第22話 影遁
「ルノ、あんたもっとはやく
あたしはパードナーに向かって怒鳴ってやった。
しかし、当のルノは反省した様子もなく2本指を立てる。それを両眼にあてがう。目からビームを出すように180度見回すジェスチャーをした。
「え? 様子を見てたって? このバカニンジャ!」
言いながらあたしはフラつく。当たり前だ。冷凍トマトの魔球によって腹部に風穴を空けられてしまっているのだ。黒いフリルの青い日傘を杖にする。何とか持ちこたえようとするが石突きが氷上でズルッと滑る。体勢を崩したあたしをすかさずルノが支えてくれた。
別に礼は言わない。それくらい当たり前のことだから。
昔からあたしの影のようにルノはそこにいる。
代わりにあたしは言う。
「ブラッド、プリーズ」
あたしに肩を貸しながら、ルノはこくりと頷いた。
あたしはルノと向かい合う。両肩に手を置いて左首筋の黒装束をビリビリと破いた。その下には処女雪のような白い肌。そしてふたつの穴。あたしの犬歯の歯形に合っている。いわば、あたし専用の吸血痕だ。人目のつく場所での吸血はマナー違反なので、緊急手段として日傘を差した。ルノと向かい合って相合い傘をするかたちだ。
「吸うわよ」
いちおう断って、あたしはルノの首筋を
ルノはいつも通りのノーリアクション。不感症でつまらない男ね。
ともあれ、濃厚な液体があたしの体内に入ってくる。こればっかりはやめられない。人間の生の血を飲んでいる瞬間こそ、ヴァンパイアとして生きている実感がある。みるみるうちにあたしの腹部の風穴は塞がっていく。
「プハァ! デリシャス!」
あたしは吸血をやめて口許を手の甲で拭った。
「見せつけてくれますね~」
舌なめずりをするキョクヤ。
ライカンはヴァンパイアや人間を食べるのかしら?
あの鋭い牙を見るかぎり、仮に食べないと言われても説得力はないわよね。
「たとえふたりに増えたところで戦況は動きませんよ」
キョクヤは言いながら、キョロキョロと目を泳がせてあたりを見回す。
「どうやら気づいたようね。というよりは気づかなくなったといったほうがいいかしら」
「…………」
「あんた、ルノを見失ったんでしょ」
「ククク。面妖な忍術ですか」
「別に、忍術ってほどのもんじゃないけどね」
あたしは答える。
「言うなればサクライ家独自の特異体質ってとこかしら。一族みんな影が薄いのよ。陰気くさいでしょ?」
「影が薄い忍者の一族ですか」
「そう。なぜ彼らが吸血忍者と呼ばれるかわかる?」
「勉強不足で存じませんね」
「まあ知らなくて当然よね。歴史の影に葬られた一族なんだから」
いわくつきだった一族をクリスマス家が迎え入れたに過ぎない。
「要するにね、サクライ家の人間は体内の血が少なくなればなるほど影が薄くなるの。その昔、吸血忍者はあえて自分を傷つけて血を抜いた。それは影を薄くして戦闘を有利に進める為よ。そんな影隠れの里に隠れていた彼らとクリスマス家は交渉して従者につけた」
一族でいえば、クリスマス家はたくさんの血縁者がいる。のべ千人を超える。ヴァンパイアの中でも一大勢力を築けるほどだ。サクライ家の吸血忍者を雇えるのはクリスマス家でも序列が上のほうということになる。
ヴァンパイアが子供を産むには権力や財力や政財界への影響力は必要不可欠なのだ。人間と違ってポンポン子供をなすことはできない。最悪の場合、簡単に堕ろされる。母体は死ぬことはないのだから。
「その影隠れの里のなかでも群を抜いて影が薄いのよ、ルノは。普段から息を殺して足音を殺して、自分を殺して生きている。そしてこれからもクリスマス家の影に隠れて生きていくの」
正直、あたしの視界だけでなく意識からもルノは消失しかけていた。気を抜くと、この場にいたことすら忘れそうになる。今頃、キョクヤも見失っていることだろう。
しかし、そんなしたり顔のあたしをキョクヤは白い目で見ていた。それから尖った爪であたしの足下を指差した。誘導されるようにあたしはそちらを窺う。なんとそこにはルノが倒れ込んでいるではないか。しかもその目の下には青いクマができている。
「まあ! さすがに血を吸い過ぎちゃったかしら。アリスメリーったら悪い子!」
あたしは小首を傾げて自分で自分の頭を小突く。戦場にはなんとも空寒い空気が流れた。
あたしが凍ったように固まっているとボンッと氷上に横たわっていたルノの体が煙を上げて消えた。代わりに桜の丸太になっている。その忍術にあたしは見覚えがあった。
「『桜変わり身の術』」
つまり本体は別の場所に移動している。
とそこで、キョクヤの腕の皮膚が前触れもなく裂けた。勢いよく血が噴き出す。
「――ッ!?」
キョクヤは目を見開いて傷口を検分する。
「どう? 切られたことすら気づかなかったでしょ?」
「ククク。誠に陰湿ですね」
キョクヤは自身の血を舐めて怪しく笑った。そして問う。
「人は物が見えるから信じるのか、信じるから物が見えるのか。どっちだと思いますか?」
「はあ? 物がそこにあるから信じるに決まってんでしょ?」
「であれば、視えない心は信じませんか?」
「ハート自体は見えずとも行動は見えるわ。だからあたしは言葉だけで行動しない奴は大っ嫌いなの。たとえば、ライアーばかり吐くライカンとかね」
「これまたずいぶんと好かれたものですね」
「そういうとこよ」
皮肉屋。嘘つき。嫌味。要するにひねくれているのだ。
