第16話 迷宮の中心

斉藤 学は再び目を開けた。今度こそ、これが現実なのか幻なのか、彼には判断がつかなかった。周囲を見回すと、研究室の風景がかすかに揺らいでいるのが分かった。まるで現実の一部が薄膜のように剥がれ、背後に別の世界が潜んでいるかのようだった。


「私は…どこにいるんだ…?」斉藤はつぶやいたが、返答はない。彼はデスクに手をつき、ゆっくりと立ち上がった。目の前のコンピュータ画面には、森下 啓が最後に使用したプログラムのログが表示されていたが、その内容は理解不能な数式やグラフが乱雑に並んでいるだけだった。


「これは…」斉藤は目を凝らし、ログの中に不規則なパターンが浮かび上がっているのに気付いた。それは、まるで何かを伝えようとしているかのように見えた。斉藤は思わずその画面に触れようと手を伸ばしたが、その瞬間、再び強烈な眩暈が彼を襲った。


視界が暗転し、次に目を開けた時、斉藤は全く別の場所に立っていた。先ほどの研究室とは異なる、異様な光景が広がっていた。空は赤く染まり、地面はひび割れ、奇妙な光があちらこちらで瞬いていた。


「ここは…迷宮の中心か…」斉藤は自分に言い聞かせるように呟いた。周囲には何も見当たらず、ただ無限に続く荒涼とした風景が広がっていた。斉藤はその場に立ち尽くし、どうすべきかを考えようとしたが、思考はぼんやりとしたままで、はっきりとした考えが浮かばなかった。


その時、遠くの方からかすかな足音が聞こえてきた。斉藤はその音に反応し、音がする方へと足を向けた。足音は次第に近づいてきたが、その正体は見えないままだった。


「森下君…?」斉藤は声を上げたが、返事はなかった。ただ、足音だけが響き続け、彼を不安にさせた。斉藤はその音を追いかけるようにして、荒野の中を歩き続けた。


やがて、彼の目の前に一つの扉が現れた。それは、まるでこの異世界の中心に存在するかのように、ひときわ異彩を放っていた。扉は古びていて、まるで何世代にも渡ってここに存在していたかのようだった。


「この扉の向こうに…」斉藤は自分に言い聞かせ、扉に手をかけた。その表面は冷たく、何か不吉な予感がしたが、彼は迷わず扉を押し開けた。


扉の向こうには、異様な光景が広がっていた。そこには無数の鏡が並んでおり、それぞれが異なる現実を映し出しているようだった。斉藤はその光景に圧倒されながらも、鏡の一つに目を留めた。


その鏡には、森下の姿が映し出されていた。彼は静かに佇み、何かを見つめているようだった。斉藤はその姿を見て、胸が高鳴るのを感じた。森下がいる――そう確信した斉藤は、鏡の中に手を伸ばした。


すると、鏡の表面が水面のように揺れ、斉藤の手がすっと中に吸い込まれていった。次の瞬間、斉藤は鏡の中に引き込まれ、目の前の光景が一変した。


そこは、かつての研究室だった。しかし、どこか不気味で、現実感が欠けていた。斉藤はその場に立ち尽くし、周囲を見回したが、森下の姿は見当たらなかった。


「森下君!どこにいるんだ!」斉藤は叫んだが、その声は虚しく反響するだけだった。


「先生…」ふいに背後から声が聞こえた。斉藤は振り返った。そこには、やはり森下が立っていた。しかし、彼の姿は現実のものとは異なり、まるで幻影のようにぼやけていた。


「森下君…無事なのか?」斉藤はその幻影に近づこうとしたが、森下は手を差し出して斉藤を制止した。


「先生、もう手遅れなんです…私は…戻れない。」森下の声はかすかで、悲しげだった。


「どういうことだ?まだ戻れるはずだ。君を救うためにここまで来たんだ!」斉藤は必死に説得しようとしたが、森下は首を振るだけだった。


「先生、ここは現実じゃない。私は…すでに消えてしまったんです。先生はここから出なければならない…さもないと、先生も…」森下の声は次第に途切れ、姿も薄れていった。


「待ってくれ、森下君!君を置いていけるわけがない!」斉藤はその幻影に手を伸ばしたが、森下は完全に消え去り、ただ静寂だけが残された。


斉藤はその場に崩れ落ち、頭を抱えた。「量子の迷宮」――それは、彼が予想していた以上に危険な場所であり、森下をも飲み込んでしまったのだと痛感した。


しかし、ここで諦めるわけにはいかなかった。斉藤は何とか立ち上がり、再び鏡の前に立った。森下が消えた今、この迷宮から抜け出す方法を見つけなければ、自分もまた永遠にこの場所に囚われることになる。


斉藤は周囲の鏡をじっと見つめ、その中に何か手がかりがないかを探した。鏡の一つ一つが異なる現実を映し出しているが、それらの中には彼が見覚えのある風景も含まれていた。斉藤は、その中の一つに焦点を合わせた。


「ここから…戻れるかもしれない。」斉藤はその鏡に近づき、再び手を伸ばした。鏡の表面が再び揺れ、彼の手が中に吸い込まれていった。


次の瞬間、斉藤は再び研究室に戻っていた。今度は完全に現実の世界に戻ったことが分かったが、斉藤の心には、森下を救えなかったという痛みが残されたままだった。


斉藤はデスクに手をつき、深く息を吐き出した。「森下君…すまない…」彼は静かに呟いたが、その言葉は虚しく研究室の静寂に消えていった。

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