第2話 あかね

 その三人が、このスナックに来るようになったのは、ママの話でいけば、

「皆、同じくらいに来るようになったわね」

 ということであった。

 しかも、

「三人が、単独でくるということは、あまりないのよ」

 というのを聞いて、三人とも、

「そういえば、いつも誰かいたような気がしたな」

 といまさらながらに考えるという感じであった。

 それを大迫は、素直に喜んでいた。若いだけあって、柔軟な考え方だといえるのではないだろうか。

 坂口は、

「俺が、会いたいと思うから会えるんだ」

 という、どこか自信過剰なところがあった。

 そうでもなければ、平然と、

「不倫を繰り返す」

 というようなこともないだろう。

 ちなみに、奥さんが浮気をしているということも分かっている。お互いに分かったうえで、何も言わず、ある意味、

「夫婦生活を、演じている」

 といってもいいだろう。

 その気持ちは、

「結婚してから、分かったことだった」

 ということであり、

「結婚は、人生の墓場だ」

 という人がいたが、その思いに逆らう気持ちになっていたのだ。

 ただ、他の人とその考えは違っていた。

 他の人であれば、

「結婚は、墓場などではなく、本当に楽しいものだ」

 という能天気な考えの人がほとんどなのだろうが、坂口は、

「結婚してみないと分からないことを知ることができるのだから、それこそ、結婚くらい、一度はしてみればいい」

 というような考えを持つことができるのだが、それは、

「人生をあくまで、自分の都合よく生きることができる」

 という考えが下になっているのではないか?

 ということであった。

「そもそも、結婚というものには、目に見えない結界のようなものが、存在しているのだろう」

 と思っていたのだが、実際には、本当に見えてこないのだった、

 それは、

「気配も感じない」

 ということであり、

「何かあるのであれば、気配くらいは感じられるはずだ」

 と考えていた。

 だから、

「俺にとって、結婚というものは、人生の分岐点を、客観的に見れるというものであり、そのこと自体に意味はない」

 とすら考えていて、

「離婚などいくらでもすればいいんだ」

 というくらいに考えていたのだ。

 もっとも、今の時代は、バツイチなど、別に珍しくもない。

「転職するのと、何が違うというのだ」

 ということで、

「転職であれば、キャリアアップ」

 ということになるが、なぜ、結婚でも同じことが言えないのだろう?

 と不思議に思う、坂口であった。

 坂口の話では、

「結婚なんて、面白くはない」

 といっていた。

 最初は、

「この人は、聖人君子ではないか?」

 と思っていたほとんどの人たちは、数回会えば、

「あの考えは間違いだった」

 と、みんなが感じるだろう。

 というのも、

「熱い人間だと思っていたけど、どうも、冷静沈着な性格なのではないか?」

 と思えてきた。

 最初に、

「熱い人間だ」

 と感じたのは、

「勧善懲悪な性格」

 というところが、前面に出ていたからなのかも知れない。

 だが、えてして勧善懲悪な人間ほど、その性格というのは、結構、冷酷な性格なのかも知れないと思った。

「いや、それよりも、熱い性格の裏に、冷戦沈着さが隠れている」

 あるいは、

「冷静沈着な裏に、熱い気持ちが見え隠れする」

 ということなのかも知れない。

 それを、見え隠れさせているところが、どこかあざとさのようなものを感じさせるところが、殿山とは違うところであった。

 坂口は、実は殿山が苦手だった。

「嫌いだ」

 といってもいいだろう。

 しかし、そのことを他の人に感じさせることは嫌だった。

 それは、殿山が、

「聖人君子」

 に見えるからで、そう見える以上、

「俺が、殿山に追い越すはおろか、追い付くことすら、できない」

 ということになるのだ。

 それを、坂口は、自分でもそのことを

「認めたくない」

 という思いだけではなく、

「まわりにも感じさせたくない」

 という思いにまで至るのだった。

 殿山という男が、

「少し、鬱陶しいな」

 というのは、実は、大迫も感じていた。

「大迫だから」

 というわけではなく、大学生ということなのか、それとも若さゆえ、ということんいなるのか、

「殿山さんは、やっぱり、昭和の人間なんだ」

 ということであろう。

 坂口から見ても、そう感じるのだから、大迫からすれば、まるで化石のような存在といえるのではないだろうか?

