第146話 小さなこと

魔王との激闘から、既に一年の歳月が流れた。かつて戦乱の渦中にあったザルバニア帝国は、領土を多少失いながらも、再び繁栄を取り戻しつつあった。かつての荒廃した風景は、今では緑豊かな大地となり、戦火に焼かれた街々も、再び人々の営みを取り戻していた。その中で、一馬は静かに日々を過ごしていた。


一馬は戦後、町長としての職務を全うし、町の復興に尽力した。しかし、その間、彼は称賛と非難の板挟みに悩まされた。魔王軍の敗残兵に土地を与えたことが、彼にとっては正義の行いであったが、それを理解しない者たちからは厳しい批判が寄せられた。それでも、彼は毅然として自らの信念を貫いた。そして、町長としての役目を果たし終えた後、彼は静かな生活を望み、町長職を辞任した。


彼が選んだ新しい居場所は、ウェインフィールドの小さな村だった。かつての喧騒から遠く離れたこの地で、一馬は自らの心を休めることを選んだ。町長を辞したことで、彼は自由の身となった。周囲からは「ニート」とも揶揄されるが、実際には彼の退職金が潤沢であり、生活には何の不自由もなかった。


それでも、一馬はただ黙って日々を過ごしているわけではなかった。彼は、自分の力を小さな人助けに費やしていたのだ。毎日、彼は村の隅々まで足を運び、ささやかながらも多くの人々に手を差し伸べていた。その助けは、誰にも気づかれないような小さなものであったが、それが積み重なることで、村全体に大きな恩恵をもたらしていた。


例えば、彼は早朝のひととき、村の広場にある古びたベンチを修繕した。誰にも告げることなく、ひっそりと釘を打ち直し、剥げたペンキを塗り直す。そのベンチに腰掛けた老人たちは、心地よい座り心地に驚き、誰が手を加えたのかと不思議がるが、結局はそのまま新しいベンチを享受することになった。


また、彼は村の外れに住む老夫婦のために、薪を割り、冬支度を手伝うこともあった。彼らが目を覚ます前に、既に割られた薪の山が玄関前に積まれているのを見て、老夫婦は感謝の念を抱くが、それが一馬の手によるものだとは知らない。


市場の日には、彼はこっそりと貧しい家庭に新鮮な果物や野菜を届ける。彼が農夫たちから直接買い付けたその品々は、貧しい家族の食卓を潤し、彼らの生活を少しでも楽にする。誰にも悟られないように、いつも自分の顔を隠し、さりげなく品物を届ける一馬の行動は、まさに見えざる手のように村人たちの生活を支えていた。


ある日、一馬は村の子供たちのために、川辺の木陰に小さな遊具を作り上げた。何も告げずに、ただ静かに木材を集め、昼間の誰もいない時間にそれを組み立てる。次の日、子供たちがその新しい遊び場に歓声を上げる姿を遠くから見つめる一馬の心には、温かな満足感が広がっていた。


彼の助けは、まさに目に見えない慈悲の行為であった。それは、自らの力を誇示することなく、ただ人々の生活を少しでも楽にするための、静かな善行であった。人々に感謝されることもなく、ただ黙々と続けられるその行いは、一馬自身の心をも救っていたのだ。


そうした小さな善意の積み重ねは、やがて村の誰もが気づかぬうちに、大きな波となって広がっていった。彼が助けた人々は、次第に他者への思いやりを持つようになり、それがまた村全体に温かなつながりをもたらしていた。一馬は、自らの静かな生活の中で、こうした小さな奇跡が起こるのを見守りながら、日々を過ごしていた。


その背中に、かつての戦士の影はもうない。今や彼は、ただ静かに村の一部として生きる、穏やかな一人の男となっていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る