瓦礫の山から引き摺り下ろした。
瑠璃女の体が転がるようにかぶさってくる。
「あんたは……。沙耶?」
その声が聞こえたときには、すでに沙耶は新たな
狭世においては
沙耶はその身に瘴気を溢れさせ、傍にはいまだに瘴気に焼かれ続ける瑠璃女を導いて、ついに来たるべき領域へとたどり着いた。
沙耶は瑠璃女の右手を掴みながら、逆さになって、光差す水中を落ちていった。瑠璃女のくすんだ黒髪が海藻のように、たわわに揺らめいている。
沙耶の体に染み込んだ澱みが、透明な水の中に染み出していった。――それに、同じことが瑠璃女にも起こっているようだった。
瑠璃女は大きな両目を不思議そうに開けて、穏やかな表情をしていた。「わかったよ」と声が響いてきた。
「ねえ、沙耶。――わたしはさ、どこかで道を、間違ったんだね。きっと……」
沙耶は碧色の世界の遥か先に、群がる気泡と海藻の向こうに、滑らかな女の輪郭を見た。青く光立つその輪郭は、大きな腕を持ち上げた。
すると下方から水流が巻き起こり、体を包み込んできた。ひたすら巨大な渦に巻き込まれ、体が上も下もなく回転する。温かくも途方もない渦の中にすべてが吸い込まれてゆく。
*
蓮二は水を滴らせながら、茶店の跡へと戻ってきた。ざわつく人だかりの奥には、うずくまった二人の影が見えた。――沙耶と瑠璃女だ。
「どいてくれッ」人混みを割っていくと沙耶の体に手をかける。「おい沙耶! またおまえは……」
沙耶を引き起こすと、両腕で抱き留めるようにして呼びかけた。
「起きろよ……。どうなってんだ、いったいよォ」
ふいに沙耶の瞼が動いた。「あ、れ、蓮二さん」と呟くと、瑠璃女に顔を向けた。
「瑠璃女様は、どうなりましたか?」
「わからねえよ」
と云いながも蓮二は瑠璃女を見た。煤だらけの顔が僅かに震え、胸がゆっくりと上下していた。
「生きてはいるようだ」
そのとき一人の男がやってきた。――例の深編笠の、戸陰の男だ。蓮二は警戒しながらも、
「どうした、目立つのは、嫌なんじゃねえのか?」
男はそれを聞いていないかのように、横たわった瑠璃女へと近づく。ついで腰を屈めると、なにを思ったか瑠璃女の体を抱き上げた。だらりと垂れた瑠璃女の左腕は、半ば炭となって崩れかけていた。男は蓮二の前に立つと、
「万が一、この瑠璃女が楼迦国で尋問を受ければ、白ノ宮の巫女だと知れよう。――いや、そうでなくとも、すでに、国同士の問題になりかねん状況だ。――なれば、この身柄は、戸陰が引き受けるべきと判断した」
「なんだと。――へッ。闇に葬るってのか。その巫女を」
「うぬの知ったことではないが。――左様なことはせぬ。それより、我らの手でしかと宮に送還し、然るべき治療を受けさせるつもりだ。その後あらためて、しかと詮議され、学び直すこととなろう。いや、仔細はどうなるかは分からぬが」
蓮二は瑠璃女の左腕を見て、苦々しい顔で云った。
「左腕は、さすがにもう駄目だな」
「うむ、右利きであればよいな」
蓮二はふと、懐の中の白い石を思う。
「白ノ宮には、左利きの巫女は多いのか?」
「なんだと? 左利きの巫女と云えば……。いや、この期に及んで、なんの戯言だ」
「なんでもねえよ。忘れてくれ」
「いかなる企みがあるか知れぬが。ともかく役目を果たすことだ。――すれば宮は、いささかなりとも、懐を開くやも知れぬ。そのときに訊け」
「ああ。元よりそのつもりだ。――それと」
「こんどはなんだ」
「おまえの名は?」
男はしばし黙るのだが、やがて云った。
「
するとその男――狐焔は瑠璃女を抱えて、滑るように走り出した。
蓮二の腕の中で、沙耶が身じろぎした。
「冷たい……。濡れています……」
沙耶はぐいと腕を張り、よろめきながらも己の足で立った。
「濡れてるさ。水に突っ込んだんだからよォ」
沙耶は蓮二から距離を取ると、物憂い表情で、狐焔が去っていった方に目を向けた。蓮二はくしゃみをしてから、周囲の人混みを見る。
「さて、宿に戻って立て直そうぜ。こいつは、居づらくて敵わねえ。これ以上の面倒は、ごめんだぜ」
沙耶はまだ、道の先を見つめていた。
「いい加減にしろ。行こうぜ。俺たちは、俺たちの道へ」
西風が甲高い音をたてて吹き荒ぶと、運ばれてきた瘴気がまた街を覆っていくのだった。
帝都騒乱 おわり
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