 それを考えると、

「三人は、友達ということであるが、それ以上でも、それ以下でもない」

 という、

「典型的な友達」

 といってもいいだろうと、店の女の子は感じていた。

 ここの店の女の子は、3人いる。

 その中で一番多く会うのが、

「あかね」

 という女の子だった。

 三人がここで出会うのは、それぞれのルーティンにおいて、ちょうど会う時間ということなので、それぞれに、

「曜日のルーティン」

 というものがあるということで、

「いつも決まった曜日だ」

 といってもいいだろう。

 あかねは、近くの女子大生ということで、

「授業のカリキュラム」

 さらには、

「他の女の子との都合」

 ということから、ほぼほぼ曜日が決まっているということなのだから。

「あかねの確立が高くなる」

 というのは当たり前だった。

「このお店には、あかねちゃん以外女の子はいないのか?」

 という皮肉を平気でいうのが、坂口だった。

 皆常連ということで、ギリギリセーフという状態の皮肉というものが、うまく笑いのツボを押さえているということで、それが、

「坂口という男の最大の魅力だ」

 といってもいいかも知れない。

 ただ、それは、

「気心知れた相手」

 というだけでしかないわけなので、坂口のことを、陰で、

「井の中の蛙」

 といっている人も若干名いるようだった。

 もちろん、本人が知るわけもなく、相変わらず、

「周りから慕われている」

 と思っていた。

 さすがに、

「慕われている」

 というところは、

「こんなにもおこがましいのか?」

 と感じることではあったが、仲間内はひいき目に見ることもあって、

「自信過剰も悪いことではないしな」

 と思うのだった。

 なるほど、坂口以外の面々を見れば、皆控えめな性格だといってもいいが、

「少々、自信過剰であっても、それなりの成果を出す」

 という、坂口のようなタイプの人間がいるに越したことはない。

 と思っている。

 それは、

「その人が、まわりを引っ張っていく」

 ということからも言えるのではないだろうか。

「皆が引っ込み思案であれば、話題が出てきたとしても、そこから先に進むことはない」

 という、

「これが一番困る」

 ということであった。

 あかねは、それを踏まえても、

「坂口が苦手だ」

 と思っていた。

 それは、

「生理的に苦手だ」

 という意識があり、女の子のほとんどが、

「カエルが嫌いだ」

 という意識であった。

 そんな風に思っていると、あかねは、

「前世は、ナメクジだったのかも?」

 という気持ち悪い発想をした。

 それでも、

「カエルよりもマシか?」

 と考えるのだが、それは、

「三すくみ」

 の話を思い出すからであった。

 三すくみというと、カエルが出てくるではないか。

 どこから始まってもいいのだが、三匹が、それぞれに、

「一方向に働く力の均衡」

 というものである。

 ここで出てくる三匹というのは、

「ヘビ」

「カエル」

「ナメクジ」

 というものであった。

 それぞれに生き物である場合と、生き物ではない場合とでは、力関係は同じでも、その背景は少し違ったものとなるのだった。

 というのも、

「生物ではないもののたとえ」

 ということで出てくるのが、じゃんけんである。

 じゃんけんは、

「グーはパーに負けるが、チョキには勝つ」

「パーは直には負けるが、グーには勝つ」

 ということで、結果的に、

「チョキは、グーに負けるが、パーには勝つ」

 という、一種の

「三段論法のようなものだ」

 ということである。

「基本的に、三段論法というのは、それぞれに、三つのものがあり、A=Bであり、B=?であれば、A=Cだ:

