藺草と鉄

@mymy_2138

藺草と鉄

 畳を張り替えた。横になって大きく深呼吸した。吸い込んだ空気は、爽やかな草の香りと、少しの墨の匂いが混じりながら鼻を抜けていく。ほんのわずかに鉄の臭いがした。

 錆びた金属のような形容しがたい臭いがやけに鼻腔をくすぐっていく。そこまで気になる訳ではないが、新品の畳にしては妙な感じだ。



 ─ピンポーン♪︎─



こんな片田舎の家に訪ねてくるのはお隣さん(400m程離れているが)か新聞の勧誘ぐらいだ。一瞬、居留守でもしようかと思ったが仕方なく戸を開けた。


「あ、こんにちはー!これから近くで水道管の工事をするんですけども、ちょっと大きい音が出ますんで、申し訳ないですがしばらくご協力よろしくお願いします。」


「あぁ…それはどうも…。」

(鉄臭さの原因は水道工事か。びっくりした…)


「んにしてもお若いですなぁ…!ここら辺の人ら、お年寄りばっかりでしょ?玄関に靴が少ないのを見ると、もしや一人暮らしですか?」


「えぇまぁ…。」



 “おっちゃん”とはなぜこうも一度話を切り出すと止まらなくなるのだろうか。いやまあ確かにご老人の家ばかり挨拶に回っていたら、俺のような20代前半なんて珍しいのだろうが。



「いいですねぇ!この暑い日に甚平(じんべ)なんて涼しくていいじゃないですか。なんか若い人たちの間で“古民家暮らし”とかブームなんでしょ?」


「いや別に…家は祖父から譲り受けたものですし、服も仕事柄、薄手のものがいいので。」


「ほう!それはどんなお仕事で!?」



 男の目が『知りたい』と訴えかけてくる。ここで職業を隠したところで、田舎じゃご近所さんが勝手に教えてくれる。ちょっと考えてから「お茶でも飲みながら」と家に招き入れた。

 築70年の木造平屋。キッチン・寝室・風呂場に庭までついた、一人暮らしにはもったいない広い家だ。曾祖父から祖父に譲られ、隣の県で働く父ではなく俺へと受け継がれた。古い家だが耐震工事と何度かのリフォームも重ね、先日ホームセンターで買い替えた家電やインターホンは新品でピカピカだ。電気水道ガスにWi-Fiまで完備された、俺の自慢の“城”だ。



「すみません…お茶に合うものがなくて、チョコレートのお菓子ぐらいしか用意できないんですが…」


「いえいえそんな!わざわざお茶まで頂いて。あ、これ中にちっちゃいクッキーが入ってるやつですよね。それじゃ、お言葉に甘えていただきます。」



 蒲田(かまた)と名乗った男はタオルで額の汗を拭いながら麦茶を美味しそうに飲み干した。外はよっぽど暑かったのだろう。出不精で昼間は家から出たくないタイプなので、外で汗を流しながら働いている人は尊敬できる。



「それで、白浜さんのご職業をお伺いしても?」


「……見てもらった方が早いですかね。」



 家の一番奥の部屋に過去の作品を置いてあり、襖で仕切られた一つ手前の部屋が俺のアトリエだ。掛け軸、扇子、うちわ、大量に積み上げられた半紙の束。大筆から仮名筆まで様々な筆が並べられ、硯(すずり)や墨がちょうどいい位置に用意されている。



「これはすごい…。白浜さん、書道家なんですね。」


「不安定ですが、作品を売ったり依頼を受けて生活してるんです。もっとも、まだまだ祖父たちには勝りませんし、業界の中では青二才もいいところですが…」


「いやいや、素人目から見ても凄い作品ばかりですよ!それに白浜優(しらはま ゆう)なんていいお名前ね。もう少しだけ作品を見させて頂いても?」


「えぇどうぞ。ゆっくりご覧になってください。」



 慢心はいけないと祖父から散々言われてきたが、やはり自分の作品が誉められると鼻が高い。自分の手から生み出された作品が言葉として意味を持ち、人の目に映り心を動かすことができたら、書道家としてそれほど嬉しいことはないだろう。



「そうだ蒲田さん、今日の水道工事で、例えば臭いの出るような作業とかしましたか?」


「いえ?今日は下水の方には何もしないですし、時間もそんなにかからないですよ。まぁ、そのおかげでこうやってゆっくりできるんですけど。」



 ニヤリと笑った蒲田は、また作品をまじまじと見つめながらゆっくり息を吸い込んだ。



「それにしてもこのお部屋、なんともいい匂いがしますね。墨と畳の匂いがいい具合に混ざって気分が落ち着きますなぁ。」


「ちょうど昨日の夕方に畳を張り替えたばかりなんですよ。前の畳は汚れてダメになってしまって。」


「あらー高かったでしょうに、墨でもこぼしたんですか?」


「まぁそんなところですね。」



 ひとしきり作品を見終わると、蒲田はお礼をして帰っていった。たまにはああいう人が訪ねてくるのも楽しいかもしれない。そう考えながら優はアトリエの新しい畳に横になった。

