第4話 予兆

斉藤 学は受話器を握りしめたまま、佐々木 崇の言葉を待っていた。彼の心臓は、不安と緊張で高鳴っていたが、その動揺を表に出さないよう努めていた。佐々木は、かつての同僚であり、国立研究所で秘密裏に進められているプロジェクトの中心にいる男だ。森下 啓の失踪に、彼がどのように関わっているのか、斉藤にはまったく予測がつかない。


「斉藤先生、実は…」佐々木の声が受話器から静かに響いた。「あなたと森下君に話しておかなければならないことがあるんです。彼が失踪したことについて、私にも少し心当たりがあります。」


その言葉を聞いた瞬間、斉藤の全身がこわばった。「心当たりがある、ということは…佐々木さん、あなたは森下君がどこにいるのかを知っているのですか?」


佐々木は一瞬の間を置いてから、低い声で続けた。「正確な場所はわかりません。しかし、彼が最後に行った実験が、極めて危険なものだったことは知っています。彼は…私の忠告を聞かなかった。」


「忠告?」斉藤は眉をひそめた。「一体、何を忠告したのですか?」


「彼が取り組んでいた並行宇宙に関する実験です。」佐々木の声には、かすかな焦りが含まれていた。「彼はその理論を現実に応用しようとしていたが、私はそれを止めるべきだと言いました。理論と現実の境界は、そう簡単に越えてはならない…私はそう考えたんです。」


「越えてはならない…?」斉藤は、その言葉の意味を考えた。森下が試みようとした実験は、理論の域を超え、現実の世界に影響を及ぼすものだったのかもしれない。しかし、そのリスクを理解していながらも、森下は実験を強行した。


「佐々木さん、森下君が取り組んでいた実験について、もっと詳しく教えてください。」斉藤の声には、抑えきれない焦りが混じっていた。「彼が何をしようとしていたのか、そしてなぜ失踪したのかを知る必要があります。」


佐々木は深いため息をついた。「斉藤先生、正直に言いましょう。森下君は、量子コンピュータを用いて並行宇宙の存在を実証しようとしました。そして、その実験の中で…彼は、ある異常現象に遭遇したのです。」


「異常現象…?」斉藤はその言葉に背筋が凍るような感覚を覚えた。森下が直面した「量子の迷宮」という言葉が、彼の頭の中で再び響いた。


「そうです。」佐々木は続けた。「彼は、実験中に何かを見たと私に言いました。それが何なのかは正確には説明できなかったが、彼の言葉によれば、それは現実の一部ではない『何か』だったと。」


「現実の一部ではない『何か』…」斉藤はその言葉を繰り返した。森下が見たものは、並行宇宙の一部なのか、それとも彼の精神が作り出した幻想なのか。斉藤の頭の中には、無数の疑問が浮かんでは消えていった。


「私は彼に実験を中止するように説得しました。」佐々木の声はどこか遠く感じられた。「しかし、彼は聞く耳を持たず、さらなる実験を行うと言って私のもとを去りました。それが、彼を最後に見た時のことです。」


「それが最後だったのですね…」斉藤は呟いた。森下が何かに取り憑かれたように実験を続けた結果、彼の身に何が起きたのか。それを確かめなければならないという思いが、斉藤の胸に沸き上がった。


「斉藤先生…」佐々木の声が再び低く響いた。「森下君が見たもの、それが本当に何であったのかを解明するのは、もはや不可能かもしれません。しかし、私たちはそれを追い求める必要があります。さもなければ、彼が消えた理由も、そして彼が何を残そうとしたのかも、永遠に闇の中に葬られてしまうでしょう。」


「追い求める…」斉藤はその言葉に、自らの使命を感じ取った。森下が見たもの、そして彼が残そうとしたもの。それが何であれ、斉藤にはそれを解明する責任がある。そして、その先に待つのが、どのような現実であろうとも、彼はそれに立ち向かわなければならない。


「佐々木さん、あなたはこれからどうするつもりですか?」斉藤は静かに尋ねた。


「私は…引き続き、この現象を研究し続けます。」佐々木は毅然とした声で答えた。「私たちが見つけたものが、ただの幻影なのか、それとも実在する何かであるのか。それを確かめるために、私は研究を続けます。そして、もしあなたが協力してくれるのであれば、私たちは森下君の足跡を辿ることができるかもしれません。」


斉藤は受話器を握りしめたまま、しばし沈黙した。彼の頭の中では、森下が残した映像と佐々木の言葉が入り混じり、混乱を引き起こしていた。しかし、その混乱の中から、一つの確信が浮かび上がった。


「分かりました。」斉藤はついに口を開いた。「私はあなたと協力します。そして、森下君が見たものを解明するために全力を尽くします。」


「ありがとうございます、斉藤先生。」佐々木の声には、どこか安堵の色が混じっていた。「私たちがこれから対峙するものが何であれ、それに向き合う覚悟を持って進みましょう。」


「ええ、覚悟を持って…」斉藤は静かに応じた。そして、彼は受話器をゆっくりと置いた。心の中には、これから直面するであろう未知の領域への恐れと、森下のために真実を解き明かすという強い決意が交錯していた。


斉藤はデスクに向き直り、森下の研究ノートを再び手に取った。その手は、先ほどまでの迷いが消え、確固たる意志を持っていた。森下が最後に残した手がかりを元に、彼がたどり着こうとした真実を追い求めるため、斉藤は新たな決意を胸に、研究を再開する準備を整えた。


キャンパスの外では、朝の光が静かに広がり、研究棟を包み込んでいた。しかし、その光の中にも、どこか不穏な影が漂っているように感じられた。斉藤はその影に気づきつつも、前へ進むしかないと心に決めた。彼の目の前には、「量子の迷宮」という巨大な謎が待ち受けていた。それを解き明かすための旅は、まだ始まったばかりだった。

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