第16話 ブラッドスワン
一滴の血が滴り落ちる。足下のトマトの海に着水した。
その次の瞬間、トマトの海にパキパキと霜が降りる。瞬時に凍った。さらに氷は広がり噴水広場全体を凍てつかせた。まるで噴水広場自体が巨大な冷凍庫である。
吐き出した息が白くなる。ちょうど水時計が作動して現在時刻を表示する。そのトマト色の数字は11時45分を表示して凍ってしまった。冷気は時間をも凍らせるほどに冷たい。
徐々に浸食する氷結がキョクヤの足下に迫る。
しかし、キョクヤはヒョイッとジャンプすると氷の波を簡単にかわした。先ほどまでキョクヤの浸かっていたトマトの海が凍りつく。そこに着氷した。
一方、あたしの靴は氷で覆われた。ガラスのような
「『
あたしは
水上では美しく華麗に見えても水中では必死にもがいている。
氷漬けの噴水広場。即席の赤いスケートリンク。名付けてスケートマトリンクの完成である。
その紅葉したスケートマトリンクの上にカッツカッツと、氷のフィギュアスケートシューズで上がる。
一方のキョクヤは肉球の付いた足で氷上を確かめるように踏む。
「それが吸血鬼の血能ですか」
「イエス。ヴァンパイアはひとりひとり固有の血能を発現するの」
爪を剥いだ際の血もこめかみの血痕もピキッと氷のカサブタを形成した。しかし傷はすぐに治癒する。氷のカサブタはキラキラと剥がれ落ちた。
「ライカンと違ってヴァンパイアは血さえあれば何でもできるのよ。骨髄に刻んでおきなさいよね!」
そう言ってあたしは日傘を差したのち、サァーッと滑り出した。日傘の中心骨が首筋にあたりひんやりする。シューズブレードによって削られた氷がキラキラと舞う。あたしはキョクヤの周りを優雅に回る。
キョクヤはニヤリと笑った。
「そんなフィギュアスケートの真似事で何ができるというのですか?」
「こうするのよ!」
それからあたしは波打ったスケートマトリンクの上を器用に滑る。黒いフリルの青い日傘を思いっきり振りかぶった。そしてキョクヤの顔面めがけて体重をかけて振り下ろす。
「舐められたものですね。そんな日傘ごときで――」
キョクヤが片手で青い日傘を受け止める。しかし、キョクヤの予想に反して日傘の勢いは止まらない。重い一撃がキョクヤの顔面に到達する。そのまま顔面を歪ませながら後方に吹っ飛んでいった。片手を氷上に突いてから受け身を取るキョクヤ。何が起こったのかわからず頭を左右に振った。
「どう? 重かったでしょ?」
あたしは勝ち誇ったように言った。
とそこで、キョクヤはタネに気づいたように目を細める。
「まさか……日傘の中に溜まった水を凍らせたのですか」
「そうよ。即席のカチコチの日傘ハンマーでぶん殴ったわけ」
ネタバラシを聞く傍ら、キョクヤは口の端から垂れた血を毛深い手の甲で拭った。
さらにあたしはスケートマトリンクを滑りながら、キョクヤに接近する。畳みかけるように日傘ハンマーで殴ろうとしたが、キョクヤは今度はいともたやすくかわした。
「調子に乗らないでください」
怒気を孕んで言って、キョクヤは青い日傘の先っぽの石突きを掴む。あたしの体ごとぶん投げた。あたしの肌とスケートマトリンクが摩擦を起こす。低温火傷しそうなほどに冷たかった。
「冷ったいわね!」
あたしは半ギレで立ち上がった。それと同時にキョクヤはその場に落ちていたとある球体を拾う。おもむろに投球フォームに入った。そして大きく振りかぶって、とある球体を投げた。
あたしは本能的に危険を察知する。
反射的に青い日傘を前に構えた――その次の瞬間、キョクヤの投げた球体が日傘に触れた。いや、触れたなんて生やさしいものではない。現に日傘の内部に固まっていた氷が衝撃によって砕け散ったのだから。まるで鉄球のような衝撃だ。さらにはその砕け散った氷の破片を浴びながら、あたしは後方に吹っ飛ばされる。でんぐり返ししてしまった。
あたしは何が起こったのかわからない。
そんなあたしの足下にゴロゴロと赤い鉄球が転がってきた。これが先ほどあたしがぶつけられたものとみて間違いないだろう。
それは――凍ったトマトだった。