 呼吸のペースがだんだんとゆっくりになっていく。鼻を通るのは活きた草の香りと立ち込める墨の匂い。身体の力がゆっくりと抜けていって心地よい眠りに落ちてゆく。昼寝をするなら畳の上に限る。



 ─ジリリリリリ!···ジリリリリリ!─



 1時間ぐらい経った頃だろうか。また呼び鈴がうるさく鳴った。水道の工事が終わった挨拶だろうか。空は綺麗な夕焼け色に染まり、山の向こうの夜と夕方の狭間は薄い紫色になっている。眠気の覚めない目を擦りながら玄関を見ると、どうやらガラス越しに映る人影は蒲田のものではないようだ。



「おーい優ー?居るのか?」


「なんだよ、柿原かよ。」


「なんだよってなんだよ。人がせっかく顔見にきてやったのに。」



 訪ねてきたのは幼馴染みの柿原裕二郎(かきはら ゆうじろう)だった。お互い大学進学以来離れた所に住んでいるが、両方の家が電車で通いやすいため、こうしてたまに家に遊びに行ったり来たりしている。

 柿原が手にもっているビニール袋にうっすらと見えるのはスーパーのお刺し身や唐揚げに、柿原の好きなチョコレート菓子。反対の手で缶ビールを取り出すとニヤニヤしながら無言でこちらを見つめてくる何も喋らなくても顔がうるさいのは昔から変わらない。



「ぷはぁぁぁ!!いやぁ、ここは空気がうめぇなぁ!空気が旨いと酒も旨くなるわ!」


「はいはい楽しそうでなにより。ねぇちょっと醤油取って。」


「ほいよ。」


「ありがと。……何も言わずにわさびも取ってくれるじゃん……。」


「そりゃお前の考えることなんてお見通しだからな。どうせ最後に刺し身の上のタンポポまで食べるんだろ?」


「タンポポは消化にいいんだよ。」


「それ本当かぁ?」



 一人で食べるごはんは味をしっかり噛みしめられて好きだが、人と食べるごはんは会話も相まってさらに好きだ。小さなちゃぶ台に並ぶ温かい料理の数々。お互いの作品の写真を見せ合ったり、くっだらない芸術論についてだべったり。

 俺らって変わらないな、と思いつつもそれにやや安心している自分がいた。



「やっべ!そろそろ終電じゃねえか!」


「またこのパターンか…。どうせ今夜も泊まっていくんだろ?」


「もち。歯ブラシと明日の服は持って来てるし。」


「やばすぎるだろお前。」



 楽しい夜はあっという間に更けていき、柿原が風呂に入っている間に優は作品を片付けて布団を二枚敷いた。一人暮らしの家に布団が二枚も用意してあるのも柿原がしょっちゅう泊まりに来るせいだ。



「ふぅーぃい、サッパリしたー。あっ、布団敷いてる!やっほぉーい!!」


「あぁこら!飛び込んでくるなよ!」


「あっははは!楽しいぃぃ!」


「こいつ完全に酔ってやがる…。」



 柿原が悪ふざけを始める前に部屋の電気を消して布団に入る。蚊屋を張って蚊取り線香を焚いていれば、夏の夜でも涼しく過ごせるのがこの町のいいところだ。仰向けになって薄明かるい夜空を眺めていると、隣でスマホを触っていた柿原も一緒になって夜空を見上げた。



「いい家だな。」


「ひいじいさんもこの家で五感を研ぎ澄ませながら筆を握っていたんだと思う。」


「優の家はずっと書道やってるもんな。」


「柿原は、絵の道で食べていくこと、おじさんたちに許してもらったのか?」


「許してもらったんじゃなくて“認めさせた”の。まぁ下手したら勘当されるところだったけど…」


「なんかあったらいつでもうちに来いよ。部屋余ってるからそこで絵も描けるし。……なんなら、一緒に住むのもいい…かもな。」


「………うん。…そうだ優!明日も暇だろ?久しぶりに川に遊びに行こうぜ。」


「明日もってなんだよ、別に暇って訳じゃ」


「優頼むよ。もう時間がないんだ。」


「……?」



 暗い部屋の中で柿原の瞳が優しく光る。このキラキラ光る宝石みたいな目に昔から惑わされてきた。小学生のときのコンクールで俺の作品を見てた目が、あまりに輝いていたから書道を続けた。

