紫燐ノ森 2

 蓮二は道行きの遠さにうんざりとしながら、息詰まるような緑の中を歩いていた。


 ふと、背後の沙耶の足音が止まったことに気づいて振り返る。すると、沙耶が山道の端にうずくまっていた。


「おい、なにやってる。置いてくぞ」


 そうは言ってみたものの、監視の役目を放って、置いて行けるわけがない。蓮二は舌打ちして足を止めた。


 沙耶は笠をとって横に立てると、咎人のような弁解がましい目で、


「石塔が、あったのです……」


 たしかに、沙耶のかたわらには苔むした小さな石塔が見えた。


 膝の高さほどのそれは、矢尻の先端を天に突き立てたような形をしていた。


 石塔の前面には白花紋らしきものが彫られており、文字の内側にも苔が張り付いていた。白花紋――それは花弁がそれぞれ八方に張り出した意匠であり、白ノ宮の巫女たちが奉る象徴でもある。


 とはいえその石塔は気持ちのよいものではなかった。数匹の蟻がつき、端々が欠けている。触れるだけで祟られでもしそうだ。



「その石塔がどうした」

「石塔の周りに、瘴気しょうきが、とどこおっておりますゆえ」


 沙耶はそう云って石塔に顔を向ける。


「なんだと」と蓮二は呼吸を整え、目を細めて石塔を見る。すると、薄墨のような暗い空気の層が、石塔や周囲の草むらを浸しているのが見えた。


「蓮二さんも、恐らくご覧になれるかと」

「たしかに、瘴気が妙に溜まってやがるな……」


 蓮二はそう答えて、まばたきをした。瘴気は視界からすうと消えた。――この観気ノ術は、銀狼衆に入ったおりにすぐ憶えたものだ。


「だからなんだ。放っておけ。益体やくたいもねェ」といささかきつめに云ったつもりだったが、まだ巫女は動かない。


 沙耶は目をつむって両手を合わせると、息を大きく吸い込んだ。すると、桃色の蕾のごとき唇を開き、実にゆったりとした抑揚で、吟じはじめたのだ。



 白花しろはなは 穢れし土へ根をはらむ

 花開きては 浄しなるかな



 巫女たちが『白花しろはな浄歌じょうか』と呼ぶものだ。


 沙耶は両手を石塔に伸ばすと、赤子でも抱くように手を当て、静かに目を閉じた。――はあ、と音をたてて息を吐いた。


 ついで、沙耶はわずかに顎を上げて、深く息を吸い込んだ。


 まるで、あたりの瘴気をすべて取り込もうとするかのように……。いや、蓮二はそれが、ではないことを知っていた。


 巫女の顔は雨に濡れた薄衣うすぎぬのごとく青黒く染まった。がくりと前方に崩れかけた。


 蓮二は思わず駆け寄りそうになるが、それをこらえる。


(ちッ。甘えられたら敵わねェ)


 代わりに目を細めて、また観気ノ術で気の流れを見る。


 ――先刻までひしめいていた瘴気の大半は消えていた。その代わりに沙耶の体は、黒い藻のような瘴気に取り囲まれていた。


 沙耶は屈み込んだまま、石塔から手を外した。こめかみに青筋を浮かべ、血の気の引いた朦朧もうろうたる表情でその目を閉じるに、両手を合わせた。そうしてまた、苦しげに唇を押し開けてうたうのだ。



 白花しろはなは 穢れし土へ根をはらむ

 花開きては 浄しなるかな



 ゆったりとした、よく通る声だった。


 巫女の声は森を鳴らす啼鳥ていちょう鳴蝉めいせんの声に似ていた。あるいは、枝葉を揺する山風に似ていた。



 沙耶の顔には徐々に血の気が戻っていった。尻もちをついて、額に流れる汗もそのままに、石塔の前で膝を抱えて座った。汗が木漏れ日に光った。


 沙耶は晴れやかな顔を振り向けてきて云った。


「お時間を取らせました……。申し訳ありません」


 蓮二は苦々しい表情で、


「ちっとも申し訳なさそうじゃねェだろ。それに」

「それに?」

「ああ。勝手にくたばるんじゃねェぞ。無茶をしやがって」

「――はい」

「はい、じゃねェ。俺はお前を生贄として、連れて行かなけりゃなんねェ。難儀な、クソみてえな役目だ。おまえが死んじまったら、俺の咎だ。わかってんのか?」


 沙耶は眉を寄せて、こくりとうなずいた。


「はい。ご迷惑をおかけします」

「ちッ。だからよ、その迷惑をかけるんじゃねえ、ってんだよ。俺は……」

「すみません」


 最後にそう云って、沙耶は立ち上がるに、緋袴についた草と土を払った。


「なぜだ」と蓮二は云う。「――どうして、そんな小汚ねェ石塔を、浄めた? おまえは……」


 沙耶は目も合わせずに、笠を直しながら、


「瘴気は、元々は想いでありますゆえ。――人や、あるいは人ならぬものたちの、浮かばれぬ想いが、溜まったものなのです。蓮二さんなら、知っておいでかと……。それを救うすべがありながら、捨て置く法は、ありませぬ」

「ふん。身を挺してでも、か」

「――わかりませぬ。けれど、内なる水奈弥みなやノ神は、こう申されます。浄めがたきを浄めよ、と。ゆえにそなたに、力を授けたのだ、と」

「けッ。ろくなもんじゃねェな、そいつは」

「おやめください……。そ、そのようなことを……」

「ああ? 厄介な宿命を背負わせた、疫病神だろ。そいつは」

「そんなことは、ありませぬ……」

「どうでもいい。まったく。行くぞ」


 蓮二は旅行李こうりを担ぎ直し、また歩き出した。ちらりと振り返ると、沙耶もついてきており、ため息をつく。



 しばらくゆくと、『此先このさき 下杉しもすぎ村』と書かれた木札が、老いて崩れかけた杉に打ち付けられていた。

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