第10話 闇に触れる

夜の闇が濃くなり、キャンパス全体が静寂に包まれていた。斉藤 学は研究室のデスクに広げられた森下 啓の研究ノートを見つめながら、深く息を吐いた。頭の中には、廃墟での異様な体験が今もなお鮮明に残っていた。あの場所で感じた何とも言えない不安感と、どこか異次元へと引き込まれるような感覚。それらが現実なのか幻想なのか、斉藤にはもはや判断がつかなかった。


「量子の迷宮…本当に存在するのか?」斉藤は自分に問いかけたが、答えは出ない。ただ、森下が何か重大な発見をし、その過程で現実の枠を超えた領域に足を踏み入れてしまったことは明らかだった。彼が残した数式や仮説は、通常の科学の範疇を超えており、斉藤自身もそれを完全に理解することはできなかった。


「彼がどこにいるのかを見つけ出さなければ…」斉藤は意を決して、ノートをさらに詳しく調べ始めた。ページをめくるたびに、森下が追い求めた真実と、それに伴う危険性が浮かび上がってくるようだった。彼は並行宇宙の存在を証明するため、量子コンピュータを駆使して実験を行い、その結果として「量子の迷宮」と呼ばれる現象に遭遇した。しかし、その実験が一体何を引き起こしたのか、そして森下がどこへ行ってしまったのかは依然として謎のままだ。


その時、突然電話が鳴り響いた。斉藤は驚きながらも、すぐに受話器を取った。時刻は深夜を過ぎており、この時間にかかってくる電話が普通であるはずがなかった。


「斉藤です。」斉藤は落ち着いた声で応答した。


「先生…」受話器の向こうから、かすれた声が聞こえた。斉藤はその声が誰のものかすぐに理解した。森下だ。「先生、私は…迷宮の中にいる…」


「森下君!君はどこにいるんだ?無事なのか?」斉藤は焦りを抑えつつ、必死に問いかけた。しかし、森下の声は断片的であり、その内容を完全に聞き取ることはできなかった。


「ここは…現実じゃない…でも、抜け出せない…」森下の声はどこか遠くから聞こえてくるようであり、斉藤はその声が徐々に消えていくのを感じた。


「君を助けるためには、何をすればいい?教えてくれ!」斉藤はさらに問いかけたが、受話器からは応答が途絶え、ただの無音が流れるだけだった。斉藤はしばらくの間、受話器を耳に当てたまま立ち尽くしていたが、やがて静かにそれを置いた。


「森下君…君はまだどこかにいる。」斉藤は自分にそう言い聞かせた。彼の声が聞こえたということは、完全に消え去ったわけではない。だが、彼がどこにいるのか、そしてどうすれば彼を救い出せるのか、それを知る手がかりは依然として見つかっていなかった。


斉藤は再びデスクに向かい、森下の研究ノートをじっくりと見つめた。彼が残したメモの中に、何か決定的なヒントが隠されているはずだ。それを見つけ出すことが、森下を救う唯一の方法かもしれない。


ページをめくるたびに、斉藤の頭の中には森下がどのような実験を行ったのか、そしてそれが何を引き起こしたのかが少しずつ明らかになってきた。森下は、現実世界と並行宇宙を結びつけるためのプログラムを作成し、それを実行に移した。だが、その結果として生じたのは、予測不可能な「量子の迷宮」と呼ばれる現象だった。


「彼はその中で…何を見たのだろう?」斉藤はその疑問を胸に抱えつつ、ノートの中で最も注目すべきページにたどり着いた。そこには、奇妙な図形が描かれており、それが何を意味しているのかを理解するには時間がかかりそうだった。


「これが…迷宮の地図なのか?」斉藤はその図形を見つめながら考え込んだ。森下が描いたこの図形は、単なるイメージではなく、何か具体的なものを示しているようだった。まるで無限に続く迷路のように、無数のルートが交差し、絡み合っていた。


斉藤はその図形を解析しようと、メモを取りながら自分なりに仮説を立てた。もしこれが現実世界と並行宇宙の接点を示すものであれば、そこに到達するための方法が隠されているかもしれない。彼はその仮説を元に、ノートの他の部分とも照らし合わせながら、少しずつ図形の意味を解き明かそうとした。


