第3話 記憶の断片

朝日がようやくキャンパスを照らし始めた頃、斉藤 学は再び研究室を後にして、自らのオフィスへと足を向けていた。頭の中には依然として森下 啓が残した映像と「量子の迷宮」という言葉がこびりついて離れない。彼が見たもの、そして経験した恐怖。それが何であれ、斉藤にとっては理解の範疇を超えた現象だった。


廊下を歩く斉藤の脳裏に、もう一つの名前が浮かんできた。佐々木 崇――かつての同僚であり、現在は国立研究所で働く科学者。森下が彼と接触していたという事実が、斉藤の胸に一抹の不安を残していた。佐々木は、冷徹でありながらも科学のためには手段を選ばない男だ。彼が森下と一体何を計画していたのか、それを解明しなければならない。


斉藤がオフィスに戻ると、デスクの上には山積みになった書類と本が広がっていた。普段ならば気にならないその雑然とした景色も、今の彼にはどこか居心地の悪さを感じさせた。彼は無造作に書類の山を一瞥し、やがてその中から一冊のノートを取り出した。これは、森下が以前に渡してくれた研究ノートだ。彼はそれを開き、何か手がかりが残されていないかを確かめようとした。


ノートには、森下が考え抜いた計算式や仮説がびっしりと書き込まれていた。斉藤はページをめくりながら、森下が何を考えていたのか、その思考の過程を追っていく。だが、次第に彼の頭は重くなり、視線は徐々にぼやけていった。


「…休息が必要だな…」斉藤は、瞼の重さに耐えられず、デスクにうつ伏せになるようにして目を閉じた。だが、その瞬間、彼の意識は遠のき、深い眠りに引きずり込まれていった。


***


暗闇の中で、斉藤は一人立っていた。どこにいるのか、何が起きているのか、全く分からない。ただ、不気味な静寂が周囲を包み込み、その静寂が彼の心に重くのしかかっていた。突然、遠くの方からかすかな足音が聞こえてきた。それは徐々に近づき、彼の前で止まった。


「先生…」森下の声が耳元で囁かれるように響いた。斉藤は声の方向に振り返ったが、そこには誰もいない。ただ、森下の声だけが何度も繰り返される。


「先生…私を…見つけてください…」


斉藤の胸に冷たい汗が流れる。声はますます近づいてくるが、森下の姿は見当たらない。そして突然、彼の目の前に「量子の迷宮」という言葉が浮かび上がった。それは、まるで生きているかのように揺れ動き、斉藤を飲み込もうとするかのようだった。


「森下!」斉藤は叫んだが、その声は虚しく暗闇に吸い込まれていった。周囲の景色がぐにゃりと歪み始め、斉藤は立っている感覚を失っていく。どこが上でどこが下かも分からないまま、彼は無重力の中を漂うような感覚に襲われた。


その時、不意に彼の目の前に森下が現れた。彼は斉藤をじっと見つめ、その表情には絶望が刻まれていた。


「先生…」森下は手を伸ばし、斉藤に何かを渡そうとしていた。しかし、その手は斉藤に届くことなく、次第に霧のように消え去っていった。


斉藤は必死に手を伸ばしたが、森下はすでに消えていた。そして再び、彼の目の前に「量子の迷宮」の文字が浮かび上がり、その言葉が彼の頭の中でこだまのように反響した。


***


斉藤はハッと目を覚ました。彼の額には冷や汗が滲んでいた。デスクの上には、森下の研究ノートが開かれたまま置かれていた。時計を見ると、わずかに数分しか経っていなかったが、斉藤にとっては長い時間が経過したように感じられた。


「夢…か…」斉藤は息を整えながら、夢の中で見た森下の姿を思い返していた。夢とはいえ、その光景はあまりにも現実的で、彼の心に深い印象を残していた。森下が手を伸ばして何かを渡そうとしていたこと、それが一体何を意味しているのかは分からない。ただ、斉藤の中には、森下がまだどこかで助けを求めているという感覚が拭いきれなかった。


斉藤はふと、研究ノートに書かれたある一節に目を止めた。そこには、森下が最後に考えていた仮説の断片が書かれていた。


「並行宇宙の接点…その交錯が現実に与える影響…」


斉藤はその言葉を何度も繰り返し読み返した。夢の中で見た光景と、この仮説が何か深い関係を持っているように感じた。そして彼は決意を新たにした。森下の行方を追い、彼が残した謎を解き明かすために、この仮説を検証しなければならない。


その時、斉藤のオフィスのドアがノックされ、研究室の秘書が顔を覗かせた。「斉藤先生、佐々木 崇さんからお電話です。すぐにお話したいとのことですが…」


斉藤は心の中で大きく動揺したが、それを表に出さないよう努めた。「分かりました。すぐに繋いでください。」


電話の向こうで、佐々木が何を話そうとしているのか、斉藤には全く予測がつかなかった。ただ一つ言えるのは、森下の失踪の裏に、彼が深く関わっている可能性が高いということだ。


受話器を手に取った斉藤の手には、かすかな震えが感じられた。彼は深呼吸をしてから、冷静な声で応答した。「斉藤です。佐々木さん、お久しぶりですね。」


「斉藤先生、お元気ですか?」佐々木の声は穏やかだったが、その裏に隠された意図を読み取ることはできなかった。「突然の連絡で驚かせてしまったかもしれませんが、どうしてもお話ししなければならないことがありまして…」


斉藤は受話器をしっかりと握りしめた。「話したいこと…それは森下君に関することですか?」


一瞬の沈黙があった後、佐々木の声が再び響いた。「ええ、もちろんです。実は…」


その時、斉藤は再び夢の中で聞いた森下の声が耳元で囁くように感じられた。「私を…見つけてください…」


斉藤はその声を振り払うように、佐々木の言葉に耳を傾けた。これから話されることが、すべての謎を解き明かす鍵となるかもしれない。その直感に従い、斉藤は心を集中させた。

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