 という、等号による、

「三段論法」

 である。

 しかし、こちらの、

「三すくみ」

 というのは、同じ三段論法であるのだが、その力関係が、一方向に向かって、円を描く形で、循環することで、

「半永久的に流動的なものだ」

 ということになるのだった。

 その三すくみというものを動物で考えたのが、

「ヘビ」

「カエル」

「ナメクジ」

 というものが、基本的な例とするものであるが、これは、

「ヘビはカエルを食べるが、ナメクジに溶かされてしまう」

「カエルは、ナメクジを食べるが、ヘビに食われてしまう」

「ナメクジは、ヘビを溶かすが、カエルに食べられてしまう」

 ということになるのだ。

 一つの密室の中に、この三匹を閉じ込めれば、どうなるだろう?」

 基本的には、三匹はまったく動けなくなってしまう。動物というものは、それぞれに自分の天敵というものを、本能で分かっているのか、遺伝子によって、組み込まれたものが、動かないようにされてしまうのか。どっちにしても、

「三すくみには逆らうことはできない」

 ということになるのだった。

 三すくみというのは、

「当事者になる」 

のと、まわりから、

「第三者として見ている」

 のとでは、まるっきり感覚が違うものではないだろうか?

 そもそも、密閉されたところで状態というのは、

「閉所恐怖症」

 というものが、人間にもあるのだから、他の動物にもあって、しかるべきと言えないだろうか?

 それを考えると、動物には、人間が感じている、

「高所恐怖症」

 であったり、

「暗所恐怖症」

 というそれぞれ三つがあることになるので、

「まさか、この三つも、それぞれに、三すくみ、あるいは、三つ巴の関係といえるものになるのではないか?」

 とも考えられると思うのだった。

 そもそも、三すくみというものは、

「一定の方向に力が加わることで、力の均衡を保つ」

 ということを定義するものである。

 だから。密閉されたところに、それぞれの天敵を置くと、まず、どちらを気にすることになるのだろう?

 自分のお腹が減っていれば、どうしても、餌の方に視線がいくことだろう。

 しかし、自分を狙っている相手も同じで、こっちを見ているはずだ。その視線を痛いほどに感じると、その相手を凝視するのは怖いので、恐る恐る横目で見るくらいしかできないが、

「心の目では、完全に相手を凝視している」

 といってもいいだろう。

 カエルであれば、それこそ、

「ガマの油」

 というものが、身体の奥から滲み出てくることになるだろう。

 それを思うと、

「三すくみ」

 という中での、

「ナメクジ」

 ということを考えれば、

「カエルは怖いが、ヘビは怖くない」

 ということになる。

 それは、女性としては、どうなのだろう?

 しかし、この三すくみを歌舞伎などで描いた作品があったが、

「ヘビとカエルは男性だ」

 ということであるが、ナメクジは、

「綱手姫」

 というお姫様である。

 それを思えば、

「ヘビが好きだ」

 といって、ヘビをペットにしている人の中に、

「女性が多い」

 と感じるのは、気のせいではないかも知れない。

 もちろん、巨大で、毒がなくとも、力が強いヘビというわけにはいかないが、

「にょろにょろ」

 といった表現で代弁されるようなヘビであれば、それくらいは、普通にありではないだろうか。

 ヘビの中には、

「耽美主義といってもいい」

 というくらいのきれいな種類もいる。

 それは、

「気持ち悪いというよりも、どこか、妖艶な雰囲気を醸し出す。女性というものの、本質を見ることができる」

 というものではないかと感じるのであった。

 あかねは、自分の家で、ヘビを飼っていた。

「かわいがっているつもりなんだけど、どうもなついてくれていないような気がするのよね」

 といっていたが、自分でも、

「前世がナメクジだったのではないか?」

 と感じるくらいなので、ヘビに怖がられるというのは、当たり前のことであろう。

 それを考えると、逆に、

「ナメクジが自分の前世」

 と感じたのは、

「元々がヘビが好きなのだが、そのヘビに、怖がられている」

 という意識を、子供の頃から持っていて、それが三すくみの話というものを聞くことで、

「前世がナメクジだった」

 という発想は、

「帰納法」

 と呼ばれるものから、来たのではないか?

 と考えることもできるだろう。

「逆も真なり」

 という言葉があるが、これは、その状況からだけではなく、理屈から考えて。そう思えることであっても、いえることではないだろうか?

 考え方が、逆になったとしても、それが、いかに理屈に合いさえすれば、

「それが、真実だ」

 といえるのではないだろうか?

