紫燐ノ森 4
「住みにくい世の中だよなァ」
と、草むした山道をゆく蓮二は呟いた。
「田畑は瘴気を食らって不作。瘴気
後ろから、がさごそと草を掻き分ける音に紛れて、沙耶の声がした。
「ええ。大変なことです。
「ああ。まさに忌神だ」
「とはいえ、世界がこうである以上、われわれは、できることをするまでです」
「そいつが、なんでもかんでも瘴気を吸って浄化して。しまいに生贄で忌神を鎮める、ってことか」
「――左様です」
蓮二は顎を掻きながら、
「それで、おまえはいいのか?」
「え……。もちろんです。それが、わたしの、鎮め巫女の役目なのですから……」
山道はさらに険しくなり、街道どころか獣道にも等しくなってきた。
「本当に、下杉村に着くんだろうなァ」
蓮二はそうぼやき、ますます心細くなる山道を進んだ。下生えの草を押しやり、根を踏み分けて。後ろから沙耶の足音も続いてくる。
「だから、わたしは、旧街道は危険だと……」
その声に蓮二は食いかかる。
「なんだと? 山を突っ切るこの道が、早いに決まってるだろうが」
そう云いながら、自らの失策の可能性を考えて、苦い表情をする。
西の
得体の知れない獣や鳥の声がこだまする中、青臭い世界を潜ってゆく。
獣道の長い坂を降り切ると、にわかに視界が拓けた。
そこで蓮二は、これもまた不思議な情景の中に飛び出たことに気づいたのだ。
枝葉の天蓋が太陽を隠し、その下には白い――
「
「姫沙羅だと」と蓮二が尋ねるが、蓮二もそれくらいは知っていた。沙耶に突っかかって、言葉の弾みをつける癖が身についていたのだ。
「だいたい、こんな、坂を降りるなんてことが、わけがわからねェ。下杉村は、高地のはずだ。あの因業な瘴気のやつが、山を食っちまったんじゃねえ限り」
そこで沙耶を振り返って、「なァ、そうだろうがよォ」
沙耶が頷くと、蓮二は納得したように頷いた。まだ『迷った』とは云わない。
旅立っていくらも経っていないのに、いきなり出鼻をくじかれたことを認めるのは、あまりに癪だった。
――それよりも姫沙羅の森。
低地に広がる暗い森には湿気がこもり、涼しげだった。いや、ともすれば
「
沙耶は姫沙羅の幹を見てそう云った。確かに姫沙羅は湿気に濡れてしっとりと輝き、触れれば血でも流れそうな、きめ細かな白肌を呈していた。
その繊細さがどこか、切なくも不気味でもあった。
「ちッ。こうなれば、少し歩くぞ。村か宿場か、なんにしても座るところくらいは見つけてやる。――それに、こう湿気てちゃ、蛭だのなんだのが厄介だ。――俺の頭や首に蛭が落ちてきやがったら、すぐ教えるんだ。わかったな」
姫沙羅の森の地面にも、よく見ると道の跡があった。坂を下ったところから、細々と草の薄い箇所が帯のように続き、森の奥へと伸びていたのだ。その先には村の柵のようなものが見えた。
「よし、こいつは、さっそく助かったな」
蓮二は嬉々として村らしき方へ進んでゆく。
*
沙耶はそんな蓮二の黒衣を追って歩きはじめた。
黒衣は姫沙羅の白と森の緑を背景に、わかりやすい目印になった。
沙耶にとっては、目印があるのはありがたかった。
迷うことはないし、迷ったとしても一人になることはない。
蓮二が戦うところを見たことはないが、きっと強いのだろう、と思った。なにしろ、瘴魔退治を専門とするあの侍集団、銀狼衆にいたのだから。
そんなことを思いながら歩いていると、視界の端に妙な光が見えた。
「――あ」と思わず声を漏らす。その光は紫色の燐光を放ちながら、森の空気の中を泳ぐようにはためいていた。
「どうした」
という蓮二に、沙耶は答えた。
