第2話
麻弓と俺が出会ったのは、六年前にオープンして五年前に潰れた俺の店に、麻弓が客として来たことがきっかけだった。月に二、三回来るようになり、いつもジントニックを二杯飲んで帰った。うちに一人で来る女は珍しかった。
ロングヘアは俺の好みじゃなかったし、当時は付き合っている女がいたから、最初は彼女のことを単にお客さんとしてしか見ていなかった。店がだんだん傾き始め、客が一人また一人と離れていくなか、最後まで残ってくれたことが彼女への意識を変えた。
こじゃれたバーがつぶれた原因は単純で、本物を提供したいという思いだけで、コスト計算をないがしろにしたメニューを提供した結果、資金が回らなくなってきたという経営者としては恥ずべき理由だ。そもそもこの地方都市じゃ、こんな店の需要なんてなかったってことか。
店をたたむ直前、俺の心は荒みきっていた。当時、付き合っていた女にも逃げられた。店が順調だったら、たぶん結婚していたと思う。酒の仕入もままならないような状況になったとき、あいつはたった三行の手紙を残して消えた。手紙はすぐに破り捨てたから、なにが書いてあったか覚えてないが、俺に失望したというようなことが書かれていた。当時はそれをショックとかそういうナーバスな感情として捉える余裕もなかった。
いつものように「お疲れさまでーす」と言って入ってきた麻弓に、その日で店をたたむことを告げた。
「は?閉店するの?どして?」
「どしてって言われても」俺は笑顔を作り、両手を宙にかかげて顔を傾げた。「麻弓さんは記念すべき最後の客」
「ふーん、残念だね」さして驚く風でもなかった。
麻弓の素っ気ない言い方に軽く腹を立てそうになったが、売る酒もない店のマスターじゃ仕方ない。この地方都市じゃシャッターを閉め切ったままの店が増えている。店がひとつ消えるくらい驚くには値しない。
「ところで、マユミくんは最初なんでうちにきたの?」
「さぁ、なんでだっけ。誰かに教えてもらったとかじゃないから、たまたまかな」
「ま、そうだよね。飲み屋に入る理由なんて、大抵たまたまだよね」
冷静に考えてみれば、うちの店にはこれといったウリはない。ただ洋酒の種類が多いってだけで、美味しい料理が出てくる訳でも、とびきりの会話ができる訳でもない。要はありきたりの店だ。よほど好きじゃない限り、洋酒なんて3種類あれば十分だ。
「でもさぁ、続けて来るようになるのって、割とハードルが高いかもしれないよ。飲み屋さんなんて一回しか行ったことないところがほとんどだもん」
「慰めてくれてありがと」
その日、麻弓はたった一人の客だった。ジンもトニックもなかったから、お任せということにして、残っていたコロナを出した。もちろんライムはなしだ。つまみは残っていたピスタチオを皿に山盛りにして出した。
「なにそれ、そんなにピスタチオ食べれないよー」と言って笑った。
「いいよ、残しても。俺の夕飯にするから」
「ピスタチオ炊き込みご飯?」
「そんなとこ」
王冠を外し、瓶のまま乾杯した。
「コロナ久しぶりー」
「ごめんね、ライムなくて」
「ぜんぜん、普通に美味しい」
「良かった。ライムなくても普通にいけるね。メキシコのビールは飲みやすくていいよね」
「ほんと、日本のビールは苦すぎるわ」
麻弓は飲み会が苦手で、ジョッキで乾杯するのも、それを見るのも嫌だと言っていた。オヤジ連中が初めの一杯をさも美味しそうに飲み、勝ち誇ったような表情を浮かべるのを見ると殴りたくなるそうだ。大手企業は四月に飲み会が多く、その取り回しは総務の重要な仕事であるため、会社では飲めないことにして裏方に徹しているらしい。正直、麻弓の性格は、ちょっと天邪鬼なところがある。その敵意が俺に向けられなければよいが。
「ところで、ビールが一番消費されている国ってどこだ?」俺の数少ない特技は、池袋で鍛えた酒のウンチクだ。
「中国」
「えー、知ってたの?」
「前に聞いた」
「あ、そうだっけ。残念」誰にいつなんのクイズを出したかなんて覚えてないから、同じ問題を二度出してしまうことはよくあった。
「これならどうかな。もっともビールが好きな人たちは、どこの国の人でしょうか?中国人ではないよ」
「うちの部長」
「なにそれ。真面目に答えてよ。お宅の部長なんて知らないし」