あたしはスケートマトリンクに落ちた桜の花びらを拾い上げる。視線を滑らせるとルノを見つけた。キョクヤのすぐ後方にいた。ルノはキョクヤの背中にクナイを突き立てようと腕を振り上げた――まさにそのとき、キョクヤはくるりと反転してルノの影に紛れた攻撃を受け止める。ギリリとクナイと鋭い爪がつばぜり合った。
「そんなバカな」
「人狼の動体視力を舐めないでいただきたい」
呆気にとられるあたしにキョクヤは言う。
「自然界では保護色や擬態は当たり前。見つかったものから獲物となり死んでいく厳しい世界です。野生を忘れてしまったあなたがたとは違い、第六感が人狼には備わっているのですよ」
「嘘つき」
「はい?」
とぼけたように丸眼鏡を押し上げるキョクヤ。
「嘘つきとは?」
「あんたはあたしの目の動きを見て、ルノを見つけたんでしょ。それをよくもまあペラペラとあることないこと言っちゃって恥ずかしい」
「バレました?」
「これだからライカンは信用ならないのよ。ラブラッドと国交を結んでいなくて正解だわっ!」
そう吐き捨ててから、あたしはスケートマトリンクを蹴って滑り出した。キョクヤとつばぜり合ったルノを援護する。閉じた青い日傘でキョクヤの背後から襲いかかった。
「パッツンパッツンの燕尾服ね! ダサいのよ!」
しかしその次の瞬間、キョクヤはルノのクナイをいなす。ルノの黒装束の襟を掴み、引き込んだ。そのまま後ろにでんぐり返ししながら片足をルノの腹部に当てて後方に投げ飛ばした。体重差のあるルノは簡単に宙を舞う。投げられたルノはあたしめがけて飛んできた。
「こっちくんな!」
あたしはルノをキャッチしたがふたりとも倒れてしまった。氷上をズザザーッと滑る。しかもあたしが下敷きになって。
いや、別にヴァンパイアだから傷はすぐ治るんだけどね。でも妙に納得いかないんですけど。
「ルノ、どきなさい」
ルノは右手の人差し指と親指で自身の眉間を摘まむ。その右手で手刀を切った。『ごめんなさい』と手話で謝ってから手を差しだす。そのパードナーの手を掴んであたしは立ち上がった。
そこをすかさず、キョクヤはジャンプしながら拳を振りかぶった。あたしとルノはすぐさま二手に分かれてかわす。キョクヤの拳はあたしたちを空振りして氷上を叩き割る。蜘蛛の巣状に氷が割れた。
「相変わらずの馬鹿力ね」
言い捨てて、あたしは滑りながらキョクヤと距離を取る。キョクヤは明らかにルノを警戒していた。あたしの視線を確認しながらルノを視認している。あたしの視線のせいでルノの居場所が敵にバレてしまっていた。あたしはただのレーダーに等しい。
「完全に足を引っ張っているのはあたしじゃない、もう」
主人なのに情けない。目を閉じればルノの所在はわからないかもしれないがあたしの命はないだろう。戦場で目を閉じるなんて自殺行為だ。
とそこで、ルノは戦術を変える。まず左手の人差し指を立てる。それを右手の人差し指、中指、薬指の3本で掴んだ。次にパンッと、両手を合わせる。
ここまでで『影』と『遁』という意味。
それから両手のひらの内側に向けて、5本指を交互にして組む。外側がサメの歯のようにギザギザになるかたちで『黒』を作る。次に左手の人差し指を立てて右手の3本指で掴む。もう一度『影』を作った。
キョクヤは訝しむようにルノの一挙手一投足を観察していた。
「あれは……手話ですか?」
「バカね。あれは手話じゃなくて印結びよ」
「……印、ですか」
「そうよ。まあバカアニマルには手話と印の区別なんてつかないでしょうけどね」
「実に業腹ですね」
しかしルノの場合、天才すぎて自分でオリジナルの印を作ってしまうので解読は難しい。印を結ぶのもおそろしく速いしね。同じく天才のあたしじゃなきゃ見逃しちゃうわ。
最後にルノは両手の人差し指を立てる。左手は相手側を向くように前方に出す。右手は自分側を向くように左手の人差し指の後ろに構える。そして右の人差し指を徐々に横に移動させた。
あたしはそれらの印を繋げて通訳する。
「『
瞬間、キョクヤの背後の足下に伸びた影が立ち上がる。真後ろに陣取った人狼の影法師がキョクヤを羽交い締めにした。
「こうもあっさりと背後を取られるとは……一生の不覚です」
キョクヤは振りほどこうとするも暖簾に腕押し。子供の頃、誰しもが試したことがあるように自分の影から逃げることなど不可能である。あたしも試したから間違いない。
「ついでに教えとくわ」
あたしは言う。
「その影は血と反応すると黒色火薬よりも大きな爆発を引き起こすのよ。いわゆる影火薬ね」
「
キョクヤは必死にもがくが影法師の拘束は解けない。
その間にルノは吸血痕から垂れる血をクナイの先端に塗りつけた。そしてキョクヤの背中の影法師に向かって血の付着したクナイを投擲する。クナイの刃先が影法師に刺さった。
その次の瞬間、トマト噴水広場を揺らすほどの大爆発が起こった。
苛烈な爆風によって、あたしはトリプルアクセルに失敗したときのように氷上を滑る。背骨と氷のつぶてがこすれてゴリゴリと音が鳴った。ダイヤモンドダストが宙に舞う。しかし、見蕩れている暇はなかった。あたしは顔を上げると、背筋に悪寒が走る。
黒煙の中に大きな人影が立っているのが見えた。
「生憎とわたくしは爆風よりも速く走れるんですよ」
黒煙が晴れて見知ったライカンのしたり顔がのぞいた。
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