三人三様

森本 晃次

第1話 スナックの客

この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和5年10月時点のものです。とにかく、このお話は、すべてがフィクションです。疑わしいことも含んでいますが、それをウソか本当かというのを考えるのは、読者の自由となります。


 駅を降りてから、駅前の商店街を抜けてから、急に暗くなり、ちょっといけば、住宅街の近く、そんなあたりにあるスナックを、

「場末のスナック」

 といってもいいのだろうか?

 昔であれば、

「表におねえちゃんが、立っている」

 と言われるような薄暗いところであるが、最近は、そこに昔からあるスナックに、結構人が入っているようだった。

 スナック「モエ」

 というのだが、今では見られなくなったスナックで、それこそ、

「昭和の頃だったら、ちょっといけば、こんなスナック、どこにでもあった」

 というくらいであった。

 前は、

「カラオケ」

 などというのもなく、さらに前であれば、

「ギターの流し」

 などという人もいて、

「一曲いくら」

 という形で、客のリクエストで、曲を弾くというのは、場末のスナックなどでは、当たり前にあったことだった。

 その一曲が、いくらだったのか?今では覚えていない。

 というよりも、覚えている人が高齢化してしまい、ほとんど、スナックに来ることもなくなった。

 もし来たとしても、

「そうなぇ、確かにあったよね。だけど、いくらだったのかなんて、覚えているもんじゃないよ」

 というくらいに、曖昧なものだった。

 というのも、人によって値段も違うし、毎回毎回、流しが来たからといって、弾いてもらうというわけでもなかった。

 ただ。中には、

「知り合いになった人」

 というのもいて、当時であれば、

「石原裕次郎とかいいよな」

 とか言いながら、女性とデュエットしたりしている客も結構いた。

 スナックというと、その頃は、

「一人の客も結構いたようで、ただ、それは、

「珍しい方だった」

 という話を聞かされたりしている。

「カラオケ」

 というのが流行り出したのは、昭和の末期くらいだっただろうか。次第に、音響設備が整ってきて、スナックでも、

「11時までならできる」

 というようになってきた。

 スナック経営などは、他の風俗店、遊技場、飲み屋などと同じで、

「風営法」

 というもので守られている。

 それぞれに業種ごとに、営業時間も違えば、法律も違っている、業種が増えるほどに、それもたくさん増えてくる、

 しかも、業種だけでなく、地域、つまりは、都道府県という、自治体単位で、それぞれの業種のやり方が違っているということで、風俗営業法が、実は、

「最終法規」

 ということではないのだ。

 というのも、風俗、遊戯関係を取り締まる法律というのは、あくまでも、基準であって、最終的には、地域制に任せられるので、最終決定法規としては、

 都道府県が定める、

「条例」

 というものなのだ。

 これは、タクシー料金などもそうではないだろうか?

 普通の人は、タクシーの初乗り料金を、すべて一律に決まっていると思っている人が多いようだが、実は、決まってはいないのだ。

 それも、条例だと思うが、

「基本的な幅」

 というものがあり、

「その幅の範囲内で独自に決めていい」

 ということになっているのだ。

 それが、法律によって、定められたことであるが、これも、それぞれの地域にあるであろう、

「タクシー協会」

 のようなものに入っていると、その範囲内で決めることになる。

 しかし、入っていなければ、常識外でなければ、

「いくらでも釜穴井」

 といってもいい。

「初乗り、大体550円くらい」

 というのが、タクシー協会の定めるもので、上下50円未満というのが、そのふり幅だといってもいいだろう。

 しかし、タクシー会社によっては、300円台というところもあるくらいで、

「常識では考えられない値段だ」

 というところもある。

「300円台」

 というと、まだ、20世紀だった頃ではないだろうか?