「
紫燐蝶は姫沙羅の陰に隠れ、また反対側から現れた。黒く縁取られた翅は繊細に、しかし克明に森の緑に映え、非現実的な余韻を残して飛んでゆく。
その飛んでいった先には、さらに二匹の紫燐蝶が見えた。
「ただごとじゃねェな」
蓮二はそう云って、紫燐蝶たちをじっと見た。
「おい、わかってるだろうな。沙耶、おまえも」
沙耶は頷くと、「はい」と答える。紫燐蝶の体からは瘴気が揺らいで溢れていた。
――それは、普通の紫燐蝶ではないことを意味していた。瘴気によるものか、もはや紫燐蝶は『瘴魔』と化しているようだ。
沙耶はいつになく険しい蓮二の横顔を見た。――蓮二はため息をひとつ、
「益体もねェ。ひとまず放っておこう。
ついに村の柵の近くまでやってきた。
村の周りには、木の杭がびっしりと打ち付けられており、端々に苔がついていた。村の正面には木の門があるが、なにかに降伏するように開け放たれていた。
門から中を見ると、
人の気配がしない。外を出歩く人もいなければ、話し声もしない。
かといって家の中に人がいるような感じもない。――家によっては戸が開け放たれ、家屋の中に土や葉が入り込んでいた。
「滅んだ村だなァ。どういうことだ」
と蓮二が振り返ってきた。なぜか自分に詰問するように話しかけてくる。きっと、話し相手がほしいのかもしれない。
「わたしには、とんと、知れませぬ」
沙耶はそう返して、周囲に意識を向ける。空気に、肌がひりつくような刺々しさがある。瘴気がやはり村を覆っている。
紫燐蝶と関わりがあるのかは、わからない。
「よし、ひと通り見てやるか。宿の替わりを見つけなけりゃ、ならんだろう」
と蓮二はずんずんと進んでいった。左手は太刀の柄に載せて、右手で頭を掻いていた。
蓮二を追ってゆく中で、沙耶はぴたりと足を止めた。
「きれいだねえ……
そんな声がどこからともなく、響いてきた。周囲を見渡して、眉をひそめる。
小屋の影から人間の霊が現れたのだ。彼は白髪を垂らした老人で、麻の衣を着ていたが、半ば体が透き通っていた。
「どうした、なにごとだ」と蓮二が尋ねてくる。
そうか、と沙耶は思う。蓮二には見えないのかもしれない。
霊は沙耶たちを見ることもなく、ふらふらと道を横切って、また反対側へと歩いていった。
それになにかを云っていた。
「きれいだねえ……。きれいだ……」
沙耶は顔を上げて、あらためて周囲を見た。気がつくと、村人たちの霊がそこいらに、ゆらゆらと歩いているのだ。男女を問わず、歳を問わず、十数人の透き通った霊がいた。彼らからはわずかに、瘴気の気配もあった。
「おい、沙耶。なにか、いるんだな」
「はい。村の方々が」
すると蓮二は目を細め、周囲に視線を巡らせた。
「ぼんやりと、感じることはできる。おまえほど、はっきりではないにせよな。――そうか、こりゃ、瘴気を吸ってるな。幽霊かなにか……だから俺にも、わずかに
沙耶は頷いて、村人たちがさ迷うのを見た。そのとき、村の奥の方から黒いもやが漂ってくるのを感じた。それこそは
「蓮二さん。お、奥にまだなにかが……」
沙耶は右手を持ち上げて、前方を指さした。
「仕方ねえ。行ってみるか。ッたく。厄介な場所にきちまったな」
「ええ……。なんとか、彼らを救い、浄めたいものです……」
そう云う蓮二は村の奥を見てから、ふと振り返ってきた。
「やれやれ。よけいなことに首を突っ込むなっての。――くそッ。おまえが
沙耶は答えに戸惑い、ええ、と唸った。
「そうですね。
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