小学2年生、夏

@Since2024

第1話

夏の日差しが強くなってきた7月初旬、小学2年生の鏈は学校からの帰り道、クラスメイトと共に公園に差し掛かる。木々は真緑に染まり、蝉の鳴き声が響きはじめていた。


いじめは日に日にエスカレートしていた。鏈は両親に相談することもできず、毎日不安を抱えた日々を過ごしていた。


「返して、返してよ!」


いつも帽子をつけている鏈。いじめられる理由はその違いだけで十分だった。


「それっ」


仲間で帽子をパスし合い、取り返そうとする鏈をからかう。次第にエスカレートしていき、帽子は公園の隅にある小さな祠にぶつかった。


「鏈のばちあたりー!」


鏈は帽子を取ろうとした。古びた祠は苔むして、手入れされている形跡がなかった。引き寄せられるように祠を見ていると突然、微かな声が聞こえてきた。


「苦しいかい?」


驚いて後ずさりしたが、声は続いた。


「私は霧幻と言う。君が望めば、いじめを消してあげよう」


霧幻の提案に興味を感じつつ、鏈は震える声で答えた。「本当に、いじめをなくせるんですか?どうやって?」


「ああ、できるとも。君の体を一時的に貸してくれればな…」


鏈は迷った。けれども、今まで自力で解決出来なかった事を考えると、選択の余地はなかった。


「わかりました。お願いします、霧幻様。」


「パシン」


鏈の体は突然動き出した。意識はあるのに、自分の意志ではない。鏈の手が素早く動き、リーダー格の男子の頬を力強く叩いた。鋭い音が響き、周囲が静まり返る。


彼らは驚愕の表情を浮かべ、リーダーは頬を押さえたまま、困惑した目で鏈を見つめた。


「二度と俺に近づくな」


鏈の口から出た言葉は低く、冷たかった。彼らは慌てて逃げ出した。


その日の夜、霧幻様の声が聞こえてきた。


「約束は果たした。明日、ある神社に行ってもらいたい」


それが何を意味するのかよく分からなかった鏈は、不安な気持ちで眠りについた。


翌日の土曜日、鏈は霧幻様に言われた通り、家から数キロ離れた神社へと向かった。夏の日差しが照りつける中、汗を拭きながら山道を登っていく。


神社に着くと、境内には誰もおらず、静寂が支配していた。霧幻様の指示通り、裏手へ回ると一つの古びた祠が目に入った。その前には、小柄な老婆が立っていた。


「おや、こんな所に子供が来るとは珍しいね」老婆は優しく微笑んだが、その目には警戒の色が浮かんでいた。


鏈は緊張しながらも、霧幻様に言われた通りに返事をした。「はい、お参りに来ました。」


老婆は鏈をじっと見つめ、息をつく。「そうかい。まだ小さいのにしっかりした子だ。だが、この祠は開けてはいけないよ。分かったかい。」


鏈の中で霧幻様の声が響いた。「老婆を振り切って、祠を開けるんだ。」


戸惑う鏈だったが、祠へと一直線に向かい、祠に手をかける。


「何をするんだい!」老婆の叫び声が響き、背中につかみかかろうとするも、鏈は祠の扉を開ける。


その瞬間、視界が真っ黒に染まった。耳鳴りがし、目の奥が激しく痛んだ。しばらくすると意識が戻り始め、気がつくと鏈は一人、祠の前に立っていた。


家に帰ると、母親が驚いた表情で鏈を見つめた。


「鏈、目が…充血してるわ。大丈夫?」


鏡を見ると、鏈の虹彩の色が変わっていた。そして、その日から少しずつ、意識に変化が訪れた。


以前は何処か引っ込み思案で、自分の意志は後回しだった。だが周りを見渡せば、自分よりも弱気で、押しの弱い人など幾らでも居る。それに気づき、日に日に自信が湧いていくいく感じがした。


その夜、霧幻様の声が再び聞こえてきた。「今日はありがとう。私はまだ残りの2つを探し出さねばならない。」


夏休みに入ったある日、例のいじめっ子たちから川遊びに誘われた。断ろうとしたが、彼らは今までとは違い、幾分か友好的だった。断りきれず、鏈は参加を決めた。


川辺に着くと、小学6年生の先輩も一緒だった。最初は楽しく遊んでいたが、突然状況が一変する。


帽子が風で落ち、ある一人に流れ着く。鏈は返すよう求めるが、その子は楽しい事を思い出したかのように、帽子を仲間にパスし、取り返そうとする鏈をからかい始めた。鏈は以前では出せなかったであろう勇気を出し、抵抗を試みる。しかし力の差は歴然。鏈の顔が小6によって水面に押し付けられる。


十数秒が過ぎ、体を起こそうとすればするほど程泡を吐く、息が苦しくなる。意識が朦朧としてきた時、霧幻様の声がした。


「代われ、お前じゃ勝てない。」 


数秒が経った。


「やめろ」


何処から力が湧いてきたのか、顔を上げ、低く冷たい声が響き、鏈の目が鋭く光る。小6の先輩が鏈の目を見た瞬間、首を押さえて倒れ込んだ。他の子供たちは何が起きたのか分からず、単純な恐怖心からその場を逃げ出した。


