カーネーションの酔夢
@hinayoshi4473
カーネーションの酔夢
某年10月、塾が終わり帰路に着く。家から塾は10分程度で着く。途中のT字路、突然人影が飛び出してきた。何か重いものが体に伝わる。意識がぼんやりと薄くなっていく。確実に死へ向かっていることへの恐怖が心を支配していく。時の流れがやけにゆっくりと感じる。例の人影の足音が段々と遠のいていく。
ニュースは連日の通り魔事件ばかり取り上げている。同じ市内での事件で物騒なものだと思っていたものの、まさか自分の姉が被害者になるだなんて…暗い気持ちを紛らわすためにもすぐにテレビのチャンネルを変えた。今は好きなバラエティ番組も笑えない。当たり前のように過ごした二人の日々を思い出す。もっと話しておけば、もっといろんなところに一緒に行きたかった。今になって後悔が募る。一連の通り魔事件は先月の初め、姉である斎藤花乃の同じクラスである香山圭佑が自宅近くの道路で血を流して倒れているのが発見された。初めは計画的な犯行も考えられ、身近にいた人間から事情聴取が行われていたが、同じ月に地元の河岸に変死体が破棄されていたことや、関係性の薄い殺人事件が幾つか重なったことで地元警察は通り魔事件と扱うようになり、全国的にも知られることとなった。その矢先に姉は死んだ。犯人は依然として捕まっておらず、姉の事件もあり、全て同一犯なのかもわかっていない。母はげっそりと痩せ細り、目から光が消えている。周りからの慈悲のような視線が嫌いな母は自分を連れて祖父母の家にしばらく泊めてもらうことになった。同じ市内だというのに夜遅くまでガヤガヤしている我が家とは対照的に自然が多く人工物の少ない母の実家に居ると心が落ち着く。近くの田んぼの周りを生い茂る芒は太陽の光を帯びてオレンジの波を描く。その風景に見とれる自分に構ってくれと主張するように映えた紅を見せつけてくる木々たち。ミレーやモネのような巨匠でさえ切り取りたくなるような風景を前に幸せとは何かを考える。当たり前のように生きている今日も姉のように突然終わることもある。そんなことを一人ボヤッと考えて歩く自分は、祖母の慌てた声で我に帰る。
「則子がいないの。」
母の行方は翌日になっても分からず、捜索願を出そうかと祖父母と相談をしていると家の電話が鳴った。祖母は見ない番号だと首を傾げながらも受話器を取る。通話が終わり内容を聞くと、どうやら母は市街地の病院にいるらしい。自分は祖父母の家に長い間放置されてたのであろう、錆かかった自転車を引っ張り出し、片道約5キロの道を猛スピードで突っ走る。この辺りの10月の暮れというのは昼であっても肌寒い。自転車の進行を邪魔するかのように冷たい空気は容赦なく自分に吹き付けてくる。周りが田んぼしかなかった畦道が少しずつ舗装されたコンクリートになるに連れて道行く人も多くなる。30分程で母のいる病院に着き、軽い受付をした後案内された母の部屋へと入る。とりあえず見つかった安堵感と病院特有の緊張感を連れてベットのカーテンを開ける。突然のことに少し驚いたような母は、えも言えぬ感情に浸る自分をよそに、口を開く。
「お前は誰だ?」
家に帰った後も胸の鼓動は止まらない。あれは確かに母だ。斎藤則子だ。なぜ息子である自分が分からなかった?記憶喪失してしまったのか?嫌なことが頭を廻るなか、同時に衝撃の一言で逃げ帰ってしまった自分を恥じる。予想もしなかった母からの言葉に自分は即座に
「すみません!部屋間違えました。」
と言って、病院を出てきてしまった。まず母がお前なんて言葉を使ったことに動揺した。普段から言葉遣いには厳しく、自分がそんな言葉を使ったら間違いなく叱ってくるはずだ。そして人が変わったかのような鋭い目つき。母のおっとりとした優しい顔からあの恐ろしい眼光が飛んでくるなど思いもしなかった。母の現状を信じがたい自分は、祖父母からどうだったか聞かれても、元気そうだったと嘘をつくことしかできない。きっと今の母を見れば、祖父母が自分よりも悲しくなることはある程度予想がついた。
翌日の午前中、また病院から電話があり、母の体調は大丈夫そうだと診断された上で、お昼過ぎにはタクシーで家まで戻ってくるという。祖父母の安心したような表情に胸が痛くなる。もう時間はない。そう思って腹を括って自分から見た母を正直に祖父母に話した。二人は少し驚き、躊躇ったものの意外にも落ち込んでいない。
「もう二人とも長くはないんだ。則子が無事に帰ってきてもらえることが、一番の幸せなんだ。
一ヶ月のうちに大切な人二人も失うなんて耐えがたいことだろ?」
祖父がゆっくりと少し眼を赤くして話す。
「死ぬってさ、なんか実感のないものじゃない?
