闇巡り 5

 沙耶はよろめきながら座りこんだ。両手を目の前に持ってくると、焦点の合わぬ眼差しで手のひらに目を向けていた。眼球は至って普通のようではある。


「あ、あ……。これは。――み、見えなくなってしまいました」


 震える声で云うと、沙耶は両手で顔を押さえて俯いた。


「くそッ。どうなってやがる!」蓮二は拳で自分の腿を殴りつけ、沙耶に近づいた。「なにがあった?」


 すると、沙耶の両手の中から悲痛な声がした。


「浄化のさなか、狭世の底で無数の目を感じたのです……。そして、なにかが伸びてきて。わたしの目を……」


 沙耶は反射的に自身の目を押さえて、「う、奪われたようです。視力を……」

「沙耶……」


 蓮二はそれ以上なにも云えず、地面の底に続く階段を見下ろした。格子扉と、その先の暗闇を見た。



 そのとき、蓮二は背後に足音を聞いた。


 振り返ると木々の向こう側に、ある巫女が神社の石段を降りてきているのが見えた。


 緋袴の沙耶とは異なり、白衣に白袴を合わせ、年嵩も上のようだった。すらりとした体躯に、面長の顔つき。真ん中で分けた黒髪が光を含んでいた。――なにより異様なのが、右目を覆う眼帯だ。眼帯は白く塗られた革製のようで、蓋のように右目を隠し、紐がぐるりと頭を巡っていた。


 巫女の清らかな佇まいに、その眼帯が際立った。瘴気に染まった明葉ノ庄の、不吉さの焦点のようにも見えた。


 蓮二はその巫女が妙に落ち着いた足取りでやってくるのを、悄然たる気持ちで待った。沙耶はその足音に、にわかに肩をすくめた。


 やがて巫女は石段を降りきり、祠の近くまでやってくると立ち止まって、


「その様子。――どうやら、無明様に見つかったようだな」

「何もんだ、おまえは」


 蓮二が睨みつけると、巫女は残された左目を気だるそうにまばたさせ、「吒紀たきという。して、そなたは」

「蓮二だ」


 思わず素直に答えてしまったのは、吒紀の視線にされてのことかもしれない。吒紀は沙耶へ視線を移した。


「憐れな……。うかつに、狭世に入ったのだろう。この近辺で、巫女がに入るのは、あまりに不用意」

「おい。好き勝手喋りやがって。吒紀だと? ここの神社の巫女か?」

「左様だ」

「なにが起きた? 沙耶に……この巫女に」


 と蓮二は沙耶を見た。名前を呼ばれて、沙耶はまた肩をぴくりと動かした。


「ふむ。見たところ、宮の、鎮めの巫女か。習わしに従い、浄化の力を持つ者と見た。――しかるにその力を、みだりに使ったわけか」

「ああ? みだりに、だと?」

「なにを怒る」

「怒ってねえよ。クソが。だいいち、この沙耶はよお、祠の周りに瘴気が溜まってやがって、そいつが害をなすから、なんとかしたんだぜ」

「余計なことを。白ノ宮に助力を願う手筈だったのだ」

「くそッ。まあいい、とにかく俺は、なにが起きた、って聞いてるんだがよォ。話が見えねえ」


 するとまた、吒紀は左目をまばたきさせ、


「この洞穴の奥には、無明様がいる。無明様は狭世に罠を張り、近づいたものを捉える。それに、無明様はとみに女の目を好むのだ」

「女の目、だと?」

「ああ。その、沙耶という巫女も、近辺で狭世に入ったせいで、無明様の罠にかかったのだろう。白ノ宮で、学ばぬものかと思うが」

「罠……。それで、視力は戻るのか? どうすりゃいい?」


 吒紀はゆっくりと右手を持ち上げると、指先で右目の眼帯に触れた。


「視力を取り返す方法か……。それがわかったら、わたしに教えてくれ」

「まさか。おまえも、奪われたってのか?」


 咤紀はうなずいた。


「母上――先代よりこの無明様のお世話を引き継いだあと。無謀にもわたしは、狭世に広がる、無明様の領域に近づいた。禁じられていたにも関わらず……。あのときは、仕方がなかったと思うことにしている。――その代償をしっておれば、違ったかもしれぬが」

「無明ってのは、なにが目的だ?」

「無明様は、おのれをより強大とするために、女の目を集めるのだとされる」

「悪趣味なやつだな。――だが、その蒐集品しゅうしゅうひんを、取り返すことができるかもしれねえな」

「わからぬ。そんなことは」

「それでなきゃ、どうしろってんだ。無明とかいうのをぶっ殺して奪う。――それ以外に」


 蓮二は視線を地下への階段へ転じて、


「下には、洞穴があるのか? そこに、無明ってやつが、いるんだな。そいつが……」

「――そうだな。そういうことになっている。昔は、水晶窟だったと聞く。そこに、無明様を封じるようになったのだと……。しかし、わたしはそのお姿を、見たことはない。――なにかが、いるのだとは思う。それはたしかだ」

「おいおい……。ずいぶん、曖昧じゃねえか」

「左様。灯りをいとうゆえ。わたしたちは、灯りをともさずに、入ることになっている。決められた日に、神酒を持って入るときは、暗闇の中で無明様の気配を、ひしひしと感じるものよ。――されど、見ることはあたわず。――とまれ、灯りをつけたところで、肉眼で見えるものなのかも、しれたものではないが」

「けッ。瘴魔の類は、いずれもそんなもんだ。――だとすれば、俺が洞穴に入って、見てやろう。この目で」


 咤紀は左目を広げて、


「たわけ。得体のしれぬおのれらを、神域たる洞穴に入れることなど、許されぬわ」


 蓮二は鼻を鳴らすと、地下への階段を降りていった。そこで格子扉に近づくのだが、左端に大きな錠前がかかっているのを見つける。


 格子扉に手をかけて横に動かすのだが、錠前ががたり、と鳴って扉を堅持している。


 蓮二は振り返るに、「開けろ」と咤紀を睨む。


「たわけ。諦めろ。いかんとも、しようがない」


 蓮二は階段の上でうずくまっている、沙耶の小さな背中と肩を見た。――苛立ちが頂点に達しそうなところをこらえ、ため息をついた。


「わかった。俺たちが悪かったぜ。見ずしらずの神域で、勝手をした。この巫女の――俺たちの咎だ」


 咤紀は立ち止まったまま、値踏みするような視線を向けてきた。



「咤紀様、出立の刻限です」


 そう云ったのは、咤紀の背後に近づいてきた、下働きと思われる作務衣を着た中年の男だ。


「本日は、庄の合議がございます」


 咤紀は忌々しそうに顔を歪め、蓮二に云った。


「わかっておろうな。とにかく、諦めろ」


 そうして咤紀は背を向けた。



 咤紀の気配が消えてから、蓮二は地下の階段を登ってゆくと、うずくまっている沙耶に云った。


「少し待ってろ。準備が要る」

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