 ちょうど、それくらいの値段の頃、スナックというと、こういう店が多かった。当時は、まだ学生だった頃だったので、そんなにお金を使えるわけではなかったが、気になる女の子がいたので、月に、数回はお店に行っていたものだった。

 大学時代に、アルバイトをしても、お金を使うとすれば、

「旅行に出かける」

 というくらいしか趣味というものがなかった。

 旅行に行くといっても、当時の学生には人気だった、

「ユースホステル」

 に泊まり、移動も、各駅停車を使うことが多かったので、そんなにお金を使うこともなかったのだ。

「各駅停車を使っての、ユース泊り」

 というと、

「最初から予定を立てておく」

 などということはなかった。

 どちらかというと、

「現地で知り合った人に、明日行く場所を聞いて、今回いった場所でなければ、そこのユースに連絡を入れて、翌日の宿泊を決める」

 ということをしていた、

 さすがに、夏休みなどといっても、

「一人旅の人間が宿泊できないほど、客が多い」

 というわけではない。

 だから、宿泊場所をわざわざ決めておくこともないということで、気楽なものだったのだ。

 ユースホステルというところは、

「若者の宿泊施設」

 といってもいいだろう。

 もちろん、老人でも宿泊できないなどということはなく、それは、

「国鉄時代」

 から発行された、

「青春18きっぷ」

 というものがあったが、これは別に、

「18歳しか使えない」

 というわけではないのだ。

 こちらも、老人でも、小学生でも使えるのであって、きっと、

「青春というと、18歳というイメージからの、ただの命名」

 ということではないだろうか?

