第179話 帰り旅

一馬は、ビルの一室で静かに育てられている野菜に水をやりながら、ふとクレストンのことを思い出していました。ここで平穏な生活を送っている自分が、本当にこのままで良いのかという思いが、次第に彼の心に重くのしかかってきます。


クレストンの仲間たちは今どうしているのだろうか? 彼らもまた、彼がいなくなってからの日々を無事に過ごしているのか。それとも、彼の不在に不安を抱え、苦しんでいるのだろうか? 彼らの顔が次々と浮かんでは消えていく。フィールドで共に汗を流し、苦楽を分かち合ったあの仲間たちの存在が、急に遠く感じられるような気がした。


「俺はここでのんびりしていていいのか…?」と一馬は自問する。平和で穏やかなこの地での生活は、彼がずっと求めていたもののはずだ。それでも、胸の奥底に渦巻くこの不安感は、無視できるものではなかった。


特に彼の心を苛むのは、魔王軍の捕虜たちのことだ。彼らはクレストンに無事に受け入れられ、差別や不当な扱いを受けることなく、平等に生活を営んでいるのだろうか? 一馬の心には、彼らが抑圧されている光景が、まるで現実のように浮かび上がってきた。


「魔王軍の捕虜たちが差別されていないか、それだけが心配だ…」


一馬はビルの窓から外を見つめながら、心の中でそうつぶやいた。このエターナル・ホープでの生活が、自分の本来の使命から逃げているように感じ始めていた。地上に出て新たなコミュニティを築いてはいるが、そこにはまだ解決されていない問題や、背負ったままの責任が残っていることに気づいたのだ。


野菜の緑が、彼の視線の中でぼやけていく。彼の思いはすでにここではなく、遠くクレストンへと向かっていた。


一馬がクレストンへの思いに悩む姿を見ていたデニちゃんは、そっと彼に寄り添い、優しいけれども確信を持った口調で言いました。


「一馬、クレストンが気になるのか?」


デニちゃんの声には、心配と理解が入り混じった感情が込められていました。彼は一馬が心に抱えている葛藤を感じ取り、彼がどれだけ仲間のことを大切に思っているかも知っていたからです。一馬は一瞬デニちゃんの顔を見つめてから、ため息をつきながら答えました。


「うん、本当に俺はこのままここにいていいのかなって思うんだ。でも、どうしていいか分からない。ベルル人たちもいるし、出会ったばかりなのに放っておくのも…」


一馬の声には、迷いと重責に押しつぶされそうな心の揺らぎが見え隠れしていました。彼は心の中でクレストンとエターナル・ホープ、そしてベルル人たちの間で板挟みになっていたのです。デニちゃんは少し微笑んで、落ち着いた声で返しました。


「それはたぶん大丈夫だろう。事情を話せば、ベルル人たちだって理解してくれるさ。一馬、クレストンへ帰ろう」


その一言には、デニちゃんの強い意志と、一馬に対する信頼が込められていました。彼女は、彼が悩み続ける姿を見ているのが辛かったし、同時にクレストンへの帰還が彼にとって必要なことだと感じていたのです。


「デニちゃん…でも、帰り方が分からないじゃないか…」一馬はまだ不安げに言葉を漏らしました。


「それは、私たちをここに呼んだ魔術師たちなら何か知っているかもしれない。最初の場所へ戻ってみよう」


デニちゃんの言葉には確信がありました。彼は常に冷静で、直感的に物事を見通す力を持っている一方で、一馬が困難な状況に立たされた時は、彼を励まし支えてきました。今もその強さと優しさが一馬に伝わっていました。


一馬たちはベルル人たちにクレストンへ帰らなければならない事情を丁寧に説明しました。一馬は心の中で、彼らがどう思うか心配していました。彼がエターナル・ホープを去ることで、ベルル人たちの計画や新たな生活が滞るのではないかと。しかし、ベルル人の代表であるラヴィンドラは微笑みながら、一馬の心配を和らげるように言いました。


「私たちのことは、もう気にかけなくても大丈夫です。一馬殿、あなた方はすでに私たちに多くの知識と新しい始まりを与えてくれました。これからは、我々が自分たちの手で未来を築いていきます。安心して、クレストンへお戻りください。」


ラヴィンドラの言葉には、感謝と自信が満ちており、一馬もほっとした表情でうなずきました。ベルル人たちは、一馬たちの門出を心から祝福し、見送りました。


デニちゃんは、一馬の隣で真剣な表情を浮かべていました。彼もまた、クレストンへ戻る決意を固めていました。一馬たちは、エアライダーの準備を整え、旅立ちの時を迎えます。


「行こう、デニちゃん。」一馬が静かに呼びかけると、デニちゃんは誇らしげに首を伸ばし、羽を広げます。彼は飛ぶ準備ができていました。


エアライダーが空へと浮かび上がり、広がる大地を見下ろしながら、二人はエターナル・ホープを後にしました。風が頬を撫で、空はどこまでも続いています。


「最初の召喚の祭壇だよな?」一馬が確認すると、デニちゃんは「そうだ。あそこに戻れば、何かしらの手がかりが見つかるはずだ」と頷きました。


二人はエアライダーで風を切りながら、遠くに見える召喚の地を目指して進み続けました。


最初の祭壇に到着した一馬とデニちゃんを、かつて彼らを召喚した魔術師たちが出迎えました。彼らは深々と頭を下げ、「戻ってきてくださったのですね、勇者様」と尊敬の念を込めて挨拶しました。しかし、一馬の表情はどこか険しく、疑念に満ちたものでした。彼は単刀直入に問いかけます。