 俺のことを何でもお見通しだとか言っておいて、俺の気持ちなんて知りもしない。お前がいきなり家に転がり込んでくる度に俺がどんな想いをしてるかなんて想像もしないで。



「そ、そんな急にお別れみたいなこと言うなよ。」


「お別れみたいなもんだよ。」


「だからどういうことだよ!」


「……フランスに留学することになった。向こうの大学から声をかけられて、学費を格安にするから来ないかって。寝泊まりは学生寮でして、向こうで絵を描いてそれを売りながら勉強するつもりだ。」


「留学って…どれぐらいで帰って来れるの?」


「大学は4年だけど、卒業してからもしばらくはフランスで画家の修行をしたい。」



 目の前で親友が話している言葉の意味がよくわからなかった。俺たちが白い紙に広げる世界は違うけれどずっと一緒にいられると思っていた。ほぼ毎日メールして、休日には遊びに出掛けて、今日みたいに二人で食卓を囲んで、ずっとこんな幸せが続くはずだった。



「それって…もうお別れじゃん…」


「大丈夫だって。今時スマホさえあれば電話もメールもできるだろ?あ、時差って何時間ぐらいだっけ?」


「なんで、なんでそんな平気そうなんだよ!寂しくならないの?日本に残していくもの、人に、そんなに執着がないの?!」


「優…」



 自分でもわかっている。俺が今、柿原が進みたい道の邪魔になっていること。ここで「一緒にフランスに行く」と言えればいいのだろうが、そうすると俺がこの家を置いていくことができない。

 手放したくないものがどちらかしか選べない状況でどちらも選べないのは、自分の心の弱さのせいだ。



「優、もしフランスから帰ってくるときには、真っ先にこの家に帰ってくるよ。フランスに行っても俺絶対にすぐ帰りたくなると思う。だからさ、優は日本で頑張ってくれ。日本で優が頑張ってたら俺はお前よりも頑張ったって胸張って帰国できるまで、絶対に諦めないから。優は俺が頑張る理由だから。」


「ちがう…違うよ。俺はただ、お前と一緒にいたいだけなのに、なんでお前ばっかり先に進んでいくんだよ…!お前が俺の字を綺麗だって言ってくれたから俺はずっと頑張ってきたんだ!お前が、家にいるより、俺と一緒にいる方が気持ちいいって言ってくれたから!俺もずっと一緒にいたいって想い始めたんだ……。」


「……小学校の図工の時間。色鉛筆で描いた花の絵をお前が褒めてくれたのが嬉しくてさ。それ以来ずっと花とか植物の絵ばっかり描いてる。優の目に映る世界が、少しでも美しくあるように、って思いながら。」


「だ…だめだ。俺、俺さ、お前のことを応援したい気持ちと、行かないで欲しい気持ちが同じぐらいあってさ、心が二つあるんだよ…。」


「ったく、ほら泣き虫優!いつまでも泣いてんなよ。そうだ、またちっせぇときみたいに一緒の布団で寝るか!」


「うるせぇ……わ!ちょ、勝手に入ってくんなよ!」



 存在しないものが欲しかった。存在しないとわかった上でもなお欲しかった。ただ、永遠が欲しかった。



 深夜2時半。街頭や家の明かり一つない田舎の夜は虫や野生の動物たちがひっそりとざわめいている。



「あぁ…腰痛ぇ…」



 一歩ずつ一歩ずつ、柿原が起きないようにキッチンへと向かう。リフォームしたとは言え古い家なので、床がギシギシと鳴らないようにゆっくりと足を出す。キッチンの入り口に垂れている玉すだれも音が鳴らないように姿勢を低くしてくぐっていく。

 さいごのさいごまで踏み留まろうとして、涙が溢れるのを必死に堪えて、おもいっきり突き刺した。



 ─ピンポーン♪︎─



「すみませーん、蒲田です。水道の工事が終わりましたのでご挨拶に来ました。……あれ、白浜さん留守かな?」



 蒲田が汗を拭いながら帰ろうとすると、縁側越しに畳の上で昼寝をしている優を見つけた。昼間に見せてもらった白浜優先生のアトリエは、道具を片付けるとちょうどいい昼寝スペースになるらしい。



「気持ち良さそうに寝てるなぁ。男前ってのは何やっても絵になるもんだ。さぁさ、俺も早く帰るか。」



 畳を張り替えた。横になって大きく深呼吸した。吸い込んだ空気は、爽やかな草の香りと、少しの墨の匂いが混じりながら鼻を抜けていく。



ほんのわずかに鉄の臭いがした……気がした。

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