承認欲求による自己の欠如について

うすしお

承認欲求による自己の欠如について

 今から綴られる物語は、何一つ中身のない男の人生のほんの一部である。

 人生というものは、たった少しの瞬間で人間を簡単に狂わせてくる。先ほど彼には中身がないといったが、唯一あるものとすれば、実に単純で俗的な感情である復讐心というものだろう。いや、これを復讐と呼ぶには、彼の見ている世界はあまりにも狭すぎる。彼を支配しているものは、難読な自己啓発書の文章のようなリズムで描かれた、あまりにも痛くてくだらない思考だ。読者は、どうかこのような文体で描かれる物語に、有意義なものだと思って読むほどの価値などないということを留意していただきたい。


 慣性によって揺れる人間の顔は、私にとってはとても不快なものにしか思えてならない。どのような生き方をすれば、そのようなしかめっ面で電車に乗ることができるのか。私は甚だ疑問だ。スマートフォンを横にしてテキパキと指を動かし、座席の端に重たそうな頭を預けている学生にも同じことを思う。その重そうな頭には、どうせ碌なものなど詰まっていないのであろう。

 そうやって人を見下すのは、学校の教室でも同じだ。クラスメイト達は「あいつとあいつが付き合ったらしい」とか「レポートを写させてくれ」とか、まるで決まった構文でもあるかのように、くだらない会話を今日も飽きずに続けている。

 対人関係など、時間の無駄である。私は常にそう思って毎日を生きている。私にとって、教科書に載っている数学の定理や物理法則といったものが何より一番大事なもので、それを受け入れるための脳を、対人関係というものは実にくだらない情報で圧迫させようとする。

 結局のところ、人間はその場で鼻高々に努力など不要にして調子に乗りたいのだ。勉強がうまくできない人間を嘲笑し、あの人はこんなことをしても不思議ではないとクラスメイトへの偏見を強め、周囲の人間の共感を含め笑いあうといった具合に、人間は、そういったやり方で『調子に乗りたい』のである。実に哀れだと、私は思う。

 いつだったか私も、そのように調子に乗られたことがある。中学一年生のころであろうか。私に告白をしてきた女の子がいたのだ。私はひとまず友達でいようと提案し、それから何日か経った。ある時、彼女は私の水筒を「とてもでかいよね、その水筒!」と馬鹿にしたことがあったのだ。もちろん、彼女にとってそれは、些細な出来事だったに違いない。しかし私は、表情にその気持ちが浮かび上がってしまうほどに憤っていた。「なぜそのようなどうでもいいところを、私は馬鹿にされなければならなかったのか」と、私はそう思った。

 それからというもの、私は家族などの言動にも怒りを覚えることが多くなった。母は「あなたはこういう子だからね」と私の欠点を実に愛らしそうに笑うことが多々あったのだ。母のそのような行動に、私は腹の底から湧き上がるタールのようなどす黒い感情を抑えきれずに、食器棚のガラスが割れてしまいそうなほどに激昂した。母は、「え、そんなことで怒るの?」というように、不思議な顔をしていた。その顔が、さらに私を激昂させた。

 私がそのような性格であったからであろう。私に告白をした女の子は、いつからか話しかけてこなくなった。

 その時、私は思ったのだ。それなら、だれにも笑われないような存在に、私がなればいいのだ。例えば、学校での成績が良くて、偏差値も高く、家庭でも厳かな人間であれば、誰からも『調子に乗られる』ことはなくなり、笑いものの対象から解脱できる。私はそう考えた。

 私は、いつか私を対象にして『調子に乗った』人たちを見返す。そのために大きな存在になると決意したのだ。


 多くの復讐物語を参照すると、主人公の復讐心が終盤になるにつれてなくなっていく、もしくはその復讐自体が意味のないものであると思い知る場合が多い。私はそれに対して「なんて決心が甘いのだろう」と思う。例えば私は、三日坊主という言葉が嫌いだ。人間の一貫性のなさを茶化すような風潮が、私の神経を逆撫でするのだ。だから私は、ずっと前に決意したことを、今もなお守り続けている。一貫性のない自分になんて価値はないのだ。

 放課後、私は学校の図書館の自習スペースで課題や問題集を進める。家に帰ってゲームなんかをして時間をつぶすクラスメイトを想像して、私は優越感に浸る。このような何気ない時間を使って勉強することで、周りとは簡単に差がつく。私は人を見返すことに人生をささげるのだ。常時、目を見開いている状態であれば、何かしら勉強をするのだ。私に滾る炎を消してはいけない。笑いものにされるぞ。私はそうやって、自分を追い込む。

