第5話 影の中で
斉藤 学は、受話器を静かに置いた後、深いため息をついた。佐々木 崇との会話で得られた情報は、森下 啓の失踪に関する疑問を深めるばかりであった。斉藤はデスクに置かれた森下の研究ノートに目を落とし、そのページを再びめくり始めた。ページには、森下が熱心に取り組んでいた量子コンピュータに関する数式や理論がびっしりと書かれていたが、その内容は斉藤にとっても理解に苦しむものだった。
「現実の一部ではない何か…」佐々木が言っていた言葉が、斉藤の脳裏にこびりついて離れない。森下が見たものは何だったのか、それが彼の失踪とどう関わっているのか。その答えを見つけるためには、斉藤自身がその「何か」に向き合わなければならないのだろうか。
斉藤はしばらくの間、ノートに書かれた数式とにらめっこしていたが、その内容がどれほどの意味を持つのかを理解するには、さらに時間が必要だと感じた。彼はノートを閉じると、立ち上がり、研究室の窓から外を見やった。キャンパスは昼下がりの静けさに包まれており、学生たちの姿もまばらだった。
「これからどうするべきか…」斉藤は自問自答した。佐々木と協力するという選択は間違っていなかったが、それだけでは森下を見つけ出す手がかりにはならないだろう。斉藤は、森下が残した最後の手がかり――「量子の迷宮」について、さらに深く調べる必要があると考えた。
その時、研究室のドアが不意にノックされた。斉藤はその音に少し驚いたが、すぐに「どうぞ」と返事をした。ドアが開き、現れたのは高村 剛刑事だった。
「斉藤教授、お時間をいただけますか?」高村は疲れた表情を浮かべながらも、真剣な眼差しで斉藤を見つめていた。
「もちろんです、高村さん。」斉藤は椅子を引き、彼を研究室の中へ招き入れた。「何か進展がありましたか?」
高村はゆっくりと部屋に入ると、デスクの前の椅子に腰を下ろした。「実は、森下さんが失踪する直前に接触していた人物について、さらに調べを進めました。その結果、彼が佐々木 崇とだけでなく、他にも数名の研究者たちと密かに連絡を取り合っていたことが分かりました。」
「他の研究者たち?」斉藤は驚いたように聞き返した。「それは誰ですか?」
「それが問題なんです。」高村は頭をかきながら、少し困惑した表情を見せた。「その研究者たちの身元を突き止めようとしたのですが、どうやら彼らは表には出てこない、いわば影の研究者たちのようなんです。実際に名前が出てきたのは、非常に限られた人物だけで、ほとんどがコードネームでやり取りしていました。」
斉藤は高村の言葉に耳を傾けながら、自分の中で何かが次第に形を成していくのを感じた。森下が関わっていたプロジェクトは、彼が想像していたよりも遥かに大規模で、しかも危険なものである可能性が高い。これがただの学術研究ではなく、何かもっと深いところで繋がっていることを示唆していた。
「その影の研究者たちが、森下君の失踪に関わっていると?」斉藤は高村の目を見つめながら尋ねた。
「その可能性はあります。」高村は頷いた。「しかし、問題は、彼らの正体が掴めないことです。まるで意図的に情報を隠しているかのようで…これ以上の捜査は難航しそうです。」
斉藤はその言葉に深く考え込んだ。もしも高村の言う通り、影の研究者たちが関わっているとすれば、森下の失踪は単なる事故や偶然ではなく、意図的に引き起こされたものかもしれない。彼が行おうとした実験は、何者かにとって大きな利益や脅威となるものであった可能性がある。
「高村さん、私たちはまだ森下君が何を見たのかを完全には理解していません。しかし、彼の失踪には必ず理由があるはずです。それを突き止めるためには、私たちが彼の研究をもう一度見直し、その中に隠された手がかりを探さなければなりません。」
「その通りです、斉藤教授。」高村は同意の意を込めて頷いた。「私たちの調査も引き続き進めますが、あなたの知識が不可欠です。森下さんが残した研究には、まだ私たちが気づいていない重要な情報があるかもしれません。」
斉藤は再びデスクに置かれた森下の研究ノートを見つめた。それを解読することが、彼を見つけるための鍵となるに違いない。しかし、その鍵を使うことで、何が開かれるのかはまだ誰にも分からなかった。
「では、私も引き続き森下君の研究を調べてみます。」斉藤は決意を固めた声で言った。「そして、彼が本当に何を見たのか、それを解明するために最善を尽くします。」
「ありがとうございます、斉藤教授。」高村は感謝の意を込めて斉藤を見つめた。「私たちも、できる限りの協力をします。森下さんが戻ってくることを信じて…」
その言葉に、斉藤は胸の奥で温かな感情が芽生えるのを感じた。森下が戻ってくる――それは、今や彼自身の使命となったのだ。
高村が研究室を後にすると、斉藤は再び森下の研究ノートに目を落とした。ページをめくるたびに、彼の頭の中では新たな仮説が組み立てられていった。しかし、その一方で、彼の心の中には、何か大きなものが動き出しているという予感があった。
その夜、斉藤は研究室を離れることなく、ひたすら森下の残した資料と向き合い続けた。キャンパスの外では、夜の帳が下り、静寂がすべてを包み込んでいた。だが、その静寂の中にも、どこか不安を掻き立てるような音が混じっているように感じられた。
「何かが近づいている…」斉藤は胸の内で呟いた。森下が残した謎、その核心に迫るための闘いは、まだ始まったばかりだ。彼の直感が正しければ、この先に待ち受けているのは、単なる科学的な解明ではなく、何かもっと深い、そして危険なものだろう。
夜が更けるにつれ、斉藤は次第に覚悟を固めていった。森下の失踪が示す真実、それを追い求めることが、今や彼の全てとなっていた。そして、彼がその真実に辿り着くまで、決して後戻りすることは許されないのだ。
研究室の窓から見える月明かりが、薄暗い部屋を淡く照らしていた。斉藤はその光の中で、決意を胸に、再び森下の研究ノートを開いた。その手には、決して諦めないという強い意志が込められていた。
斉藤は、自らの手で真実を掴むことを誓い、その夜もまた、眠ることなく研究に没頭するのだった。
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