「ジョッキ十杯くらい飲むから。その後で日本酒。頭おかしいよね」
「頭もだけど、肝臓もヤバいんじゃない」
「今度連れてこようか?」と言って笑った。
「連れてこられても、もう店ないし」
「ごめんね」と言って顎を出し、横目でチラッと俺を見た。
「いいよ別に。ちゃんとクイズに答えてくれれば」
麻弓は大げさに笑顔を作り、可愛げな声で「んー、ドイツ人」と顔を傾げた。ちょっと可愛らしかった。
「おっ、外れだけど遠からず」
「ロシア人?」
「彼らはウォッカじゃないか?てか地理的に遠くなったし」
「えー、ドイツに近い国なんて知らないよ。てかドイツがどこにあるのかも知らないし」
「そうか。答えはチェコでした」
「そうなんだ。チェコなんて全く知らない国だわ」
俺はそんな会話をずっと続けていたかった。ずっと引き止めておく訳にもいかないから、次のクイズを最後にすることにした。
「じゃあ最後の問題です。王冠にはギザギザが付いてるけど、これ何個あるか知ってる?」
「えー、三十?」
「ブー」と言って俺はコロナの王冠を麻弓の顔の前に掲げた。
「うーん、二十」
「近い。ヒントは奇数」
「二十一?」
「ピンポーン、当たり」俺は王冠を中指で弾き、カウンターの上で回転させた。勢いを失った王冠は表側を上にして倒れた。
「でも、なんで二十一なの?」
「大変よい質問です。なんでも、奇数の方が偶数よりも安定するらしいよ」
「それで?」
「それで二十一個。王冠の大きさだと二十一個くらいが調度よかったんじゃないの」
麻弓はふーんと言うなりコロナを唇に運んだ。彼女にとっては王冠のギザギザの数なんてどうでもよいことかもしれない。俺にとっては人生を豊かにしてくれる知識の筈だったが。
こうして店での最後のウンチクが幕を閉じた。
「で、私はこれからどこでお酒を飲めばいいの?」困った問題でも起こったかのように、顔を傾げて唇を前に出した。
「どこでって言われても」麻弓を他の店に送るのは、なんだか悔しかった。「俺の部屋は?」と軽いノリで言った。麻弓のアパートと俺のアパートは、市街を挟んで逆方面に二駅ずつだったから、本数は少ないけど不便という訳ではない。
「分かった。そうさせてもらう。お酒は持ち込みの方がいいでしょ?」
実のところ、俺は麻弓が来た日を最後に店を閉じようと決めていた。この三週間、滅多に客の来ないバーで彼女の来店を待ちわびていた。
店をたたんだ俺に残されたのは、六百万の借金と麻弓だった。麻弓は週二回くらい俺の部屋に来て、そのうち泊まっていくようになった。
俺から見ると、麻弓は不思議な女だ。困っている人間を見捨てられないというのとは少し違う、なんというか、乗りかかった舟から降りようとしない、沈みゆくと分かり切った舟からも逃げ出さず、一緒に沈没してしまうような危うさを感じた。
「なんで店潰して借金まみれの俺から離れていかないの?」
「だって、私が迷惑かけられた訳じゃないし。お金貸してとも言われないし。少しくらいなら貸すのに」
「まあそうかもしれないけど。+ひょっとして俺が困ってるの見て楽しんでる?」
「なにそれ、ドSですか。最低。そんな訳ないじゃん」と言いそっぽを向いた。
「ごめん。でも俺の知り合い、全員俺から離れていったんだぜ。店が傾きはじめたらクモの子ちらすように」
「てか、全然困ってるように見えないし。拓斗、自信過剰なんだよ」
「は?なに言ってんだよ。そりゃ成功すると思わなきゃ店なんて出さないけど」
「自信過剰なんだよ」と言って目を合わせてすぐ逸らすような仕草をした。
店をたたんでからは、借金を返すためにコンクリート工場で職を得た。コンクリートを加工してブロックやU字溝を作る仕事だ。飲み屋でしか働いたことのなかった俺は、最初は男臭すぎる現場に面食らったが、慣れると気楽なもんで、意外と性に合っていた。
幸い借金を返しながらなんとか生活ができるくらいの収入を得ることができたが、当時は夢も希望も持てない状態だった。それは今もあまり変わらないが。正直、麻弓がいなかったとしたら、なんの味気もない生活になっていたことは確かだ。
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