第9話 後悔
私は座ると慌てて栄美ちゃんに釈明する。
「ごめん! 急に怒っちゃって。その、栄美ちゃんの気持ちも分かるんだよ? でも私にも都合があって……。……怒鳴ってごめんなさい」
「……う、ぅん」
栄美ちゃんが見るからに怯えている。雰囲気が気まずい。謝ったって取り返しがつかない。今この瞬間にももう後悔が全身に溢れて身体が重くなっていた。
私は空気に耐えられなくなって観念した。
「分かったよ。日曜日も来る」
「えっ? 本当に? た、大変じゃないの?」
「頑張るよ。栄美ちゃんのために」
そう言っても栄美ちゃんはまだ怯えた表情のままだ。その時の私の顔はかなり暗くて不機嫌そうに見えたからなのかもしれない。
すると栄美ちゃんが首を横に振った。
「だっ、だっ大丈夫! 来なくても!」
「えっ? さっき耐えられないって───」
「晴香に嫌われるくらいなら我慢するから!」
栄美ちゃんの声は恐れに満ちていた。私に対する恐れだ。私は何を言うべきか迷って黙ってしまう。
栄美ちゃんは続けた。
「……なんならお見舞いにも来なくていいから」
「いや、そこまで言ってないよ? 土曜日には来れるんだからね」
「晴香に負担かけたくないの。来るのがきついなら、来なくていい。私我慢するよ。だからお願い、嫌わないで」
栄美ちゃんが途端に慎ましくなった。さっきまであんなに取り乱していたのに。この時に抱いた栄美ちゃんの印象は、まるで鞭打ちによって従順になった小犬のような感じ。
栄美ちゃんは俯いてボソボソと話す。
「晴香の負担にならないから。もう晴香に迷惑かけない。晴香の嫌がることなんてしない。晴香のお願いならそうする。私、晴香の嫌いになる人にならないから。だから晴香も私のこと嫌いにならないでよ。晴香にだけは嫌われたくないの。晴香にまで嫌われたら、私は───」
私は考えるよりも先に衝動的に立ち上がって、栄美ちゃんの右肩に私の手を添えた。抑えているつもりだった。
これが今の栄美ちゃんにどういう効果があるのか分からないけど、見ていられなかった……。こうでもしないと栄美ちゃんがどこかに行ってしまいそうだったから。
肩に触れた時、口を閉じた栄美ちゃんは私の腕に伝わるくらいぶるっと震えた。そして霞んだ瞳で私を見つめてくる。
私の目に映る栄美ちゃん。左肩から下は無く、精神はストレスとショックで極限まですり減っているのが、瞳の震えと表情から見て取れた。こんなにぼろぼろなのに甘えられるのは私にだけで……。そしてそれすらも遠慮してきた。栄美ちゃんは今、世界をどう見ているんだろう。
「大丈夫だから。私が栄美ちゃんのこと嫌いになるわけない。大丈夫だからね。大丈夫……」
しかし栄美ちゃんの顔にべったりと付いた不安は全く剥がれない。まだ怯えるように私を見ていた。
栄美ちゃんは覇気のない声で話し出す。
「でも私、怖いんだよ。気付いちゃったんだ。その……」
「…………何?」
「……なんでもない」
栄美ちゃんが私に合わせてた目を下に向けた。
私は悟った。私はさっきの怒鳴りで植え付けてしまったのだ。私がもしかしたら栄美ちゃんを嫌うかもしれない可能性を。
栄美ちゃんが、言いたいことを言わなかった。自由にものを言えない人間だと思われてしまった。栄美ちゃんの支えになると決心したのに。私は自分の不甲斐なさと愚かさに歯ぎしりした。
私はそこで栄美ちゃんの右肩から手を離した。
「そっか……。本当はさ、私だって栄美ちゃんに会いたいんだよ。だからその、むしろ来てもいいですかってお願いしたいくらいなんだから」
「……うん。ありがとう」
「じゃあその……、えっと……」
「……」
「…………あっ、そうだ! お勉強! お勉強しない? 今日の授業教えるよ」
「分かった。晴香がそうしたいならそうする」
「……うん。でも栄美ちゃんが嫌なら辞めるからね。遠慮なく言ってよ」
「大丈夫だよ。嫌なんて言わない」
「あーー……。じゃ、じゃあお勉強というか、私の復習に付き合ってもらおうかな。あははは……」
二月頃に決まった栄美ちゃんの退院までに私がお見舞いに訪れたのは四回。私が日曜日に来る話は栄美ちゃんに『晴香にストレスを溜めさせたくないから』と言われて結局無かったことになった。
そして土曜日のお見舞いは毎回、私も栄美ちゃんもどこかぎこちない会話が続いた。私たちはお互いに過剰に気を遣っていたように思う。幼なじみのはずなのに今さっき知り合ったかのような、探り合いの会話しかできなかった。
さらに栄美ちゃんにちょっとした変化もあった。感情を私に見せないようになったんだ。栄美ちゃんの気持ちが読み取りづらくて、そしてそれは意図的にそうしているんだということだけが伝わった。そんなに私が恐いのか、それとも他に理由があるかは分からないけど、私に感情を隠していた。
あぁ……。どうしてあんな事になってしまったんだろう。
どうして! 私はあんな事をしてしまったんだ! 不満が溜まってたから? だからって栄美ちゃんに怒鳴っていいことにならないのに! 栄美ちゃんは私の抱える不満なんてかわいいくらいの辛いことがあったんだから!