 今の若い人たちに、

「国鉄」

 などといっても、誰も分からないだろう。

「そう、今でいうJR」

 のことであり、当時は、

「日本国有鉄道」

 ということで、それこそ、国が経営しているという、

「国営企業」

 だったのだ。

 ただ、当時の経営のひっ迫からか、累積赤字が、まるで、ハイパーインフレでもあるかのごとく膨れ上がり、民間に払い下げるしかなくなったのだった。

 だが、政府も、他の国営を民営化したいということもあり、昭和末期に、

「民営化」

 というものが実現したのだ。

「日本で1企業だった国鉄を、地域ごとに会社を作るという民営化で、JR九州、JR西日本などと、それぞれに会社での運営となった」

 のであった。

 当時の国鉄職員は、全国で使えるフリーパスを持っていた。

「そんなことしているから、累積赤字が減らないんだ」

 と言われ続け、やっと、民営化にこぎつけたということであろう。

 今のJRは、やっていることは国鉄と同じで。さらに営利を目的にしているのだから、下手をすれば、

「国鉄よりもひどい企業だ」

 といってもいいだろう。

 実際に、その累積赤字がどうなったのかなどということは分からないが、

「経営がひっ迫しているのか、それとも、

「客を無視した営業」

 をしているのか分からないが、

「体制は昔の儘で、さらに、営利を求めている」

 ということで、

「身内に甘く、他人に厳しい」

 という、まるで、どこかの政党のようなところに、成り下がっているといってもいいだろう。

 それを考えると、

「そもそも、日本の国というのが、半永久的に返せない借金を持っているので、民営化などしても、しょせんは手遅れ」

 といってもいいだろう。

 特に、

「経済が落ち着いてくるかと思いきや、そのたびにいろいろあって、結局、また、元の木阿弥とでもいうことになってしまうのだろう」

 特に、最近では、

「世界的なパンデミック」

 というものが起こったことで、

「人の命か、経済か?」

 ということで、日本政府の中途半端な政策が結果として、ろくなことにならず、

「有事の際には、支持率がたいていは上がるのに」

 と言われる状態で、世界的に、

「支持率が下がった国が少しだけあったのだが、その国は、日本以外では、かなりひどい政策をとったということで、世界的にも叩かれている国ばかりだったのだ」

 ということは、

「日本も、当然のことながら、相当ひどいことを言われていたのだろう」

 といえる、

「日本政府が報道規制をしているのか、知らぬは身内ばかりなりという状況だったに違いない」

 といえるだろう。

 そんな時代において、日本政府は、

「どこまで国民に寄り添っていたか?」

 ということを考えると、

「なるほど、国民に対して、強くはいえない」

 という状況で、かなりいら立っていたかも知れない。

 しいていえば、

「日本という民族性」

 ということで、意外と政府のいうことを聞く国だったのが、よかったのかも知れない」

 ただ、これは、

「日本政府にとって」

 ということであり、日本人というのが、基本的に、

「平和ボケ」

 をしているということで、幸か不幸か、

「おとなしい民族性だ」

 ということなのだろう。

 そのせいもあってか、最初こそ、いろいろしたがってきた国民も、次第に政府のやり方に疑問を呈してくると、反対も多くなってきた。

 2,3年が経ち、少しずつウイルスの正体が分かってきたというのもあるだろうが、そんな時に、政府がオリンピックを強行したのだ。

 国民の8割近くが、延期、もしくは、中止」

 といっていたものを、政府は、民主主義の原則である、

「多数決」

 というものを破り、結局、国民は、何もできず、政府に従うしかなかったのだ。

 この瞬間だけ、

「立憲君主」

 とでもいうかのような、戦時中を思わせる政府となっていたのかも知れない。

 その日、スナックにいた客は、最初三人だけだった。その三人というのは、

「大迫」

「坂口」

「殿山」

 の三人だった。

 三人は皆同じタイプの人間でもないし、性格が似通っているわけでもない。さらに、年齢も近いというわけではないので、

「まったく違うタイプの人間でも、馬が合う」

 ということなのだろう。

 大迫というのは、三人の中で一番若く、まだ大学生だった。

 坂口は、30代くらいであるが、皆の中では、

「一番しっかりしている」

 といってもいいだろう。

 なぜなら、彼だけが結婚していて、最近には珍しく、昭和気質なところがあるのだった。

 とは言っても、

「頑固おやじ」

 という雰囲気ではなく、

「男というのは、30歳くらいで結婚して、子供を作って」

 などという人生設計がしっかりしていた。

 しかも、

「勧善懲悪」

 なところがあり、前述の、

「世界的なパンデミック」

 というものが起こった時、

「自粛警察」

 と言われた。

「皆が、頑張って、宣言を守っているのに、それに違反している連中を取り締まる」

 というような雰囲気に感じられたのだった。

 実際に、街の飲み屋街で、

「宣言中に、店を閉店している間に、空き巣が入る」

 という、まさに、言葉通りの、

「火事場泥棒的」

 な連中が多かったので、店の経営者たちが、夜間などの暗くて人通りが少ない時のパトロールに、自ら志願して、一緒に警備にあたっていたくらいだったのだ。

「いつも、飲みにいって、気分転換をさせてくれる店が潰れては俺たちも困る」

 とは言っていたが、

「なかなか店の経営に直接関係のない人ができることではない」

 ということであった。

 しかも、その意見を、

「奥さんも賛成している」

 というではないか。

「うちの奥さんも、勧善懲悪なところがあるからね」

 というと、

「じゃあ、そのあたりがお互いに、惹きあったというところじゃないのかな?」