「単刀直入に聞くが、お前たちの言う『魔王』って、いったい何だ?」


魔術師たちは一瞬目を合わせ、少し緊張した様子で答えました。「それは、ガマル人の王ヴォグムルグのことです。彼こそが、この世界の脅威となる存在なのです。」


一馬は一呼吸置いて、さらに鋭い質問を投げかけました。「そうか…では、少し質問を変えるが、お前たちは何人の奴隷なんだ?」


その瞬間、魔術師たちは明らかに動揺し、体をビクッと震わせました。彼らの反応は、一馬が痛いところを突いたことを示していました。彼らは少し口ごもりながら答えます。「わ、我々は誰の奴隷でもありません。我々は、解放者です。」


一馬は冷静にそれを聞き流しながらも、鋭い洞察でさらに追及しました。「解放者ってことは、もともとは誰かの奴隷だったってことだろ。恐らく、魔術に長けていることからして、お前たちはザエン人の奴隷だったんじゃないか?」


魔術師たちは言葉を失い、一瞬の沈黙が辺りに広がりました。彼らの顔色が変わり、どう言葉を紡ぐべきか迷う様子が伺えました。ついに、一人の魔術師が震える声で言いました。「な、なぜそのことを知っているのですか…それはもう、2000年以上も前の話なのに…」


その言葉には、過去に深く隠された事実が潜んでいることが明らかになりました。一馬はその様子を見て、静かにうなずきながらも、さらに核心に迫る質問を続ける準備をしていました。


一馬が真剣な表情で質問をぶつけると、魔術師たちは少し動揺しながらも、自分たちの秘密を語り始めました。


「さ、さすがは勇者様ですね、そうです。私たちは悪しきザエン人を倒した者たちの末裔なのです。そして彼らから沢山の魔法や魔術を奪いました」と、魔術師の一人は緊張を隠せない声で答えます。彼らの言葉には、勝ち取った力への誇りと、その過程での不安が滲み出ていました。


しかし、一馬の鋭い視線はそれを許しません。「じゃあなんでその御大層な魔法でガマル人を倒しに行かない?お前ら、下剋上をやったときに不意打ちや毒殺をやったんだろう。正面から戦う力がないから他人任せになっている、違うか?」と冷静に問い詰めます。


その言葉に、魔術師たちは完全に気圧されました。彼らのリーダーは、まるで深く抉られたような表情で、震える声を絞り出しました。「う、うぅ…勇者様はなんでもお見通しだ。そうです。我々はザエン人に虐げられていました。ザエン人たちは、肌の白い色が美しい、奴隷たちの黄色い肌は醜い、と言って我々を差別し続けたのです。」彼の声には、深い怨念と、過去に受けた屈辱の記憶が込められていました。


「しかし、ザエン人たちはある日、ガマル人に敗北しました。大敗を喫したザエン人たちは王国に引きこもり、その後は攻めてくることがありませんでした。しかし、我々はこのままではザエン人を完全に滅ぼすことができない。だからこそ、我々は立ち上がり、彼らと戦って勝利したのです。しかし、どれだけ長い年月が経とうとも、我々の心には常に不安がありました。」


彼は一息つき、そして深い溜息をついて続けます。「あなた方には、どうかガマル人の魔王ヴォグムルグを倒し、世界を平和にしていただきたい…」


その言葉を聞きながら、一馬は冷静に考えを巡らせ、静かに言葉を返しました。「自分でやれ、と言いたいところだけど、俺も元の世界に帰りたい。協力はするが、じゃあ魔王を倒した証拠はどうすればいいんだ?」


魔術師たちは少し考えたあと、答えました。「彼らの王が代々受け継いできた魔剣を奪ってきてください。その剣は全ての魔法を打ち消す力を持つと言われています。それを持ち帰れば、我々はあなたを元の場所へお返しすることを約束します。」


一馬は深く頷きました。「わかった、じゃあ行ってくる。」彼は覚悟を決め、決断の顔つきでデニちゃんに目をやります。デニちゃんも静かにうなずき、祠を後にします。


デニちゃんが慎重に問いかけます。「一馬、本当に魔王を討伐する気か?」その言葉には、疑念と少しの不安がこもっていた。一馬は、そんなデニちゃんに少し笑みを浮かべ、肩をすくめながら答えました。「いや、勿論そんなことは考えていない。出来るなら剣のレプリカでも作って渡そうかと考えている。」


デニちゃんはその答えに納得したように軽くうなずく。「それは良い案だな。しかし、そもそも本物の剣を見ないとレプリカも作れないだろう?ガマル人がすんなり見せてくれるとは限らんが…」その言葉には、ガマル人がどれほど手強いか、武闘派としての彼らの性格を警戒している様子が現れていた。


「確かに。彼らは超絶武闘派民族っぽいし、素直に見せてくれるとは思えないな。でも、別に最初からすんなりいくとは思ってないさ。こっちはのんびり構えて長期戦でやるつもりだ。」一馬の声には、どこか冷静さとゆったりとした自信が漂っている。


彼は焦らず、状況を慎重に見極めながら進もうという意思を示している。デニちゃんもそれに共感し、少し笑みを浮かべた。「長期戦、か。お前らしいやり方だな、一馬。」どこか安心したように、エアライダーに乗るデニちゃんの羽が、ゆっくりと風に揺れた。


彼らは準備を整え、ガマル人の地へ向かうためにエアライダーのエンジンを始動させた。空は澄み渡り、目的地に向かう風が彼らを誘うように吹いていた。地平線の彼方に広がる未知の地に向かって、二人はゆったりと、しかし確かな決意を胸に進んでいった。

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異世界スローライフ農場、俺は本気で『スローライフ』をする 芸州天邪鬼久時 @koma2masao

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