 そうしていた時だった。同じく図書館に残っているクラスメイトの熊野が、私に話しかけてきた。

「ねー、レポートめっちゃだるくない?」

「そうだね。どれくらい進んだ?」

 気が進まないが、私は顔を上げて訊いた。彼とは実験の班が同じなのだ。

「えっとね、とりあえず考察のところまで進んだ。てか最近さ、結構真面目に将来のこと考えてんだけどさ」

「うん」

「俺さ、興味のある学問があってさ、そこを勉強するためにあの大学に入りたいなって思っててさ」

 熊野はそう言って、自分のやりたいことと目指す大学のことを私に具体的に話した。

「渡辺君はさ、なんか志望校とかあるん?」

「……」

 私は、答えに詰まった。レポートも、表紙のタイトルと共同実験者の欄くらいしか、埋められていなかった。


「そういえば最近大人しくなったよね。あんたが小さい頃、ちっちゃいことですぐ怒り出して」

 ある程度の自立心が確立すると、人は自分の見出した道を歩こうと決意する。それは全くもって当然のことであり、そこには涙を流して感慨を覚えるといったような、大それた価値を所有しているものとは考え難い。しかし、その道―例えばそれが人目に付かないけもの道のようなものであったとしよう―を歩く者に対して、草陰から見守るように、過去のことを引き出して厄介なうれし涙を流すものが存在する。そういった行為は、私が歩くべき道を確立する前、つまり私の過去を知っている者のみができることである。その「過去を知っている者」は、とても身近な例を挙げるならば、母親とか兄弟とか、そういった親族が該当するだろう。

 つまり私の母親は、私が小学生であったころの出来事をわざわざ引っ張り出して、「笑われる、いじられる対象から解脱するための努力」をしている私を軽々しく扱い、笑いものにする。

 学校の図書館から夜遅く帰ってきて、残った晩御飯を食べているときに、母はそうやって調子に乗って私を「笑った」のだ。言うまでもなくこれは私の目指す未来を狂わせるものであり、あってはならないことである。私は声に出して怒ろうとした。しかし、私は小学生の頃に母に激昂した時を思い出し、これでは私が今まで積み上げてきた人生を崩してしまうことと同義であると考え、やめた。

 心の中にあるタールのようなどす黒い感情は身体全体に離散し、私の心に太陽の黒点のようにぽつぽつと気味の悪い染みを作った。

「そんなこと、あったっけ」

 私は耐えきれずにそう返した。声に出してしまったのだ。声に出すという事は、私の意志や本音をダイレクトに伝えてしまうということ。

「あったわよ。覚えてないの? ほんとにあの頃は苦労したんだから」

 ジェンガというおもちゃがある。直方体の形状をしたブロックがビルのように積み重ねられ、ブロックを引き抜いてゆき、倒れるか倒れないか、そのスリルを楽しむ、馬鹿げたおもちゃだ。私が積み上げてきたものは、馬鹿馬鹿しいものであったか?

 今の自分は、昔の自分とは違う。私は昔の自分を見下し、自分の何もかもを変えてきたのだ。笑われない自分に着実に変化しているのだ。私の愚かな過去など、引き出す価値などないであろう。それなのに、何故親と言うものは愛着を持ったような目で私を笑うのだ。まったく、理解ができない。

 頭の中が、反発だらけで飽和する。私は、反発しかしていない。

 ただ何かが、静かに崩れ落ちてゆく。そのような気がしたのであった。


「渡辺君って歩くの遅いよね」

 朝、通学路の河川敷の堤防を歩いていると、熊野が後ろから私に話しかけてきた。熊野は、私のことをなんだと思っているのか。友達か。共同実験者か。単なる他人か。少なくとも私は熊野のことを友達だと思いたくない。ただの他人である。それでは、ただの他人に自分のどうでもよいところを笑われたらどのような気分になるのか、想像がつくであろう。私は「笑いものの対象から解脱する」ために、「いつか大きな存在になって私を笑ったものを見返す」ために、努力をしているのだから。

「ねえ、それ、言う必要ある?」

 私は熊野の方に振り向いて訊いた。日差しが、とんでもなく痛かった。

「え?」

「どうして、お前らは逐一僕のどうでもいいところを笑いたがるの?」

「は? 何言ってんだよ」

 まただ。また出た。その顔。何を言っているのかわからないという顔。そんなことを言われるとは思わなかったという顔。その顔をしたいのは、私だ。その顔をするべきなのは、私の方であるはずだ。