それをどうして私は!
あの時、考えられなかった……。
今思えば、栄美ちゃんにはたくさんの変化があったけど、私の方にも心の中で変化があったんだ。自分でも抑えが効かない感情が生まれていた。
でもだからって、私があんな態度を取っていい理由はない。栄美ちゃんとの関係が歪になったのは他でもない私のせいだ。
この関係は私が直さなきゃいけない。
これから先も気持ちよく栄美ちゃんと親友を続けていけるように。心置き無く話せる間柄に戻れるように。あの頃の元気な栄美ちゃんの姿を見られるように。
最後にお見舞いに行った日、退院日の一日前の土曜日に、病室から出る時に栄美ちゃんに言われたことがあった。……退院一日前なのに栄美ちゃんは未だ感情や言葉を抑え込んでいて、私は栄美ちゃんへの接し方が見つからなくて、会話が全然上手くできなくて、気まずいまま帰ろうとした時に言われたこと。
「あ、ちょっと待って」
「なに?」
「明日私の退院日なの知ってるよね?」
「もちろんだよ。ずっと楽しみにしてたんだから。病院以外でも栄美ちゃんと会えるの、すごく嬉しいよ!」
「……明日の夕方の六時、私の家に来て」
「えっ?」
「お願い」
その時の栄美ちゃんの態度にはどこか違和感があった。いつも大人しい彼女だけれどこの時の大人しさは、何か平常心を保とうとする雰囲気みたいなものがあった。大好物のご飯を前にして、食べたいけど我慢している時のような……。
どういう感情なのか良く分からなかったけど、私に『家に来て』というお願いをすることすらも抵抗を感じるようになったのかな。私たちの間にある溝は相当深いのかもしれない。
回想を終えた。私はベッドの上で目を開ける。
部屋の時計を見ると午後五時半。そろそろ栄美ちゃんの家に行かないといけない。親友として。
栄美ちゃんの家に言って、そこでちゃんと話し合いをして、仲直りするんだ。ちゃんと! 今度こそ栄美ちゃんと向き合うんだ!
もう一度栄美ちゃんに思考を巡らせる。
栄美ちゃんは……誰かにそばにいて欲しかったんだと思う。
中学生の頃、私に殺し屋だと明かしたのもそうだ。
夏休み中、殺しの任務に行くことだけを伝えに家に来たのもそうだ。
自分にはどうにもできない辛い運命を、心を開いた誰かに知ってほしくて、それで……。
きっと栄美ちゃんはただ知ってもらうだけで満足だったんだ。自分が嫌な運命の中で苦労していることを、信頼できる他人から認めてもらいたかった。苦労していることを誰にも知られない孤独感は私だって押しつぶされそうになる。栄美ちゃんの孤独感はきっと、苦労の分だけ私なんかより大きかったはずだし、誰かにそばにいて欲しかったんだ。
何より栄美ちゃんは、信頼できる他人に私を選んでくれた。それが何より嬉しい。
……あっ、家を出ないといけない時間だ。
「よしっ! やるぞ! 仲直りするぞー!」
身体を起こした私は部屋の中で大きめの独り言を呟いた。
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