「事実というのは、一つしかないが、真実は、決して一つではない」

 と思っている。

 テレビのアニメなどで、

「真実は一つ」

 といっているのを聞いて。子供心に、

「なんでなの?」

 と、あかなは感じていた。

 あかえんという女性は、

「私は、嫌いな人は徹底的に嫌いになるタイプだから」

 とよく友達に言っていたが、これは裏を返すと、

「好きになった人は、徹底的に好きになる」

 ということになるのではないだろうか。

 と、今まで、あかねのまわりの人は皆、あかねをそういう目で見てきて、その周りから、

「あれは勘違いだった」

 と感じる人が、

「一人もいなかった」

 ということで、証明されたかのようだった。

 あかねは、だから、

「あまり人を好きになることはしないでおこう」

 と思っていた。

 人を好きになると、

「誰かを困らせることになるかも知れない」

 と感じるのだった。

 だから、中学、高校生という、思春期には、

「なるべく、おとなしくしていよう」

 と思っていたのだ。

 だが、それは、自分だけではなく、まわりの女の子もそうだった

 そして驚いたことに、

「彼女たちの性格は、まるで今の私と同じことを考えているような性格なんじゃないかしら?」

 と感じた。

 どうしてそれが分かったのかというと、

「性格が似通っているから分かるというものだ」

 ということであり、

「少しでも、相性や性格が合わないと思えば、相手のことを分かるわけもない」

 と考えたからであった。

 だから、性格の合う合わないというのは、

「相手が異性、同性で、同じものだ」

 と以前は思っていたが、いつ頃からなのだろうか?

「明らかに違う」

 と思うようになった。

「異性を意識するという、人間でいうところの思春期というものは、他の動物にはあるのだろうか?」

 と考えた。

「他の動物には、発情期というものがあって、その動物によって、その状態が違う」

 といってもいいだろう。

「特に、年がら年中発情期」

 という動物もいれば、

「季節によって決まっている」

 という動物もいる。

「要するに、動物というのは、本能で動いているので、その目的は一つしかなく、子孫繁栄しかない」

 ということであろう。

 ただ、これは人間にとっても同じことである。基本的には、

「子孫繁栄」

 というものから始まっているが、これが聖書などになれば、

「恥じらいという感情を覚えたことで、まわりを意識するようになる」

 というのが、

「禁断の果実」

 を口にしたイブが、急に恥ずかしがる素振りを示したことで、聖書では、

「人間の最初の感情は、恥じらいなのではないか?」

 といえるのではないだろうか?

