第6話 導かれし過去

深夜の研究室。斉藤 学は森下 啓の研究ノートに目を落としたまま、デスクに座っていた。ノートのページをめくるたびに、数式や理論が彼の視界を埋め尽くす。だが、そこに書かれた内容は、どこか不安定で、まるで森下自身の揺らいだ精神状態を反映しているかのようだった。ノートの隅には、かすれた文字で書かれたメモや走り書きが散見され、それが斉藤の胸に不安をかき立てた。


「現実と仮想の狭間…」斉藤はページの一つに書かれたそのフレーズを指でなぞった。森下が最後に取り組んでいた仮説は、並行宇宙と現実の交錯を示唆している。それが彼をどこか別の場所に導いてしまったのだろうか?斉藤の脳裏には、森下が映像で残した不安げな表情が再び浮かんだ。


「ここに答えがあるはずだ…」斉藤は自分に言い聞かせるように呟いた。そして、ノートに記された数式や仮説を一つ一つ検証し始めた。だが、それらは単なる理論にとどまらず、まるで斉藤自身を迷宮へと誘い込むかのように複雑であった。


その時、ふと斉藤はノートの一ページに貼られていた写真に気がついた。それは、森下が大学で撮影した何気ない日常の一コマだった。斉藤と森下がキャンパスの一角で談笑している様子が写されている。写真の斉藤は笑顔を浮かべていたが、そこにはもう一人の人物が写っていた。


「佐々木…」斉藤はその名を呟いた。写真には、かつての同僚であり、現在は国立研究所で働く佐々木 崇の姿があった。彼は斉藤と森下の会話に加わることなく、少し離れた場所から二人を見つめているように見えた。その表情は無表情で、何を考えているのか全く読み取れない。


「なぜ、この写真がここに?」斉藤は疑問に思いながらも、写真をじっと見つめた。森下がこの写真をノートに貼り付けたのには、何か意図があるはずだ。佐々木が森下の失踪に関わっていることは間違いない。だが、それだけではない。斉藤は写真に写った自分の表情が、何かを訴えかけているような気がしてならなかった。


「佐々木の言葉を信じるべきなのか…?」斉藤は、自問自答した。彼は森下が行った実験の危険性について佐々木から聞かされ、その忠告を受け入れた。だが、同時に佐々木の意図に対する疑念も捨てきれなかった。彼が本当に森下を助けようとしているのか、それとも何か別の目的があるのか。斉藤の中で不安が膨れ上がっていく。


その時、研究室の電話が鳴り響いた。斉藤は突然の音に驚き、しばらく呆然としたが、すぐに受話器を取り上げた。時間はすでに深夜を回っており、この時間にかかってくる電話は予期せぬものだ。


「斉藤です。」斉藤は落ち着いた声で応答した。


「斉藤先生…」電話の向こうから、かすれた声が聞こえた。斉藤はその声に聞き覚えがあったが、誰の声かすぐには思い出せなかった。


「誰ですか?」斉藤は問いかけた。


「…森下です。」その瞬間、斉藤の心臓が止まるかと思った。


「森下君…?」斉藤は息を呑んだ。だが、すぐに冷静さを取り戻し、慎重に言葉を選んだ。「君はどこにいる?無事なのか?」


しかし、森下の声は断片的で、途切れ途切れにしか聞こえなかった。「先生…私は…迷宮の中に…」


「迷宮…?」斉藤は耳を研ぎ澄ませた。だが、その声は次第に遠ざかり、雑音にかき消されるように消えていった。斉藤は焦って受話器を握りしめたが、すでに森下の声は聞こえなくなっていた。


「森下君!君はどこにいるんだ!」斉藤は叫んだが、応答はなかった。受話器からはただ、無機質なノイズが流れるだけだった。


斉藤は電話を切ることなく、そのまましばらく受話器を握りしめたまま考え込んだ。森下が「迷宮」と言ったのは何を意味しているのか?彼は本当にどこかで生きているのか?それとも、これは何者かによる罠なのか?斉藤の頭の中は混乱していた。


その時、斉藤の脳裏に一つのアイデアが浮かんだ。森下が「量子の迷宮」と名付けた現象、それが現実の中でどのように機能しているのかを解明すれば、彼の居場所を突き止める手がかりになるかもしれない。斉藤は森下の研究ノートを再び開き、彼が残した仮説と数式に目を通し始めた。


「これは単なる仮説ではない…」斉藤はページをめくりながら、自分自身に言い聞かせるように呟いた。森下が言った「迷宮」とは、彼が何かを見つけた、あるいは入り込んでしまった場所を指しているに違いない。その場所が現実の中に存在するのか、それとも仮想空間の一部なのかはまだ分からない。だが、斉藤にはもう一つの確信が芽生えていた。それは、彼がこの謎を解くことで、森下の失踪の真相に迫ることができるということだ。


斉藤はデスクの上に広げた資料と向き合いながら、研究室の静寂の中でひたすら考え続けた。森下の残した手がかり、佐々木の言葉、そして電話で聞いたかすれた声。それらすべてが一つの線で繋がり始めているように感じられた。


「ここからが始まりだ…」斉藤は決意を新たにし、再び研究に没頭することを心に誓った。森下を救い出すため、そして彼が見つけた「量子の迷宮」の真相を解明するために。斉藤の心には、もはや迷いはなかった。


研究室の外では、夜の静寂が続いていた。だが、その静寂の中に、何か不吉な予感が漂っているように感じられた。斉藤はその予感を振り払うように、再び資料に目を落とした。これからの闘いは、容易なものではない。だが、彼は森下を救い出すために、どんな困難にも立ち向かう覚悟を決めたのだった。

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