第17話 絆と選択

斉藤 学は研究室のデスクに突っ伏したまま、冷たい現実に向き合っていた。再び戻ってきたこの場所が、確かに現実世界であることを知覚しながらも、彼の心は深い絶望に沈んでいた。森下 啓を「量子の迷宮」から救い出そうとしたものの、彼はそこに囚われたままであり、斉藤自身も危うくその迷宮に飲み込まれるところだった。


「何も…救えなかったのか…」斉藤は自問しながら、机に拳を押し当てた。森下の言葉が今も耳にこびりついて離れない。「手遅れだ」と言った彼の姿が、斉藤の心を締め付け続けていた。


斉藤は疲れ切った体をゆっくりと起こし、ふらつきながらも研究室を見渡した。森下が残したデータ、そして自分が集めた手がかりの山――それらが一つに繋がった瞬間があったはずだ。だが、それは同時に森下の失われた命を証明するものであり、斉藤にはその事実を受け入れる覚悟がまだできていなかった。


「もう一度…」斉藤は静かに自分に言い聞かせた。彼にはまだやるべきことが残されている。森下が本当に救えないのか、それを確かめるために、もう一度「量子の迷宮」へのアクセスを試みるしかない。しかし、それにはリスクが伴うことを斉藤はよく理解していた。


彼は意を決して再びコンピュータの前に座り、森下が使用したプログラムのログを再確認した。そこには、まだ解明されていない部分が残されているように感じられた。森下が最後に行った実験の記録を辿り、その中に何か見落としていた手がかりがないかを探すために、斉藤は全神経を集中させた。


「ここだ…」斉藤はついに、ある一つのデータに注目した。それは、森下が消失する直前に記録されたエネルギーパターンであり、通常の数値とは全く異なる異常な動きを示していた。このデータが、森下を「量子の迷宮」へと引きずり込んだ鍵であり、同時に彼を救い出すための手がかりになるかもしれない。


斉藤はすぐにそのデータを基に、新たなシミュレーションを開始した。彼は森下の残したプログラムを改良し、もう一度同じ現象を再現することで、彼を迷宮から引き戻すための方法を模索し始めた。


時間が過ぎる中で、斉藤の集中力は極限に達していた。データが示すパターンを解析し、可能性のある全てのシナリオを検討しながら、彼は森下を救うための最適な方法を見つけ出そうとしていた。


「これが最後のチャンスだ…」斉藤は自分に言い聞かせ、ついに再現実験を開始するための準備を整えた。すべての機材が再びセットアップされ、実験のスイッチを入れるための手が震えた。彼はもう一度深呼吸をし、決意を新たにした。


「森下君、私は君を見捨てない。」斉藤はその言葉を心の中で繰り返しながら、ついにスイッチを押した。


瞬間、研究室の空気が再び変わった。低いハミング音が響き、空間が歪み始めた。斉藤はすぐに画面に映し出される数値を確認した。エネルギーパターンが再び異常な動きを見せ始め、斉藤はそれが森下を引き戻す兆候であることを確信した。


「これだ…!」斉藤は自分に言い聞かせ、プログラムの進行を慎重に見守った。次第に、空間の歪みが激しくなり、まるで現実が崩壊するかのような感覚に包まれた。しかし、斉藤はその中で、森下の姿を捉えるために全神経を集中させた。


そして、ついに目の前に影が現れた。斉藤はその影に目を凝らし、森下の姿が徐々に明確になるのを見た。彼は迷わずその影に向かって手を伸ばし、森下を引き戻すために全力を尽くした。


「森下君!」斉藤は叫びながら、彼の手を掴んだ。森下の姿がぼんやりと現実の中に浮かび上がり、次第にその輪郭がはっきりと見えてきた。斉藤はその瞬間、涙が滲むのを感じた。彼は森下を、迷宮の中から救い出すことができたのだ。


「先生…」森下がかすかな声で応えた。その声には、かつての森下の面影が戻っていた。斉藤はその声を聞いて、心の中でほっと息をついた。


「君を救い出せてよかった…」斉藤はそう呟きながら、森下をしっかりと抱きしめた。二人はしばらくの間、そのまま静かに抱き合い、迷宮から解放されたことを実感していた。


だが、次の瞬間、斉藤は何か異変を感じた。森下の身体が再び薄れ始めたのだ。


「どういうことだ…?」斉藤は驚き、森下を見つめた。森下は悲しげな笑みを浮かべながら、静かに言った。


「先生、私はもう…ここに留まることはできないんです。先生は、現実に戻ってください。私は…もう迷宮の一部になってしまった。」


「そんな…君を助けたはずなのに!」斉藤は絶望の声を上げたが、森下の姿は次第に消えていった。


「先生、私のことは忘れないでください。でも、ここで先生が巻き込まれてはいけない。どうか、戻ってください…」森下の声が薄れ、彼の姿は完全に消え去った。


斉藤はその場に膝をつき、涙をこぼしながら森下の名前を呼び続けた。彼は森下を救えたと思っていたが、結局、彼を迷宮から完全に解放することはできなかったのだ。


「森下君…すまない…」斉藤は静かに呟きながら、迷宮の中で再び森下を失ったことを受け入れざるを得なかった。


しかし、斉藤にはまだやるべきことが残されていた。森下が言った通り、自分は現実に戻らなければならない。そして、彼が見た真実を伝えることが、森下への最後の恩返しになるのかもしれない。


斉藤は涙を拭い、ふらつく足で立ち上がった。そして、再び現実へと帰るために、最後の力を振り絞って研究室へと戻る決意を固めた。

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