 しかし、これが、ギリシャ神話となるが、少し事情が違ってくる。

「男女が最初からいて、聖書に出てくる、アダムとイブ、日本における古事記に出てくる、

いざなぎイザナミのようなものとは違う」

 というのがギリシャ神話であった。

 ギリシャ神話では、

「最初から人間界に女性がいたわけではない」

 と言われている。

 であれば、人類は誰から生まれたのか?」

 ということになるのだが、それはさておき、ギリシャ神話においては、

「人類最初の女性というのは、パンドーラである」

 ということである。

 このパンドーラと呼ばれる女性は、

「パンドラの匣」

 といえば、分かる人もいるだろうが、

「決して開けてはいけない」

 という、

「見るなのタブー」

 と呼ばれる、一種の、おとぎ話や神話にはよくあるパターンである、その

「パンドラの匣」

 を開けてしまったことで、

「人間世界に、不幸が蔓延し、その中で、箱の最後に残ったのが、希望だった」

 というような話であった。

 そもそもの話としては、

「万能の神」

 であるゼウスが、

「人間に、火を与えてはいけない。人間のような連中に与えると、ろくなことにはならない」

 と言ったにもかかわらず、

「プロメテウス」

 という男が与えてしまった。

 ゼウスが怒り、プロメテウスには

「死ぬよりもつらい罰」

 というものを、そして人間界には、

「人類最初の女性」

 と言われる、

「不幸を与えるために生まれた」

 という、

「パンドラという女性」

 を、人間界に、箱を持たせて、放ったのである。

 それが、人類最初の女性である、パンドラということであったが、ギリシャ神話では、

「神が遣わした人間に対しての、罰を与えるために道具だ」

 ということであったのだ。

 ただ、このパンドラに、感情があったのかどうかまでは分からないが、聖書における

「イブ」

 という、聖書における

「世界最初の女性」

 は、

「禁断の果実をかじった」

 ということで、恥じらいという感情を持った。

 これが、

「動物にはない、感情というものの、原点ではないか?」

 ということになるのであろう。

 そんな、あかねだったが、

「今まで、結構な男性を好きになったことが、実はあった」

 しかし、だからといって、告白できるようなわけでもなく、最初には、

「一気に盛り上がる」

 という感じであるが、徐々に、気持ちがダウンしていき、

「それまでの気持ちがどこから来たのかすら、分からなくなる」

 といってもいいだろう。

 要するに、

「熱しやすく冷めやすい」

 という性格なのであった。

 熱しやすく冷めやすいという意味でいけば、なぜか、あかねは、

「金属を想像する」

 ということであった。

 確かに、熱しやすいところはあるが、本当に冷めやすいのかというと、どうもそうではないという感覚が残るのであった。

 そして、

「どうして、金属を思い浮かべるのか?」

 というと、それは、

「刀鍛冶」

 というものを思い浮かべるからだった。

 刀を火の中に入れて、そこで、ハンマーで打つというのが、刀鍛冶というもので、

「鉄は熱いうちに打て」

 と言われるゆえんということである。

「鉄は熱いうちに打つほど、効果がある」

 ということであろうか、似たようなものは、この世にはたくさんあるのかも知れない。

 何かをする時、あるいは、

「利用する」

 という時、それぞれに、タイミングというものがある。

 そのタイミングがうまくいけば、それだけで、

「成功だ」

 といえるもので、もし、少しでもタイミングを間違えると、

「二度と、思い通りになるということはない」

 と、いえるかも知れない。

 そういう意味で、あかねという女性は、

「自分は、たい民後を合わせるのが、苦手なのかも知れない」

 と思っていた。

 しかし、そのタイミングを合わせるというのは、何も、同じことだけではない。

 恋愛もそうであろうし、人とのコミュニケーションにしてもその通りだ。

 何かをするのに、人とタイミングを合わせなければうまくいかないということは、結構あったりする。

「スポーツ」

 であったり、極論として、

「政治工作」

 などというのもそうだ。

 それを考えた時、

「何かが始まった時、すでに、答えは出ている」

 というようなことをいう人がいるが、それだけ、

「下準備」

 であったり、

「根回し」

 というものが、

「うまくいっている」

 ということになるのであろう。

 それも一つのタイミングというもので、そもそも、

「タイミングを合わせるために、下準備であったり、リサーチや、演習というものが不可欠だ」

 といえるのではないだろうか?