キョクヤに視線を滑らせると、すでに第2投の投球フォームに入っていた。あたしは跳ね上がってスケートシューズを滑らせる。そしてキョクヤは第2投を放った。その軌道はあたしの顔面を的確に捉えていた。このままでは当たってしまう。
「イナバウアーッ!」
あたしは危機一髪、上体をめいっぱい後ろに反らしてかわした。空を裂いたトマト球は氷の壁面へと吸い込まれていき、穴を穿つ。何という球威だ。ゴムボールなどとは比べものにならない。ただの氷のつぶてである。
先ほどの第一投のおかげで、日傘の氷が砕けたので空気抵抗を減らすために日傘を閉じる。なるべく高速かつ無軌道にスケートマトリンクを走り滑った。
そこであたしはとある秘策を思いついた。
「思い立ったら即実行よ」
あたしは鼓舞して再度、親指の爪を剥ぐ。閉じられた日傘に血を垂らした。するとみるみるうちに閉じられた日傘はパキパキと霜を纏って冷凍される。
「いい度胸ですね」
そんなあたしを見てキョクヤは挑発するように笑った。それから3投目を放った。
そこであたしは止まった。畳んだ日傘を左肩に担いで次の球を見極める。冷凍トマトの剛速球はあたしの正中線に迫った。それを見越してあたしはさらに横にずれる。そしてスケートシューズの右足のブレードを氷上に踏み込む。凍った日傘をおもいっきり振り抜いた。
カキーン!
と、小気味よい甲高い音が噴水広場に鳴り響く。あたしの打ち返したトマト球は一直線にキョクヤの元へ返っていった。しかしキョクヤは並外れた動体視力でなんとそのトマト球をキャッチしたではないか。
「なかなかやりますね。もしかしてやってました?」
「はあ? なんのこと?」
「我が国ではヤキウというスポーツがありましてね」
「ふーん。興味ないわね」
「もったいない。殺すには惜しい才能です」
熱っぽくキョクヤは手の中のトマト球を見つめた。
「ぜひ我が人狼球団にスカウトしたいくらいですが、本当に残念です」
「へえ、あんたヤキウのチームなんか持ってんだ」
「このラブラッドには国代表のチームはないのですか? 遅れていますね」
「ふん、チームなんて必要ないわ! あたしひとりでもやってやろうじゃないの!」
「ひとりで?」
とそこで、キョクヤの目の色が変わった。
「ひとりで勝てるほどヤキウは甘くありませんよ」
この冷血漢に王子のこと以外でこんな熱い部分があったとわね。驚きだわ。
しかし、あたしはここぞとばかりに挑戦的に言い放つ。
「あたしが勝つって言ったら勝つのよ。あたし、生まれてから一度も負けたことがないから」
「今まで負けたことがない者に負けるほど、わたくしは負けてきてはいませんよ」
クイッとキョクヤは左手の中指で眼鏡のブリッジを押し上げた。右手にはトマト球を握りしめている。
一方、あたしは青い日傘の石突きをキョクヤに差し向けた。
それを見てキョクヤは眉をひそめる。
「一丁前にホームラン宣言のつもりですか」
「そ、そうよ」
なんかよく知らないけどかっこいい響きだから頷いておいた。
「あたし、アリスメリー・V・クリスマスはあんたにホームラン宣言するわ!」
あたしは閉じられたままガッチガチに凍った日傘で氷上を叩く。ストライクゾーンを示した。日傘を両手で持った。それを肩に当てて石突きの先端で円を描き、タイミングを計る。
「吠え面掻かせて差し上げますよ」
そう言って、キョクヤは大きく振りかぶった。左足を高く上げて身体をひねる。そして冷凍トマト球を投擲した。その剛速球は火の玉に見えるほどの球威だった。
キョクヤのトマト球はまっすぐ走る。それからあたしの肩の上部と黒セーラースカートの上部との中間点に引いた水平のラインを上限とし、ひざ頭の下部のラインを下限としたストライクゾーンへと吸い込まれていった。
あたしはスケートシューズの右足のブレードを氷の地面に踏み込む。身体をひねり、全体重をかける。ヴァンパイアの動体視力でトマト球の軌道を読む。そして、おもいっきり氷傘を振った。完璧なタイミングで合わせる。氷傘の芯がトマト球の中心をえぐるように捉えた――かに見えた。しかし、あろうことかトマト球は突如軌道を変える。内角に入り曲がった。むしろ折れ曲がったと錯覚するほどだ。