 と言われ、

「そうかも知れないですね」

 と、口ではそういっているが、その態度は微妙だった。

「肯定しているわけでもなく、かといって、否定しているわけでもない」

 ということで、

「っじゃ、うちも、見回ってもらおうかしら?」

 と、スナック「モエ」の、

「萌絵ママ」

 も冗談めかして話をしていたが、冗談に聞こえないのが、このご時世。

 さすがに、坂口も、

「ちょっとね」

 といって、丁重に断っていたが、大迫には、

「その気持ちがよくわかる」

 と思っていたのだ。

「この辺りでは、たくさんで見回るのも大変だし、かといって、相手が何を持っているか分からないので、一人だと危ない」

 と考えたからであろう。

 そんな警備隊を結成した時、

「自分も」

 というのは、なかなかのことであった。

 何といっても、

「世界的なパンデミック」

 により、世の中が、恐怖のどん底にある時期だったからだ。

 そんな時期において、自分から、

「警備に出る」

 などと言い出すのは、

「勇気からなのか、無謀なところがあり、その時、坂口は、誰にも言わなかったが、実は失恋した後」

 ということだったのだ。

「ちょっと待て? 確か既婚者では?」

 ということになるのだが、それはもちろん、言われることであった。

 彼が既婚者であることは、誰もが分かっていた。

 それは、自分から、

「既婚者だ」

 ということを宣伝していたからだ。

 それは、あくまでも、

「既婚者だといっておけば、不倫をしても、それをごまかすことができる」

 と考えていた。

 彼は、そういう意味で、

「したたかな性格だ」

 といってもいいだろう。

 しかし、それだけに、性格的には、計算高く、頭がいいのかも知れないが、その計算が狂った時、どうしていいのか分からなくなる。

 今回の

「自粛警察への入隊」

 というのも、

「一人で考え込んでいれば、ろくなことを考えない」

 と思ったからだ。

 実際に、ただでさえ、

「緊急事態宣言」

 というものが出されている時、外出はおとか、出社すらできない。

 以前であれば、

「会社に行くのも億劫だよな」

 と、毎日の判で押したような性格は、鬱陶しさしかなかったのだ。

 毎年、夏休みには、家族旅行というのが、恒例だったが、これも、家族への、

「いい夫アピール」

 というものであり、そのたびに、

「自分の本性とのギャップ」

 というものに、苦しんでいたといってもいい。

「家庭環境は、まあまあいい」

 と思っていた。

「嫁さんは、まだまだ新婚だと思っているだろうな」

 というもの、まだ結婚してから、一年とちょっとくらいである。

「それなのに、不倫相手がいる」

 というのは、実は、

「結婚前から、二股をかけていた」

 という、ある意味、ゲスな男で、

「女の敵」

 といってもいいかも知れない。

 だからこそ、余計に、

「もう一人の自分を、いかに、自分の本性として、表に出さなければいけない」

 ということに繋がるのだった。

 もっといえば、

「いい加減、二重人格性の片方をひた隠しにするのも疲れた」

 ということである。

 そもそも、

「嫁さんと結婚する気になった、その時の自分の心境が分からない」

 と思っていた。

「結婚するということが、どんな心境なのか、味わってみたかった」

 という気持ちがあったのは分かっているが、それ以外にも何かを感じたはずだったが、覚えていない。

 しかし、

「結婚というもの。してみたいと考えただけで、そう簡単に踏み切ることなどできるわけもない」

 といえるだろう。

 その時、自分の中で、

「二股をかけているのに、疲れた」

 という思いがあったに違いない。

 結婚するということが、どういうことなのか、正直自分でも分からなかった。だから、

「してみたい」

 と思ったのだろうが、実際に結婚してみると、

「なんだ、ただ一緒にいるというだけではないか」

 と感じた。

「もっと、いろいろ責任がのしかかってくるものなのだろう」

 と思っていたが、

「実際に、のしかかっているのかも知れないが、そんな自覚はない」

 としか思えなかった。

 それは、新妻が、

「それだけ、旦那に、気を遣わせないという性格だったからだ」

 というだけのことで、それに甘えるかどうかは、旦那の裁量に掛かっていた。

 どうやら、坂口という男は、それを素直に、額面通りに受け取るところがあり、それだけ、

「自分に都合よく解釈する」

 ということで、それだけ、

「約得な性格だ」

 といえるのではないだろうか。

 そんな坂口だったが、別れた女とは、もう会ってもいない。

 最初は、

「これですっきりするのではないか?」

 と二股に対して、疲れを感じてきたことで、簡単に付き合っている相手を、切るくらいなので、あまり、まわりに気を遣う性格でもなかったのだ。

 しかし、それでも、坂口のまわりに、女性が寄ってくる。それも、恋愛目的に寄ってくるのだった。

「俺のどこがいいというのだろう?」

 まわりに女が寄ってくるということも分かっていながら、その理由を分かりかねている。それだけ、

「女というものが、よく分からない」

 と思っているのも、彼の本性だった。

 だから、今回も、不倫相手を、簡単に突き放すことができたので、ある意味、

「円満に別れることができた」

 といえるだろう。

 相手の女も、

「私も気楽に他の人と恋愛ができる」

 といっていた。

 普通なら、

「男にフラれた時の、言い訳のように思えるのだろう」

 のだが、その女からすれば、

「これくらいのことは、言い訳でもなんでもない」

 といえるのだろう。

 自分では、

「女をフッたと思っているが、実際には、普通に別れただけだった」

 というのが事実だった。

