第7話 迷宮への扉

朝の光がゆっくりと研究棟の窓を照らし始めた頃、斉藤 学はデスクに突っ伏したまま目を覚ました。森下 啓からの謎めいた電話が頭の中で反響していたが、それが夢であったのか、現実であったのかははっきりしない。ただ一つ確かなことは、森下が「量子の迷宮」に迷い込んだと告げたことだった。


斉藤は目をこすりながら、再び森下の研究ノートを手に取った。ノートのページには、夜通し考え続けた結果、無数のメモが書き加えられていた。並行宇宙、量子コンピュータ、そして現実との交錯――森下が追求していた理論は、単なる仮説を超え、実験段階に達していたことが分かる。


「もし彼が、量子の迷宮を作り出していたとすれば…」斉藤はその可能性を口にしながら、ノートの中に何か決定的な手がかりが隠されていないかを探した。


ふと、彼の目があるページで止まった。そこには、見慣れない数式が書かれており、その下に一連の座標が記されていた。その座標は、明らかに地理的な場所を示しているようだった。斉藤は一瞬、森下が何か特定の場所にアクセスしようとしていたのではないかと考えた。


「これは…」斉藤は資料棚から地図を取り出し、その座標を調べ始めた。座標が指し示していたのは、大学の近郊にある古びた施設だった。それはかつて研究用に使われていたが、今では廃墟同然となっている場所だった。斉藤はその地図を見つめ、森下がその場所で何か重要な実験を行っていたのではないかという考えが浮かんだ。


「そこに何があるのか…確かめてみる必要があるな。」斉藤はそう呟きながら、すぐに準備を整えて研究室を出た。森下の残した座標が示す場所が、彼の失踪の鍵を握っているに違いない。斉藤は心に強い決意を抱き、その廃墟へと向かうことを決めた。


キャンパスを後にし、斉藤は車に乗り込んだ。エンジンをかけると、彼は一度深呼吸をし、ハンドルを握りしめた。廃墟へ向かう道中、斉藤の頭の中にはこれまでの出来事が次々と浮かび上がっていた。森下の謎の失踪、佐々木 崇の曖昧な態度、そして「量子の迷宮」という言葉。それらが一つの線で結ばれる瞬間が近づいているのではないかという予感が斉藤を突き動かしていた。


やがて、廃墟が見えてきた。その場所は、かつての栄光を失い、今では草木に覆われ、時間の経過を物語るようにひっそりと佇んでいた。斉藤は車を停め、建物の方へと歩みを進めた。冷たい風が肌を刺し、何か不吉なものを感じさせたが、斉藤はその感覚を振り払うように、しっかりとした足取りで進んだ。


廃墟の中は暗く、埃っぽい空気が漂っていた。天井からは蜘蛛の巣が垂れ下がり、足元には割れたガラスや廃棄された機材が散乱していた。だが、斉藤は躊躇することなく、森下が残した座標を頼りに、施設の奥へと進んだ。


そして、建物の最も奥まった部屋にたどり着いた。ドアには錆びついた鍵がかかっていたが、斉藤は手元の工具を使って鍵を外し、ドアを押し開けた。部屋の中は薄暗く、わずかな光が窓から差し込んでいるだけだった。


「ここが…森下が最後にいた場所なのか?」斉藤は部屋を見渡しながら、心の中でそう問いかけた。部屋の中央には、古びた機材が設置されており、その周囲には何かの痕跡が残されていた。斉藤はその痕跡を注意深く観察した。


机の上には、使い古されたコンピュータが置かれていた。それは、かつて森下が使っていたもののようだった。斉藤はそのコンピュータに近づき、電源を入れてみた。すると、画面がゆっくりと立ち上がり、かつて森下が書き残したプログラムが表示された。


「これが…森下君が作ったものか…?」斉藤は画面に映し出された数式やコードをじっと見つめた。それは、彼が今まで見たことのない複雑なプログラムだった。森下が何を意図してこれを作成したのかは、まだ理解できなかったが、そのプログラムが「量子の迷宮」に関係していることは間違いないように思えた。


斉藤はコンピュータのファイルをさらに調べ始めた。そして、そこに一つの動画ファイルが保存されているのを見つけた。そのファイルは「迷宮への扉」と名付けられていた。


斉藤は一瞬ためらったが、意を決してそのファイルをクリックした。画面に映し出されたのは、森下がこの場所で行っていた実験の映像だった。森下はコンピュータの前に座り、真剣な表情で操作を続けている。彼は時折、カメラに向かって説明を加えながら、プログラムを実行していた。


「このプログラムは、現実と並行宇宙を結びつけるためのものだ。」森下の声が静かに響いた。「私たちは今、未知の領域に足を踏み入れようとしている。もしこれが成功すれば、現実そのものを変えることができるかもしれない。しかし、その代償が何であるのか…それはまだ誰にも分からない。」


映像の森下は操作を続け、プログラムを実行した。そして、画面には異様な光のパターンが浮かび上がった。森下はその光をじっと見つめ、何かを確かめるように目を細めた。


「もし、このプログラムが正しく機能すれば、我々は『量子の迷宮』と呼ばれる現象を引き起こすことになる。」森下は続けた。「この迷宮の中で、現実と並行宇宙は交錯し、私たちが知っている物理法則が通用しない世界が生まれるだろう。」


斉藤は映像に釘付けになった。森下が行おうとしていた実験は、まさに現実を超越するものだった。だが、それが成功したのか、失敗したのかはまだ分からない。


映像の森下は最後にカメラに向かってこう言った。「もし、この映像を誰かが見ているなら…私は迷宮の中にいる。助けてくれ、先生…」


その瞬間、映像は突然途切れた。画面は暗転し、斉藤の胸に重苦しい沈黙が広がった。森下がどこかで助けを求めている、その事実が斉藤の心に深く刻まれた。


「森下君…」斉藤は静かに呟いた。彼は森下が迷い込んだ「量子の迷宮」を解明し、彼を救い出すために、全力を尽くすことを心に誓った。


その時、背後で何かが動く気配を感じた。斉藤は反射的に振り返ったが、そこには何も見当たらなかった。だが、彼は明らかに何者かの視線を感じた。斉藤の心臓は高鳴り、全身が緊張で硬直した。


「誰だ…?」斉藤は声を上げたが、返事はなかった。代わりに、薄暗い部屋の奥から、かすかな音が聞こえてきた。それはまるで誰かが囁くような音だったが、その内容を聞き取ることはできなかった。


「この場所には…何かがある。」斉藤はその場に立ち尽くし、周囲を警戒しながら再びコンピュータの画面に目を戻した。森下が「迷宮」と呼んだ現象が、今ここで再び動き始めたのかもしれない。斉藤はその場を離れることなく、さらに深く調査を進めることを決意した。


薄暗い廃墟の中で、斉藤は一人、「量子の迷宮」の謎に挑む覚悟を固めた。彼の心の中には、森下を救い出すために、何としてでもこの迷宮を解き明かさなければならないという強い使命感が渦巻いていた。闇が深まる中で、斉藤は自らの意志を貫き通すことを決め、再び画面に向き合った。

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