 あかねは、そのあたりのことは結構分かっていて、彼女自身も、性格的に、連星沈着なのではないかと思えるのだった。

 あかねが好きになったのは、大迫だった。

「年齢が近い」

 ということで、最初から、気にはなっていたのだが、大迫を気になり始めたのは、

「余計なことを言わない」

 ということであった。

 喫茶店などにいると、中年くらいになると、相手が嫌がっているのを見て楽しむという、一種の、

「悪趣味な男性」

 というのは、どこにでもいるというものだ。

 学校や、会社の仲間などであれば、

「セクハラ」

 といって、注意もできるのだが、あかねの立場で、

「お客さんには、そんなこと言えないし」

 と思っていた。

 しかも、それを言うのが、常連に近いくらいの人たちで、実際に常連になってしまうと、そんなことを口にはしないだろう。

「しようものなら、せっかく通ってきて常連になったのに、自分から振り出しに戻すようなものだ」

 ということになってしまう。

 だから、本来なら、

「中途半端な常連くらいの人が一番気を付けなければいけないのだろうが、そこまでくればさすがに、ママが黙っていない」

「今度そんなことを言ったら、出禁にするよ」

 と半分、冗談めかしているが、目は決して笑っているわけではない。

 むしろ、

「目は座っていて、相手を威喝するような態度である」

 といえるだろう。

 そうなると、

「ママさんにシャッポを脱ぐ「

 か、あるいは、

「出禁になる覚悟で、途中までやったのならと、自分お意志を貫くか?」

 ということのどちらかになるだろう。

 ただ、この店では、これらのようなことは、結構あったようで、

「常連になるために、通らなければいけない道」

 という人もいた。

 実は、

「あかねという女の子は、そういうセクハラまがいの冗談を言いたくなるタイプの女の子なんだ」

 ということのようだった。

 ママさんは、さすがに、これだけの事例の多いことから、ウスウス感じているようだったが、だからといって、許すわけにもいかない。

 平然と、真面目な顔をして客をたしなめるということができるのは、

「場数を踏んでいるからに違いない」

 といっても過言ではないだろう。

 それを考えると、

「ママさんと、あかねは、いいコンビなのかも知れないな」

 という風に思える。

 ママさんも、

「あかねちゃんは、今までいてくれた女の子の中でも、客のことが分かっている女の子なんだけど、ちょっと真面目過ぎるところがあるので、そこは、気を付けてあげないと」

 といっていたのだ。

「本気になるということもないし、怒りを抑えられないというタイプではないんだけど、どこか、自分の中に押さえ込んでしまうところがあるから。それがストレスとなって、襲い掛かってくる」

 ということが

「なきにしもあらず」

 ということである。

 そんな中で、

「あかねが、大迫のことを気にしている」

というのは、ママには分かっていた。

 だが、他の男性陣、大迫本人を含めて、その自覚はないようだった。

「やっぱり女の勘ってすごいんだ」

 と感じるのだった。

 あかねがこの店に入ってきてから、そろそろ半年くらいであろうか?

 こじんまりとした店ということもあって、女の子は、基本三人で回していた。

 近くに女子大があることもあって、アルバイトの女の子は、女子大生が多かった。

 普通に働ける期間というと、

「大体、2,3年というところであろう」

 と言われている、

「三年生になったら、専門分野の講義であったり、実践的な研修や、ゼミなどがあり、そちらが忙しくなり」

 というものであった。

 あかねも、

「保育科」

 ということで、昔の保母さんになる道を目指していたようだ。

「どうして、保母さんを目指したか?」

 というと、

「親せきのおばさんが、以前、保母さんをしていたということだったが、そのおばさんが、他の親せきの人に比べても、ダントツで優しかったのだ」

 ということと、

「自分が、保育園にいっている時の先生が、とてもやさしく、もう少しで、孤立しそうになっているのを、子供心に察した時、その先生が、いつも私を守ってくれたのよ」

 といっていたが、まさにその通りのようだ。

 時々、ママさんと開店準備をしている時、

「どう、学校の方は?」

 とママさんが気を利かせて聞いてくれた時など、ちょうど、話したいと思っていることがある時で、

「それがママさん。聞いてくださいよ」

 という雰囲気で、まるで、

「近所のママ友のような雰囲気」

 といってもいいくらいだった。

 もちろん、ママさんは、そんなことを分かっていて聞いているのだろうから、あかねも、

「遠慮する必要なんかない」

 と思っているのだ。

 ママさんにも、親せきの女の子がいて。

「その子も、保育士を目指しているのよ」

 ということだったので、あかねとすれば、

「ママさんが、あの時の保母さんを思わせる気がするわ」

 ということで、

「この店でよかった」

 といつも感じていた。 

 店の客層は、正直、

「いい帆とばかり:

 とは言えない。

 何といっても、

「酒を飲ませる店」

 だということだから、しかも、酔った状態で、目の前に女の子がいるのだから、それは当然のごとく、

「いやな客」

 というのがいないという方が、おかしいくらだといえるのではないだろうか?

「私は、そこまで嫌な客はいないけどね」

 と他の女の子はいっていたが、その子の場合は、特別で、結構、

「歯にものを着せぬ」

 という言い方をするのだ。

 だから、客が圧倒されるくらいになるのだが、それでも、文句を言われることがないのは、その女の子が、それだけしっかりしているからなのか、それとも、ママさんの目が光っているからなのか分からない。

 ただ、ママさんの目力は相当なもので、お客さんも、それを承知で来ているのだから、それだけ、馴染みになると、強いのかも知れない。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る