紫燐ノ森 5

 沙耶は木の床に座り目を閉じていた。


 ――そこは白ノ宮の、神繋ノ宮かむつなぎのみやの一階だった。


 十四になってから、定期的にこの神繋ノ宮で霊受の儀に挑んできた。


 ――霊受。己と縁のある神から力を得るこの儀式こそ、巫女たちにとってもっとも重要なことだった。


 一方で霊受が成就せず、生涯を下働き同然の四位巫女として過ごす者もあれば、故郷に戻る者もいた。


 巫女として白ノ宮に来た以上、神からの霊受を成し遂げることが、第一の目標であった。




 沙耶は目を閉じて手を合わせ、白花ノ浄歌を奏う。



 白花しろはなは 穢れし土へ根をはらむ

 花開きては 浄しなるかな



 鈴のが聴こえる。


 鳴らしているのは正面に座る、一位巫女の雪凪だ。


 リーン…… リーン……


 その音とともに呼吸を鎮め、さらに深い場所へ降りてゆく。


 白花の匂いがする。目の前には高杯に載った白花が置かれているはずだ。――白花のさわやかな甘い匂いは、檜や楢の匂いとともに空気に溶けている。



 まぶたの向こうから雪凪の声がした。


現世うつしよは、我々の暮らす世界。常世とこよは、神と霊の世界。そして我々は、狭世はざまよに参る。――狭世は、その言葉のとおりに現世と、常世を結ぶ、狭間の世界。そこに、神の端緒がある。神の端緒に繋がり、神なる存在と縁を結ぶ。――それこそが、霊受なり」


 沙耶は鈴の音とともに流れてくる、雪凪の言葉を心地よく聞いた。鈴の音と完全に調和して、頭の中に反響した。



 体が細かく震えて、不思議な痺れに包まれる。体の周りには粘質な肉体がまつわってきた。肉体を抜けて、隣の空間へと転じてゆく。


 引き戻されそうだ。霊が肉体を求めるのか、その逆なのかはわからない。


 沙耶は肉体を離れ、現世の引力を逃れ、狭世に飛んでいった。狭世の情景は洞窟のように暗かった。――まだ入り口に至ったばかりだ。狭世にもがあり、に向かうかが重要でもある。




 遠くからまた、雪凪の声がした。


「心の思うままに、進みなさい。縁を結ぶべき神は、定められている。それを思い出しなさい。――そなたが常世を離れ、狭世に憩い、現世に産まれいずる中で、すでに…………」



 沙耶は暗闇の中で、碧色みどりいろの光を見た。


 暗い海を泳ぐように、両手を伸ばして進んでゆく。ともすれば流されて、消えてしまいそうな体をよじって。朧げな碧色の光をたどり。



 温かい海流が体を包む。同時に、背後から真っ白な光が迫り、その先には現世の引力を感じる。油断をすれば、引き戻されてしまいそうだ。――けれどそれでは、霊受はなせない。


 目の前には碧色の光が浮かんでいる。――その光を掴めば、なにかが起こるかもしれない。――なにかが。


 沙耶は手を精一杯に伸ばす。まだ、戻りたくない。先へ、先へ……。



 次の瞬間。沙耶は碧い水の中にいた。


 水のすべてが碧く光りたち、明るい色の海藻が下にたなびいていた。


 海月くらげのような透明な生き物が無数に浮かぶ中、こぽこぽと水泡が惑い、上へと昇ってゆく音が聞こえる。


 そんな碧色の無限の海水の中に、大きな人のような影が見えた。


 その体は女性らしい曲線を持っていたが、宝石のような海藻や海月に覆われて、しかとは見えない。


「あい、にく……」


 と声が聞こえた。その声は、沙耶の全身を震わせるように響いてきた、


「あいにく、われが身請けしようぞ」


 確かに、そんな声が聞こえた。沙耶は心の中で叫んだ。


水奈弥みなやさま! 水奈弥ノ神……」


 すると、巨大な女の影は云った。


「――左様。あいにくながら、こうするほか、あるまいよ」


 女の影が手を持ち上げると、とたんに、水の渦が生じた。ぐるぐると螺旋を描き、その渦は沙耶の体に届いた。そして、温かい圧力のようなものが流れ込んでくるのがわかった。


 その圧力は心臓に宿った。


「娘、それこそは、我が浄めの霊水ぞよ。浄めがたきを浄める、稀有なる力ぞよ」




 現世に戻ってきた沙耶は、ゆっくりと目を開けた。ちょうど、雪凪が鈴に綿を詰めているところだった。


 沙耶の膝の前には、木の高杯に載った瑞々しい大輪の白花が横たわっていた。


 雪凪はその生来の細目と面長に笑顔を浮かべると、


「おかえり」と優しく云った。


 沙耶は思わず泣きそうになりながら、


「雪凪さま。わ、わたしは……。水奈弥ノ神と……」

「ああ。わかっていたよ。沙耶になにか、特別なことが起こったのは」

「ありがとうございます。雪凪さまが、導いてくれたから」

「やったのは、沙耶だよ」


 沙耶はいまだに胸に熱く脈動する、霊水の力を感じて、右手を胸に当てた。


「雪凪さま……。わたしは、授かりました。霊水を……おそらく、水奈弥さまの、浄めの力を……」

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