「人ってさ、どうして人間一人一人のキャラクターを固定してそれを軸にしていじり方を様々な方向に展開させたがるの? 例えばゲイの人間がいたとする。その人間がゲイだと分かったとたん『この人はゲイだからそれに沿って愛を持っていじって笑えばいい』と大勢の人はなる。しかしゲイの人間と区別されるなかでも様々な指向を持った者が存在する」

「は? いみわから……」

 息が、苦しい。

 私はただ、脳が私の思考から文字起こししたものを読み上げる。

「つまり人には一人一人に様々な属性が存在しててそれがその人をその人たらしめているわけなんだ。だから一つの属性を引き出しただけであっても一人の人間は必ず確立しないってこと分かる? つまり一つの属性を引き出してその人を笑う対象にするという事はその人間の尊厳を侵害しかねない行為であり推奨されるものではない。だがしかし友達という間柄には人を簡単にいじって笑うという文化が存在している。なぜだ? なぜおまえらは努力を不要にして人を笑いたがる? みすぼらしいと思わないのか? 自分で自分の価値を下げるなんて全くもって無益な行動だと思わないか? だから……」

「は。何言ってんの。おまえ。マジつまらん」

 熊野は瞼を下げていた。とても冷たい目をしていた。

「とりあえずさ、お前レポート終わってんの? その話したかったんだけど。もう考察見せてとか言われてもなんもせんよ?」

 レポートは、考察の手前までは進んでいた。

 ギラギラと水面に反射する朝日が、私を責め立てていた。


 私が急いで書いたレポートが受理される頃には、もう日が暮れていた。

 私は一人で、橋と堤防の交差点を渡ろうとしていた。その時だった。見覚えのある女子高校生が、見覚えのない男子高校生と腕を組んで、楽しそうに会話をしていた。

 私は、見覚えのある方の正体が分かったとき、やっと理解したのだ。様々な復讐物語に登場した主人公の復讐心は、なぜあんなにあっさりと消えていくのか。

 いつか私に告白をしてきた人間は、本当に幸せそうであった。

 きっと、私に告白をしたことなど、頭の片隅にも残っていないのであろう。私を笑ったときの言葉など、一言も覚えていないのであろう。私がしてきた努力など、この人は何も知らないのだろう。小学生の頃の私との記憶など、振り返って「そんなこともあったね」などと笑いものにするくらいのものでしかないのであろう。では、私は何のために努力をしてきた?

 こんなにあっさりと、馬鹿馬鹿しいジェンガは崩れてしまうものなのか。どうして私は、今までこのジェンガを無益だと一度も思わなかったのか。どうして、これほどの出来事で消火されてしまうような火を、私は滾らせてきたのか。

 何かに一点集中して突っ走る者には、細かいことを無視していることが多い。では、私は何を無視してきたか。そう。たとえば、熊野の言っていた進路のこと。私は進路のことを全く考えていない。熊野はどのようにして進路を考えていた? そうだ。熊野は学びたい学問があると言っていた。では、私には何か興味を持てる学問はあるか。私は必死にそれを探した。それっぽい名前だけが浮かび、それに対する偏見を持ち、消えてゆく。その学問を学びたいという意欲はどこから来るのか? 知識というものは社会を発展させるためにあるものだ。知識を得たいという自分はどこからくる? そのような自分は私にはあるのか? そもそも自分は、何のために努力をしてきた? 人を見返す。そうだ。人を見返すために努力をしてきたのだ。であれば、すべての私の行動原理は他人に依存しており、私から発せられる意欲など何も含まれていない。だったら、確固たる意志を持った私はどこにいる? 確立した自己はどこに存在する? ただ私は他人に褒められたかったのか? それだけのくだらない承認欲求で、それだけを動力源にして私は動いていたのか? いや、社会のために頑張りたいと思うことを他人由来の自己だとするなら、私はどのような分類に含まれる? それは私に一体何を及ぼす? 分からない。

 いったい私は、何を考えている?

 実にくだらない。

 私は、横断歩道の真ん中で膝から崩れ落ちる。笑い声が聞こえる。クラクションが私を急かす。アスファルトの凹凸が私を笑う。信号の光が私を見下す。もう、やめてくれ。

 私が積み重ねてきたものは、全て無駄だったと、今分かったのだから。

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