第2話 迫り来る影

夜が明け、薄明かりが研究棟の窓から差し込む頃、斉藤 学は机に向かって疲れた目をこすっていた。森下 啓が突如姿を消してから、もう丸一日が経とうとしていた。彼はほとんど眠らずに、森下が残した手がかりを必死に追っていた。斉藤の頭の中には、「量子の迷宮」という謎めいたメモと、森下の失踪の真相を解明するという使命感が混在していた。


斉藤の眼鏡のレンズには、パソコンの青白い光が映り込んでいた。彼は、森下のノートパソコンを再び開き、昨日見つけた暗号化されたフォルダをもう一度確認するために、パスワードを入力した。森下がなぜこんなにも慎重にデータを隠したのか、その理由がどうしても解けなかった。


「何がここに隠されている…?」斉藤は、つぶやきながら、画面に表示されたファイルのリストをスクロールした。リストにはいくつかの動画ファイルと、データが詰まった数枚の画像が表示されていた。その中でも、特に目を引いたのは、無題のまま保存されている動画ファイルだった。斉藤は迷わずそのファイルをクリックし、再生ボタンを押した。


画面に現れたのは、薄暗い部屋の中に設置されたカメラの前に座る森下の姿だった。彼はカメラに向かって真剣な表情で語りかけていたが、その顔には疲労の色が濃く漂っていた。森下の周囲には、散乱した資料や、未完成の計算式が書き殴られたホワイトボードが見えていた。


「もし、これを見ているのが斉藤先生なら…」森下の声は、画面を通してもなお、どこか震えているように感じられた。「あなたにだけは知っておいてほしい。私が今進めている研究は、危険な領域に達しています。量子コンピュータの計算によって、並行宇宙が現実と交錯し始めている。その結果、私は…ある場所に迷い込んでしまった。」


斉藤は映像に引き込まれるように、画面に釘付けになった。森下の表情は緊張と恐怖に満ちており、彼が本当に恐ろしい体験をしていることを物語っていた。


「そこは…まさに『量子の迷宮』としか言いようのない場所です。」森下は唇を震わせながら続けた。「現実と虚構が入り混じり、出口が見えない。私はこのままここに閉じ込められてしまうかもしれない…そんな恐怖に駆られています。もし私がここから戻れなくなった場合、先生、どうか…どうか、私の研究を止めてください。」


森下は一瞬、カメラから視線を外し、何かに耳を傾けるように顔を上げた。その動作に、斉藤の心臓が跳ね上がった。森下は何かに怯えているのだ。その「何か」が何であるのか、斉藤には見当もつかなかったが、森下が感じた恐怖がこちらにも伝わってくる。


「私の研究が、世界に与える影響は計り知れないものになるかもしれない…その危険性を、私自身も完全には理解しきれていないんです。だから、お願いです、先生。私がもし…戻れなくなったら…」


その瞬間、森下はカメラの方をじっと見つめ、最後の力を振り絞るように言葉を続けた。「あなたにすべてを託します。私を、そして私の研究を…守ってください。」


映像はそこで途切れた。斉藤はしばらく動けなかった。目の前の画面に映し出された森下の姿は、ただの映像ではなく、彼の魂の叫びそのものだった。斉藤は、深く息を吐き出した。森下が経験したこと、それは斉藤の常識をはるかに超える未知の領域の出来事であり、それが彼の失踪の原因であることは明らかだった。


「本当に…これが現実で起きたことなのか…?」斉藤は震える手でパソコンを閉じ、頭を抱え込んだ。科学者として、斉藤は常に冷静であろうとしてきたが、今回の事件はその理性を揺るがすものだった。森下の残した警告が、彼の心に重くのしかかる。もしこれが事実であるならば、彼自身もその危険に巻き込まれることになる。


斉藤が再び冷静さを取り戻そうとしたその時、研究室のドアが静かに開く音がした。斉藤は一瞬、心臓が止まるかと思ったが、入ってきたのは若手刑事の高村 剛だった。彼は大学で発生した森下の失踪事件に興味を持ち、独自に調査を進めている刑事だった。


「斉藤教授、おはようございます。」高村は研究室に足を踏み入れ、部屋の様子を一瞥してから斉藤に視線を向けた。「森下さんの件で、新しい手がかりが見つかったとお伺いしたのですが、何か進展はありましたか?」


斉藤は一瞬の逡巡の後、森下の残した映像について話すべきかどうか迷った。彼の言葉はあまりにも現実離れしており、容易に他人に伝えられるものではなかった。しかし、高村が森下の失踪に深く関心を持っている様子を見て、斉藤は一部を伏せながらも状況を説明することにした。


「まだ全貌は見えていませんが、森下君が取り組んでいた研究に何か重大な問題があったようです。」斉藤は言葉を選びながら話し始めた。「彼の研究が、予想を超えた領域に達してしまったのかもしれない。それが、今回の失踪に繋がっている可能性があります。」


高村はその言葉を真剣な表情で聞いていた。「重大な問題…それが、具体的にどのようなものか分かりますか?」


「それはまだ…確信はありません。」斉藤は苦い表情を浮かべた。森下の映像の内容を思い出しながら、彼は言葉を慎重に選んだ。「ただ、彼が非常に危険な実験を行っていたことは確かです。その結果がどうなったのか、彼自身も完全には把握していなかったようです。」


高村は黙って頷いた。彼の目には鋭い光が宿っていた。「斉藤教授、実は昨晩、森下さんが最後に接触したと思われる人物について、少し情報を得ました。どうやら、国立研究所の佐々木 崇という研究者が、彼と密かに連絡を取っていたようです。彼の役割についてはまだ不明ですが、何か大きな計画が進行しているのではないかと疑っています。」


「佐々木 崇…」斉藤はその名前に覚えがあった。彼はかつての同僚であり、非常に優れた科学者として知られていた。しかし、佐々木は常に秘密主義であり、彼の研究内容が外部に漏れることはほとんどなかった。彼が森下と接触していたというのは、何か非常に重要な事実を示唆しているように感じた。


「彼が森下の失踪に関わっているというのか?」斉藤は眉をひそめながら高村に尋ねた。


「まだ断定はできませんが、佐々木が森下の研究に関心を持っていたことは確かです。」高村は冷静に答えた。「私たちも、彼の行動を追っていく必要があると考えています。」


斉藤は考え込んだ。森下の失踪、量子の迷宮、そして佐々木 崇…これらすべてが一つの線で結びつき始めている。しかし、その線がどこに向かっているのか、まだ彼には見えてこない。


「分かった、私も佐々木の動きを調べてみる。」斉藤は決意を込めて言った。「もし彼が何かを知っているなら、必ず突き止める。」


高村はその言葉に頷き、研究室を後にした。斉藤は再び一人になり、静寂が研究室に戻ってきた。彼は深く息を吸い込み、頭の中でこれまでの情報を整理し始めた。次に何をすべきか、その考えはすでに固まりつつあった。


森下が残した映像、佐々木 崇の存在、そして「量子の迷宮」。すべてが繋がりつつある中で、斉藤は自分が進むべき道を見定めた。彼が追い求めるべきは、森下の命と、その背後に潜む科学の闇だ。その闇の中に、彼が探している答えが隠されていることを確信しつつ、斉藤は次の一手を打つ準備を進めていった。

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