 だから、本当であれば、

「うしろめたさ」

 など、感じる必要などないのにも関わらず、坂口は、後ろめたさのようなものを感じていた。

「彼女に悪いことをしたな」

 と思っていたが、実際には、彼女の方も、同じように、二股をかけていたので、

「お互い様」

 ということだった。

 そうでなければ、

「付き合っている相手が、結婚する」

 と言った時、平気でいられるわけなどないだろう。

 ということになるのだ。

 もし、それを感じていなかったとすれば、

「この男は、どれだけ、自分に甘いんだ」

 ということになる。

 まるで、頭の中が、

「お花畑だ」

 といってもいいのか、それとも、

「本当に自分のことだけしか考えられない人なのか?」

 ということになるだろう。

 坂口という男は、その両方を持ち合わせているので。その性格は、どうしようもないところだといってもいいだろう。

 坂口が、

「不倫をしていた」

 ということを知っているのは、二人だけだった。

 というのも、

「坂口が自分の口から、白状した」

 ということであって、あくまでも、

「少なくとも二人だけ」

 といえるのであって、近くにいる人が、坂口の素振りからそのことを知ったかどうかは、この際関係ないことであった。

 坂口が話をした相手というのは、その日に集まった、前述の、大迫という大学生と、もう一人、殿山という、少し年配の男であった。

 彼は、年齢的には、

「中年を超えていて、そろそろ、初老と言われるくらいの年齢だ」

 と本人は言っていた。

 そう、年齢的には40代後半であり、

「俺は、そんな年齢になるまで、結婚もしたことがない」

 といって笑っていた。

「もちろん、今までに結婚してみたいと思ったこともあったけど、結婚したいと思う人が現れなかっただけだからね」

 といっていたが、それが本心なのか、どうなのか、坂口には分からなかった。

 ましてや、大迫くらいのまだ大学生であればなおのこと、分かるはずもなかったといってもいいだろう。

「大学生には、きっと分からないというのは、もちろんだが、それよりも、坂口という男にはもっと分からないだろうな」

 と思っていた。

 殿山という男、自分では、

「俺は、よくも悪くも普通の人間だ」

 と思っていたが、実際には、まわりからは、

「聖人君子のような人」

 ということで、それなりに、尊敬のまなざしのような目で見られていたといっても過言ではないだろう。

 聖人君子などという言葉は、結構いい言葉だといってもいいだろう、ただ、当の本人である殿山は、その言葉で言われるのは、あまり好きではなかったのだ。

「俺って、この年になるまで、ずっと一人だったからな」

 と、この二人のように、

「馴染みの店で時々会って、話をする」

 という程度の友達がいたが、それ以上の、親友などといえる相手はいなかったのだ。

 だから、殿山は、彼らを、

「友達というよりも、仲間だ」

 と思っていたようだ。

「友達と仲間」

 という言葉であれば、

「友達の方が、仲が深いように思えるが、実は、仲間という方が深いような気がする」

 と思っていた。

 というのは、

「仲間という方が、趣味趣向が一致していることでの一緒の行動」

 ということになり、

「友達というと、それを含めたところで、広義の意味と解釈でき。ある意味、漠然として見えてくるものだ」

 といってもいいだろう。

 だから、他の人がどう思うかは分からないが、殿山とすれば、

「友達というよりも、仲間といえるような人をたくさん作りたい」

 と思っていた。

 しかし、

「仲間というのは、趣味趣向でつながっている場合が多く、その仲というのは、自分の中の、孤独というものと、関係のないところではないだろうか」

 つまりは、

「仲間がいても、孤独な時は孤独だし、仲間がいなくても、孤独でないこともある」

 だから、

「孤独だった」

 といっても、寂しかったかどうかというのとは、結びつく考えではなかったといってもいいだろう。

 そういう意味で、

「仲間ではない友達」

 というものは、結構少なかったかも知れない。

 そもそも、

「仲間の中に、友達がいる」

 あるいは、

「友達の中に、仲間がいる」

 という考えは、

「ほとんどなかった」

 といってもいい。

 だから、

「友達と、仲間というのは、根本的に違うものだ」

 といえるのではないだろうか。

 確かに、

「友達がほしい」

 という感覚と、

「仲間が欲しい」

 と思う時の感覚は違っているものであり、

「仲間が多い時に、友達を増やしたい」

 という考えはなかった。

「仲間と充実した生活が送れているのであれば、友達のようなものがほしいとは思わない。そう感じるのは、友達を億劫だと思うからだろう」

 と考えるのだが、それは、

「日ごろから、友達を億劫だ」

 と思っているわけではなく、あくまでも、

「仲間が十分な時に、友達の存在が億劫だと思うだけで、ある意味、仲間の中に、友達がいるということはあり得ない」

 という考えの裏返しだといってもいいだろう。

 それを考えると、

「億劫なことに、自ら飛び込んでいく必要もないのに、仲間の中には、友達が別にほしいと思っている人が結構いるように見えるのは、どうしてなのだろうか?」

 と、考えるのであった。

 そんな、殿山だが、

「だからこそ、聖人君子に見えるのだろうか?」

 と感じるのであった。

 この三人は、それぞれに、

「三人三様の面白さ」

 というものがある。

 そんなことを、三人とも思っているという共通点はあるが、それ以外に、少なくとも、外見上は、

「まったく違っている」

 といえるのであった。


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