あって当たり前のものではあると思っていても、実際に身近な人が死んで初めて、命の大切さに気づくの。則子が変わってしまってもそれは則子なの。だってこの世にいる斎藤則子は彼女だけなんだもん。」
祖母はハンカチで目頭を押さえながら話している。ちょうど祖母が話し終えたとき、家のインターホンが鳴った。
家に入ってきた母は少し不安そうに周りを見ている。家に上がってもソワソワしてる母に何かを察した祖父が、
「悠翔。則子を部屋まで連れて行ってくれ」
と言う。壁に触れながらゆっくりと階段を上がってくる母に恐る恐る
「僕のこと忘れちゃったの?」
と聞いてみる。母はわざとらしく首を横に振り、その後に聞こえないくらいの声で何かボソボソと呟いている。部屋まで案内し下へ降りて行くと、祖父母が黙りこくっている。何とも口を開けられないような重い空気が部屋を取り巻いている。夕食の時間になり、母も一階へ降りてきて、2日ぶりの4人での食事でも会話が全く進まない。黙々と目の前の食事に向き合っている中、妙な違和感に気づく。あれ母さんて、左利きだっけ?
食事が終わり、各々が自分の部屋へと戻っていく。母は本当に変わってしまったようだ。それは記憶喪失というより、誰かと人が変わってしまったようだ。不自然な言動、逆の利き手、そして明らかに変わった性格。祖母は変わっても母は母だと言ったが、今の母は絶対に違う。その妙な自信が自分を突き動かす。母の部屋へ入り、手を掴んで壁に押さえ込む。
「お前こそ誰だ?言え!」
気づいた時には大粒の涙が溢れていた。母は自分の言葉を聞くと反抗しなくなり、スルスルと壁にもたれて座った。母も涙を流しながら、
「俺だってわかんねぇよ。ここがどこで、お前らが誰なのか。お前のお袋さんでもねぇ。俺はな、最近ニュースで話題の通り魔の犯人なんだよ。」
思ってもいなかった発言に言葉が出てこない。目の前にいる人間は母の着ぐるみを被った殺人犯ということなのか?
「姉さんを殺したのはお前なのか?」
動揺して震えた声を少しでも冷静にするように、静かな口調で聞く。女は目を少し見開き、
「斎藤って。まさかお前は斎藤花乃の弟で、この俺の正体はあいつの母親ってわけか?」
姉の名前がスッと出てきたことに驚く。
「姉さんと知り合いなのか?」
「知り合いなんてもんじゃねぇ!あいつも俺と同じ、歴とした殺人犯じゃねぇか!」
大野駆は酷い家庭環境で育った。ギャンブル依存で酒癖の悪い父は、酔っ払って帰った後よく母や息子たちに暴力を振るった。愛想を尽かした母は夜逃げ、地獄の日々の始まりだった。それでも唯一の救いは妹の綾だった。どんなに辛くても笑顔でいてくれる彼女は天使のようだ。そんな天使は突然姿を消した。自宅のマンションの屋上から飛び降りたのだ。自宅に残した遺書には、兄への感謝がびっしりと書かれていた。後日学校に行き
担任と話す機会があった。どうやらクラスでいじめがあったらしい。教師の目から見ても流石に度が過ぎていたこともあり、何度も注意をしたが、現状は変わらなかったそう。何とか担任の同情を得て、いじめてた奴らの名前を得た。香山圭佑、早坂蒼そして斎藤花乃。
「お前トロッコ問題って知ってるか?」
長々と話した後、急に聞いてきた。
「少数の命か、多数の命か?何もしていない少女一人と、殺人犯3人だったら、お前はどちらを助ける?」
「あんたは自分勝手だ。殺人犯ならなんでもしていいのか?その人を取り巻く人間のことを考えもしない。あんたが妹失って悲しんだように、俺も姉さん失って悲しんだ。母さんだって。」
「お前ごときになにがわかる!お前はいろんな人から愛されてきたんだ。両親、親戚もちろん姉ちゃんにもな!俺みたいな愛を知らない人間の辛さがお前なんかにわかるはずもねえんだ!」
「僕はあんたのことなんか何にも分からない。でも大切な人を失った辛さは同じくらいわかる。姉さんが裏でどんなことしてようが、それで殺されたのはしょうがないなんてことにはならない。何のために日本には司法があるんだ?人の命の価値を測るのはお前じゃない。どんな人でも殺してもいいなんて人いるわけないだろ!」
気づいた時には朝になっていた。夢だったのか?そんなこと考えて顔を洗いにいく。目の周りが真っ赤になっている自分に驚く。母の部屋を少し覗いてみると、母も目を真っ赤にしながらまだ眠っている。本棚に入ってた本が床に散乱している。壁に押さえ込んだ時に落ちたものだ。夢じゃない?色々なことが頭を駆け巡るなか、進まない食パンを無理矢理流し込み、まだ薄暗い外へ出てみる。何となく周りの目を気にしてきた人生。一度しかない人生、いつ終わるかわからない人生。
リビングに戻ると速報が流れている。
「〇〇市で起きていた連続通り魔事件の犯人が、今朝警察署へ出頭しました。」
昨晩の出来事は夢なのかもしれない。人の中身が変わるなんてフィクションのようなことを受け止めていた自分は、今思うと冷静すぎた。昨日の表情はどこかへ行ったように優しい顔の母が降りてくる。今朝も辺りはオレンジの風が吹いている。
カーネーションの酔夢 @hinayoshi4473
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