鏈は必死に意識を取り戻そうとする。「返して!」


強い意志で、体の主導権を取り戻した鏈も、その場から逃げ出した。


夏休みも半ばを過ぎた頃、鏈は自室のベッドに横たわり、天井を見つめていた。窓の外では、蝉の鳴き声が静かな夜に響いていた。


不意に、疑問が湧いた。「霧幻様は…どうして僕の体を操れるんですか?」鏈は恐る恐る尋ねた。


霧幻様の声が静かに頭に響く。「私は…お前の本来の意志を表しているだけだ。お前が抑圧し、また抑圧されてきた意志をな。」


「本当の…自分?」


「そうだ。お前の中にある、素の自分でありたいという願い。それが私なんだ」


鏈は黙って考え込んだ。確かに、霧幻様と出会ってから、自分の中に眠っていた勇気が目覚めたような気がしていた。それからしばらく、自分の心の中を見つめ返す。窓の外では、蝉の鳴き声が夜の闇に溶けていった。


夏休みも後半に差し掛かった頃、家族で旅行に出かけた。車窓から見える景色が少しずつ変わり、都会の喧騒から離れていくにつれ、鏈の心にも少しずつ安らぎが戻ってきた。その頃には、霧幻様の存在も忘れかけていた。いや、忘れるよう注意をそらしていたのかもしれない。


早々に観光地を巡り終え、食事、ホテルでの卓球を楽しんだ後の夜、父親は地酒を飲みすぎて早々に寝てしまった。母親がトイレに行った隙に、突如として霧幻様の声が鏈の意識に戻ってきた。


「今すぐにロビーへ行け」


混乱する鏈は、わけもわからないままホテルの廊下に出た。眠気でぼんやりする意識を押し殺しながらエレベーターに乗り、ロビーに向かう。ロビーの前で突然、後ろから抱きしめられた。


「鏈!どこに行くつもりだったの?」


振り返ると、母親が心配そうな顔を自分に向けてきた。


「一緒にいるのは誰なの!?」


鏈と霧幻様、2人分の緊張が頭に走る。


「離せ!」


自分で体を動かしたのかは分からない。鏈は母親の腕をふりほどき、ホテルの外へと走り出した。真夜中の山道を、導かれるように進んでいく。気がつくと、小さな古いお寺の前に立っていた。


翌日、目を開けると、周囲の景色が歪んで見える。木々の緑がより鮮やかに、風の音がより鋭く感じられた。より五感が研ぎ澄まされていた。


家族で母方の祖父の家に立ち寄った。朝から母と目を合わせることはできなかった。第一、なぜ母にも視えているのか。玄関で祖父母に挨拶をする瞬間、鏈は底が見えない不安が湧き上がって来るのを感じた。


家に入ると、鏈だけが和室に通された。畳の香りが鼻をくすぐる中、霧幻様の声が聞こえてきた。


「最後の私の体は、近くの山にある。急げ。」


しかし、その言葉が終わるか終わらないかのうちに、和室の襖が開いた。祖父が厳しい表情で立っていた。


祖父が何をしようとしているのかは、理解したくなかった。


「お爺ちゃん、何を...」


祖父は鏈に近づこうとしたが、霧幻様が突如鏈の体を支配した。鏈の体は素早く動き、祖父の手を振り切って和室を飛び出した。


鏈は走った。玄関を駆け抜け、裏山へと向かう。


「鏈!止まりなさい!危険だ!」


しかし、鏈の体は止まらない。木々の間を縫うように走り、急な斜面を登っていく。息が上がり、足が痛むが、霧幻の意志に動かされ、前に進み続ける。枝が頬をかすめ、石ころが靴の底を打つ。呼吸が荒くなり、心臓が激しく鼓動を打つ。


息を切らしながら山を駆け上がる鏈の足取りは、次第に重くなっていった。木々の間から漏れる日差しが、汗で濡れた額を照らす。霧幻の焦りが伝わってくる。


「もう少し、もう少しだ…」


頭の中で響く声に突き動かされ、鏈は力を振り絞って走り続けた。やがて木々が途切れ、目の前に大きな岩壁が現れる。その下には、洞窟の入り口が口を開けていた。


「そこだ!入るぞ!」


霧幻の声が鏈の意識をより一層支配する。一歩、また一歩と洞窟に近づく。冷たい風が吹き抜け、背筋に悪寒が走る。


入り口に足を踏み入れ、進んでいくと突然、人影が現れた。


「待っていたぞ、鏈」


低く落ち着いた声が響き渡る。岩の陰から現れたのは、祖父だった。決意と悲しみに満ちた目で、鏈をじっと見つめている。


「お、お爺ちゃん...」


祖父の声に、不思議な力が宿っているようだった。


「今すぐそこをどけ!」


霧幻の叫びが、鏈の口から漏れる。しかし、祖父は動じることなく、さらに近づいてくる。


「苦しみは終わりだ」


祖父が数珠を掲げると、まばゆい光が洞窟内を満たした。その光は、鏈の体を包み込んでいく。


「ああああっ!」


鏈の口から悲鳴が漏れる。しかし、それは鏈の声なのか、霧幻の声なのか、もはや判別がつかない。


光が最高潮に達したかと思うと、突如として消え去った。

洞窟内にも静寂が戻り、夏も終わりを告げ始めていた。

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