仮想世界が現実を侵食する――科学の最先端で起きた、禁断の実験。その先に待つのは、真実か、それとも無限の迷宮か。

湊 町(みなと まち)

第1話 失踪

朝の冷たい空気が、名門大学の広々としたキャンパスに静かに広がっていた。早朝の静寂の中、斉藤 学は重い足取りで研究棟へ向かっていた。普段より少し早めの時間だが、彼にとってはこれが日常だった。物理学の最先端を切り開くためには、時間を無駄にすることは許されない。今日も、いつものように研究に没頭する一日が始まるはずだった。


キャンパスには、まだ朝霧が薄く漂い、学生たちの姿はほとんど見られない。わずかに聞こえる鳥のさえずりが、静けさを一層際立たせていた。斉藤は、この静寂の中で、自らの思考を整理する時間を楽しんでいた。新しい理論の構築や実験の設計、次に解決すべき問題が次々と頭の中を駆け巡る。彼にとって、これは日課の一部であり、この時間があるからこそ、研究に集中できるのだ。


研究棟に到着し、階段を上がりながら、斉藤は今日の予定を頭の中で確認していた。午前中は学生たちとのディスカッション、その後は量子コンピュータに関する最新の実験データの解析。午後には、森下と共に進めている並行宇宙に関する仮説の検証が待っている。森下 啓――斉藤の最も信頼する若手研究者であり、彼の研究を支える右腕だった。


研究室のドアを開けた瞬間、斉藤はいつもと違う違和感を覚えた。机の上には、昨晩遅くまで使われていたと思われる資料が散らばっている。だが、肝心の森下の姿が見当たらない。森下は常に誰よりも早く研究室に入り、斉藤が来る頃にはすでに一日の作業を始めているはずだった。しかし今日は、その姿がどこにもない。


「森下君?」斉藤は、机の向こう側を覗き込んで声をかけた。だが、返答はない。彼は椅子に座ると、机の上に残された資料を一つ一つ手に取って確認し始めた。目に入ったのは、昨晩の実験結果が記されたグラフや、森下が書き留めたメモの数々。しかし、資料にはどれも重大な進展を示すような兆しは見当たらなかった。


その時、斉藤の目に一枚の紙切れが飛び込んできた。机の隅に無造作に置かれていたそれには、黒いインクで「量子の迷宮」とだけ書かれていた。文字はどこか乱れ、焦りを感じさせる筆跡だった。


「量子の迷宮…?」斉藤は、その言葉を口にしながら、何かが胸の奥で引っかかるのを感じた。森下は、いつも几帳面にメモを残す男だ。こんな漠然とした言葉を残して姿を消すようなことは、普段の彼からは考えられない。


斉藤はメモをしばらく見つめた後、ゆっくりと深呼吸をした。森下は最近、並行宇宙に関する仮説にのめり込んでいた。それは、量子コンピュータを用いて現実世界の外にある「別の現実」を探ろうとする極めて挑戦的な研究だった。森下がその仮説を立てた時、斉藤はそれが理論的に可能かもしれないと考え、彼の情熱に同意した。しかし、まだその実証には至っていないはずだった。


「一体、何があったんだ…?」斉藤は、メモを再び机に置くと、森下が座っていた椅子を引き寄せ、そこに腰を下ろした。彼の視線は、散らばった資料の間に浮かぶ「量子の迷宮」の言葉から離れなかった。その文字は、どこか不吉な響きを持ち、斉藤の胸に重くのしかかっていた。


考えを整理するため、斉藤は森下のノートパソコンを手に取った。画面を開くと、パスワードの入力を求める画面が現れる。斉藤は躊躇することなく、森下がよく使っていたパスワードを入力した。画面が立ち上がると、すぐにいくつかの未送信メールと、開いたままのプログラムウィンドウが目に入った。しかし、メールはどれも未完のまま、内容が途中で途切れている。プログラムも中途半端な状態で停止していた。


「これは…」斉藤は、画面を見つめながら呟いた。森下が何かに追われていたのか、それとも急に何かが起こったのか。彼はパソコンの中のファイルを次々と開いていったが、重要なデータは全て消去されているか、保存されていない。斉藤は、データが誰かに盗まれたのではないかという考えが頭をよぎった。


時間が経つにつれ、斉藤の胸中の不安はますます膨らんでいった。森下は一体どこに消えたのか?突然姿を消すような男ではない。斉藤は立ち上がると、すぐに大学の事務室へ向かった。彼の行方を知る者がいるかもしれないと考えたのだ。


事務室で、斉藤は落ち着かない様子で森下の所在を尋ねた。しかし、返ってきた答えは予想通りのものだった。「森下さんはまだ出勤していないですね。今日は特に連絡もありませんが…」


斉藤は、胸の奥で冷たい感覚が広がるのを感じた。彼はそのまま、研究室に戻る前に、大学内を歩き回って森下を探した。しかし、誰も彼の姿を見た者はいなかった。彼の携帯電話にも何度かかけてみたが、応答はなく、留守番電話に切り替わるだけだった。


研究室に戻った斉藤は、再び机に置かれた「量子の迷宮」のメモを手に取った。この言葉が何を意味するのか、斉藤の頭の中には無数の疑問が浮かんでいた。森下が取り組んでいた研究が、何かとてつもなく危険な領域に踏み込んでしまったのではないか?そして、それが彼の失踪に繋がったのではないか?


その夜、斉藤は研究室に残り、森下の残した手がかりを元に、彼の行方を追おうと決意した。時間が経つにつれ、彼の不安は疑念へと変わり、さらには恐怖に近い感情へと変化していった。森下は、何か重大な発見をしたのか?その発見が彼をどこへ導いたのか?そして、「量子の迷宮」とは一体何なのか?


斉藤は、深い謎の入り口に立たされていることを直感していた。それは、これまでの彼の科学的探究を遥かに超える、未知の領域への旅の始まりだった。


夜が更け、キャンパス全体が静まり返る中、斉藤は独り、薄暗い研究室で森下が残した謎を見つめ続けた。そのメモの文字が、まるで彼をどこか遠い場所へと誘うかのように、静かに輝いているかのように思えた。森下の失踪という出来事が、彼の運命を大きく変えようとしていることを、斉藤はまだ知らなかった。


彼は決意した。森下が残した謎を解き明かし、彼を見つけ出す――それが、彼の新たな使命となったのだ。

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