第3話

 その時が来たのは翌年の、桜が終わり新緑が山を幾重にも染める季節だった。二回目の別れは麻弓からだった。三十一歳の誕生日を過ぎ、麻弓も人並み以上に結婚についてプレッシャーを感じていたようだった。そのくせ俺に対してはそんな素振りは微塵も見せず、密かに相手を探していた。

「話があるの」と麻弓が切り出した。顔を少し傾げて、やや顎を出して静かに俺のことを見つめた。

 その青い火を宿したような挑発的な瞳に、俺は覚悟を決めた。

「話って?」

「私たち、今のままじゃ仕方ないと思うんだよね」

「うん、そうだね」俺は頷くことしかできなかった。

「もう別れた方がいいんじゃないかと思う」

「まあ、そうだね。仕方ないね」俺は顔を上げることができず、視線を足もとに落としたままそう言った。

  別れを切り出された俺は、冷静を装い、未練たらしい言葉は発しないよう踏ん張った。新しい男がどんな男か気になったが、それよりも目の前からすぐに麻弓に消えて欲しかった。麻弓が出て行った後、俺は一回目と同様、食欲がなくなり、職場の問題児となった。

 俺は麻弓のことが好きだ。だからといって、別れた後にストーカーになるとか、別れないように画策するようなことはしない。彼女の意思を尊重するというと聞こえがいいが、そもそも俺自身、もともと押しの強い人間ではない。こと恋愛に関しては受け身だ。別れたいなら別れればいいじゃないかという姿勢は、引き留めて断られたときのダメージを気にするという、いわば自己保身のようなものかもしれない。


    ※


  麻弓から連絡が入ったのは、それから半年後だった。唐突に「飲みに行っていい?」とメッセージが入った。新しい出会いもなく、特に変化のない毎日に退屈していた俺は、なに事もなかったかのようにオッケーと返した。

 麻弓が付き合った男は、母親の友人の紹介で、年下だが地元の国立大学を出て、地元の銀行に務める、いわゆるローカルエリートだった。銀行員と有名企業に勤める麻弓ならピッタリだと意気揚々とプロフィールを見せてくれたらしい。確かに、それだけ聞いたら俺だって賛成しそうだ。

 しかし、この街から一時間かかる田舎の支店に勤務していたことと、性格に問題があり、「無理」とのことだった。

「どこの銀行の人?」

「内緒」

「あっそう。別に教えてくれたっていいと思うけど。ま、俺の取引銀行だったら微妙か」

 確かに、店をたたんだ当時、俺は銀行を恨んでいた。金を貸すときは満面の笑顔を浮かべ、引き上げるときは悪魔のように容赦ない。店が傾き始めたとき、連中は手のひらを反すように杓子定規の応答しかしなかった。そのことは麻弓にも話していた。しかし、時が経つにつれ、銀行の対応は正しかったと思うようになっていた。変に傷口を広げるよりも早期に片をつけてしまった方が、俺自身にとってもプラスだったに違いない。

「どんな奴だったの?」

「なんか、煮え切らないっていうか、自分で決められないっていうか。段取りできないのよね。ほら、そこはあなたと違うとこだよね」

「俺と比較しないでよ」ちょっと腹立たしかった。

「料理作ってあげたときにね、母親の味に似て美味しいとか言うの。えっ?て思ったよ」

 そんな奴に料理を作って食べさせたってことにめまいがした。

「同じ醤油使ったんじゃないの?てかマザコン?」

「だよね。母親といつもラインしてるみたいで、スタンプとか送ってるの」と言って声を出して笑った。「拓斗は母親と毎日ラインする?」

「いや、しない。金貸してほしいときくらいかな」確か前回、母親に連絡したのは三月前だ。もっともメッセージは使わず通話のみだが。「それは微妙な感じだね。でもなんで母親とラインしてるって分かったの?」

「よく誰かとラインしてるから、誰としてるの?って聞いたら、お母さんだって言うのよー。だったら他の女の方がマシだって思ったわ」と言って下唇を前に出した。

「で、結局、どのくらい付き合ってたの?」

「三ヶ月くらいかなぁ」と言って頭を傾げて宙を見た。

俺は麻弓のそんな表情が好きだったから、無性に嬉しくなった。

「なんだ、それだけ?」

「まぁ、ねぇ。そんなに会ってた訳じゃないけど」と言って、はにかむように小さく笑って俯いた。

「そいつとヤッたの?」俺は本心では聞きたくなかったが、それにも増して、マザコン野郎がどんなセックスをするのか気になった。

「ちょっと、バッカじゃない。なに聞いてるのよー変態」ニヤついた顔で挑発的な視線を向けて「内緒」と言った。

 俺は麻弓に右目でウインクをして、グラスにビールを注いだ。

 そいつと別れるきっかけになったのは、そいつの母親に会ったことが原因らしい。自慢の息子と並び、二人して嬉しそうにしている姿を見て嫌気がさしたということだ。母親似の息子は、顔だけでなく表情やしぐさまでそっくりだったことが「堪えられなかった」と。

 多分そんな話をだれかとしたかったんだと思う。麻弓は口の堅い女だ。プライベートについて誰彼に気安くしゃべる女ではない。俺はまだ信用されていたのかと思い安堵した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る