まさにトマトの魔球である。
当然、あたしは空振る。
しかし、空振っただけでは済まなかった。
ほとんど直角にカーブした冷凍トマト球はあたしの腹部めがけて、えぐるように直撃した。そのままトマト球はあたしの柔肌を突き抜ける。内臓を突き破った。パァンという膀胱が破裂したような音もする。背中側の景色がのぞけるほどの風穴が腹部に空いたのだった。
「ガハッ!」
あたしは吐血しながらバランスを崩す。かろうじて氷傘をスケートマトリンクに突き立てることによって膝をつくに留める。血がボタボタと垂れて氷の上が血みどろになった。額からしとどに冷や汗が垂れる。ひょっとしたら頭蓋骨から
あたしじゃ、こいつにあと一歩どころか、五十歩百歩も及ばない。
それがシンプルに悔しい。
キョクヤは嘲弄するように言う。
「これが本当のデッドボールです」
「あんた、変化球なんて投げれたの? ズルいわよ」
「いちおうナショナルチームの一番ピッチャーですから。隠し球はいざというときに取っておくものですよ」
「眼鏡かけてるくせにピッチャーやってんじゃないわよ」
「眼鏡は関係ないでしょう」
丸眼鏡を押し上げて冷静にツッコミを入れるキョクヤ。
「そもそも、あなたがた吸血鬼が身体能力で人狼に勝てるわけがないんですよ」
「脳味噌ウンコのくせに」
あたしの負け惜しみを無視して、キョクヤは続ける。
「あなたは前提が間違っている。言っておきますが、オオカミは寒さに強いんですよ」
それもそうだった。あたしのバカ。あたしの氷結の血能ではハナから相性が悪かったのだ。だからこんな惨憺たる結果になってしまった。けしてあたしが弱いわけじゃない。……って、誰に言い訳してんだか。
キョクヤが勝負ありとばかりにずかずかとこちらに迫ってくる。
あたしは天を見上げる。思わず、ふっと笑みがこぼれた。
「あんた、寒さに強いんでしょ」
あたしはキョクヤに問う。
「なら、熱さはどうなの?」
「何を――」
キョクヤがそう言いかけた――刹那、5本のクナイがキョクヤを囲むように投げ込まれた。ザクザクと氷上に刺さる。それは柄頭に桜の家紋のあしらわれたクナイだった。そのヌバタマのように黒光りした家紋の中心には輪っかがある。穴からは直径5センチの小さな黒い爆弾が紐でくくりつけられていた。チリチリと導火線が進む。
正確には爆弾じゃなくて花火玉だけどね。
あたしはパードナーの代弁をする。
「食らいなさい。『
そして導火線が花火玉に着火した――その次の瞬間、爆発した。計5発。黒花火が炸裂すると、衝撃波とともにあたりは黒煙に包まれた。
「獣臭い花火だわ」
あたしはケホッケホッと咳き込む。煙の染みる目で黒煙の中心をためつすがめつする。
ややあって黒煙から獣耳の影が脱出した。しかし、あれほどの爆発を食らいながら驚くべきことにキョクヤはかすり傷だった。いや、おそらくは爆発の直前に疾走して直撃を免れたのだろう。ライカンの反射神経と脚力があれば造作もない。
キョクヤは火薬の臭いに鼻をぴくつかせながら
「このニオイは初めて嗅ぎますね。そこにいるんでしょう? 誰ですか?」
その視線の先は噴水広場の中心。凍った噴水台の上に注がれていた。
そこには黒尽くめの人物。顔面以外を黒装束で覆っている。さらに目許ではなく、口許にアイマスクを着用という世にも奇抜な格好である。するとアイマスクの瞳はウィンクした。実はこのアイマスクの表情はルノの感情によって変わる忍具だ。手話を介さなくても無感情なルノの気持ちがおおまかにわかる優れものだ。もうすっかり見慣れてしまった。
言わずもがな、その人物はあたしのパードナーのルノである。
やはり頼りになる幼馴染みだわ。
いちいち言わないけど。
あたしは元気を取り戻して立ち上がった。手話の代わりに中指を立ててキョクヤに言い放つ。
「さあ、これからが本番よ」
こうして、幼馴染みツーマンセルと人狼一匹が対峙した。
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