だが、それは簡単な作業ではなかった。図形の意味は非常に複雑であり、森下がどのような理論を元にこれを作成したのか、斉藤には理解しがたい部分が多かった。それでも彼は、少しでも手がかりを掴むために、必死で考え続けた。


その時、突然研究室の窓がガタガタと音を立て始めた。斉藤は驚き、思わずペンを取り落とした。彼は立ち上がり、窓の方を見やった。外は暗闇に包まれ、何も見えないはずだったが、窓の向こうには不気味な赤い光が微かに漂っているように見えた。


「何だ…?」斉藤は恐る恐る窓に近づき、カーテンを開けた。その瞬間、目の前に広がった光景に言葉を失った。


そこには、現実の風景とは全く異なる異次元の光景が広がっていた。空は血のように赤く染まり、大地は黒く焦げたような荒廃した風景が広がっていた。遠くには巨大な建造物がいくつも立ち並び、その頂上からは奇妙な光が放たれていた。それはまるで地獄のような光景であり、斉藤は信じられない思いでその場に立ち尽くした。


「これが…量子の迷宮…?」斉藤は声を震わせながら、その異様な光景を見つめた。現実の窓が異次元への扉と化し、彼を誘うかのようにその光景を映し出していた。斉藤はその光景に目を奪われながら、次第に引き寄せられていく感覚に襲われた。


その時、窓の向こうから何かが近づいてくる気配を感じた。斉藤は恐怖に駆られ、思わず後退したが、その気配はますます強くなり、まるで彼を窓の外へと引きずり出そうとしているようだった。


「これは…罠か?」斉藤はそう思いながらも、目の前に広がる光景から目を逸らすことができなかった。彼は窓の縁に手をかけ、必死にその場に留まろうとしたが、その力はますます強まり、彼の体は自然と窓の外へと引き寄せられていった。


「やめろ!」斉藤は叫び声を上げたが、その声は虚しく闇の中に吸い込まれていった。彼の体は完全に制御を失い、窓の外へと吸い込まれるようにして引き寄せられていった。そして次の瞬間、彼の視界は真っ暗になり、すべてが無音に包まれた。


気がつくと、斉藤は見知らぬ場所に立っていた。周囲を見回すと、そこはまるで夢の中のような不思議な空間だった。空は再び暗闇に覆われ、大地には奇妙な模様が浮かび上がっていた。遠くには、無数の扉が並んでおり、それらがどこに繋がっているのかは見当もつかなかった。


「ここは…どこなんだ?」斉藤は混乱したまま、その空間を歩き始めた。彼は無数の扉の前に立ち、それぞれがどこに繋がっているのかを確かめようとしたが、すべての扉は固く閉ざされており、開けることはできなかった。


「どうすれば…ここから出られる?」斉藤は不安と焦りを感じながらも、進み続けた。彼は何かに導かれるようにして、無数の扉の間を彷徨い続けた。


その時、一つの扉がゆっくりと開き始めた。斉藤はその扉の前に立ち止まり、慎重に中を覗き込んだ。扉の向こうには、先ほどの異次元の光景とは異なる、見慣れた研究室の風景が広がっていた。


「ここは…元の世界?」斉藤はその風景を見つめ、安堵の表情を浮かべた。そして、意を決してその扉をくぐり抜けた。


次の瞬間、斉藤は再び研究室の中に戻っていた。すべてが元に戻ったかのように、静寂が広がり、窓の外には普通の夜景が広がっていた。斉藤は深く息を吐き出し、手が震えているのを感じながらデスクに手をついた。


「今のは…一体何だったんだ…?」斉藤は呟いたが、その答えは見つからなかった。ただ一つ言えるのは、「量子の迷宮」は確かに存在し、彼がその一部に触れたのだということだ。


斉藤はしばらくの間、静かにその場に立ち尽くしていた。心臓が激しく鼓動し、全身に冷や汗が流れていた。彼はその感覚が次第に和らいでいくのを待ち、深呼吸をした。


「森下君…私は君を見捨てない。」斉藤は再び自分にそう誓った。彼はこの迷宮の謎を解き明かし、森下を救い出すために、さらに深くこの世界に踏み込む覚悟を固めた。

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